読み物
第14回 ひとりで食べる、誰かと食べる
更新日:2022/07/20
では、わたしにとって「食べたなかで一番おいしいもの」とは、なんだろうか。
この連載の中でも、記憶に残る「食」についても書いてきた。たとえば、叔母さんが作ってくれたカレー。あるいは、父が煮てくれたリンゴ。「一番おいしいもの」とはいえないかもしれないが、どちらも、記憶に深く刻みこまれた食べものだったことは、疑いの余地がない。
いや、思い出そうとすると、まるで、満天の星のように、「食べたなかで一番おいしいもの」の候補たちが、蘇ってくるのである。
幼い頃、わたしの枕もとには、必ず「おめざ」と称するお菓子が置いてあった。まだ、家が豊かだったからだ。それは、高そうな和菓子や、外国製の(たとえば「ハーシー」の)チョコレートだった。起きると、まず、わたしは、その「おめざ」を食べた。いまでも、わたしは、一部の和菓子(たとえば、「きんつば」)やチョコレートに目がない。食べだすとキリがない。食べていると、なんだか気持ちが落ちつく。それは、3歳や4歳の頃(もしかすると、その前)の「おめざ」の習慣から来ているのかもしれない。
その頃、母親は「お八つ」も自分で作っていた。砂糖を鉄板の上で焼いた「ざらめ」菓子、ドーナツも、母が大きなフライパンで揚げてくれた。あの、なんともいえない甘い味は、最初に住んだ家の暗い台所の記憶の中に埋めこまれている。
そうだ。だから、ダンキンドーナツのカラフルな製品ではなく、シンプルな茶色いドーナツを見ると、口の中に涎がたまってくる気がする。それだけではない。あの揚げていた油の匂いも蘇ってくるような気がするのだ。
60年以上前、昭和30年代の子どもたちにとって「外食」、たとえばデパートで食べるというようなことは、お祭りに参加するようなものだった。わたしが連れていかれたのは、大阪梅田にある「阪急百貨店」だった。「阪急百貨店」には、最新式のエレベーターがあった。いまとは異なり、編み目になった鉄の扉が蛇腹のようにゆっくり開閉する、エレベーターだ。上を見ると、真っ暗な空間に鉄のワイヤーが遥か上に向かっているのが見えて、子ども心にも怖かった。これとそっくりのエレベーターが、東京「三鷹の森ジブリ美術館」の中にある。宮崎駿さんも、きっと若い頃に、そんなエレベーターに乗ったのだろう。もちろん、エレベーターの中には、若い女性の運転係が乗っていて、案内してくれるのだった。そのエレベーターに乗って、その7階(いや、8階か9階だったかもしれない)の大食堂に行き、食事をする。そして、その後、さらに屋上に上り、小さな遊園地で遊ぶのが楽しみだった。わたしは、その食堂で、生まれて初めて「ハンバーグ」というものを食べた。あと、「オムライス」というものも。あるいは「お子さまランチ」を。「マムシ」というものさえあったが、それは「ヘビ」の一種ではなく、「鰻丼」のことを「マムシ」と呼んでいたのである。そう、それから、子どもなら誰だって好きだった「クリームソーダ」。でも、いちばん鮮明に覚えているのは、足を載せる小さな板がついた「子ども用のイス」だ。あのイスを見ると、なぜか心臓がドキドキするのを止められないのだった。「ハンバーグ」も「オムライス」も「お子さまランチ」も「マムシ」も「クリームソーダ」も、あの「子ども用のイス」に座って食べたからこそ、美味しかったのかもしれないのだ。
こんなふうにして、「食べたなかで一番おいしいもの」を考えていると、それは同時に、自分の過去を思い出すことに繋がってゆくのである。
もちろん、「食べる」ことそれ自体は、その瞬間に終わり、二度と戻ることはない。そして、食べられたものは体内に入り、福岡伸一さんのことばを借りるなら、あるものは、「動的平衡」である人間の肉体の一部となり、あるいは、エネルギーに変換され、またあるものは、体外に廃棄物として放出される。それ以上でも、以下でもない。おそらくは、ほとんどすべての生物にとって「食べる」ことはそのような、単なる営みであるにちがいない。
だが、我々人間だけが、「食べる」ことに、別のなにかを付与するのである。
それが、たとえば、「食べたなかで一番おいしいもの」とはなにかを考えることだ。そんなことに意味があるのか。過去に食べたものも、それでつくられた肉体も、それらに関わる物質的なもの一切がすでに消滅したというのに。
意味があるのだ、と思う。
わたしたち人間には、身体がある。それは、現在を、今という瞬間の、わたしたちの物理的存在である。その物理的存在を維持するために、わたしたちは「食べる」のである。
だが、わたしたち人間は、ただ物理的存在であるだけではない。「食べる」という、きわめて単純な、その行いによって生きるわたしたちには、もう一つ、別の存在の仕方がある。それは、非物理的存在。つまり、実在していないなにか、である。いうまでもなく、それは、記憶や過去や歴史と呼ぶべきなにかだ。
だが、ほんとうに、「それ」は実在しないのだろうか。
たとえば、1枚の古い写真がある。
セピア色の、その写真の中で、大きな屋敷の門の前に3列に並んで人々が正面を向いている。いちばん前の列の、まん中より少し右側に、まだ若い父親と母親とおぼしき人物が、生真面目な顔つきで、やはり正面を向いている。そして、母親の腕の中には、着物に埋もれてはっきりとはわからないが赤ん坊がいるようだ。
その赤ん坊は、71年前のわたしだ。そこに参集した、三十数名の人びとの中で、いま生きているのは、おそらくわたしだけだろう。両親も、それぞれの祖父母たち、親戚の面々、その家の跡取りとなるべき男児の誕生を祝って集まり、最後に記念写真におさまった人びとは、もうこの世には存在しないのである。その赤ん坊をのぞいては。
そうだろうか。わたしは、その写真を、ときどき眺めながら、彼らがもう存在しないことを信じられないでいる。わたしの中で、彼らはまだ生きているからである。
いや、正確にいうなら、わたしだって、ふだんは彼らのことをすっかり忘れている。遠い過去に生きていた人のことなど、いまのわたしには関係ないからだ。けれども、なにかの瞬間に、なにかがきっかけとなって、彼らの姿や声が蘇ってくることがある。時間そのものが蘇ってくるのである。
「そんなある冬の日、私が家に帰ってくると、母が、私のさむそうなのを見て、いつもの私の習慣に反して、すこし紅茶を飲ませてもらうようにと言いだした。はじめはことわった、それから、なぜか私は思いなおした。彼女はお菓子をとりにやったが、それは帆立貝のほそいみぞのついた貝殻の型に入れられたように見える、あの小づくりでまるくふとった、プチット・マドレーヌ(原文傍点)と呼ばれるお菓子の一つだった。そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しとにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間に、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせたのであった、あたかも恋のはたらきとおなじように、そして何か貴重な本質で私を満たしながら、というよりも、その本質は私のなかにあるのではなくて、私そのものであった。私は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものと感じることをすでにやめていた」(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』1 第一篇「スワン家のほうへ」第一部「コンブレー」井上究一郎訳、ちくま文庫)
マルセル・プルースト『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家のほうへ』
井上究一郎(訳)
ちくま文庫
世界文学の中でも、もっとも有名な一節が、これだ。そして、ここに書かれているのは、食べものと記憶の関係なのである。子ども時代に食べたものと同じものを食べた瞬間、この長大な小説の主人公である「私」は、一気に時間を遡る。考える余裕などなく、気がつくと、なにもかもが許されていた子どもの頃に戻っていたことに気づくのである。
二十数年前、わたしは某テレビ局のスポーツ番組にキャスターとして出演していた。メインキャスターは元巨人軍の江川卓さんである。1回目の放送が終わって数日後、江川さんはあるレストランにわたしを招いて、一本のワインをご馳走してくれた。江川さんが、日本でも有数のワインコレクターであることをそのときまでわたしは知らなかった。いや、正確にいうなら、江川さんは、集めるのが趣味であるコレクターではなく、飲むことがなにより好きな愛飲家であった。江川さんは、わたしにこういった。
「タカハシさんのために、探したワインです。中々見つからなくて、群馬のワイン業者のところに1本だけありました」
それは、いわゆる「グランヴァン(偉大なワイン)」の一つ、ボルドーの「シャトー・ラ・ミッション・オー・ブリヨンの1951年」というものだった。1951年は、わたしの生まれた年である。江川さんは、その年のワインをわざわざ探してくれたのだ。いまなら、わたしにもその価値はわかる。けれど、そのときには、わたしには、そのワインの価値などまるでわからなかった。
大きなグラスにゆっくり注がれた、深い、暗く、赤いワイン。
「ゆっくり嗅いでください」と江川さんがいった。わたしは、グラスを手に持ち、ゆっくりと鼻先に近づけた。その瞬間、いままで一度も感じたことのない不思議な感覚がわたしの中に生まれた。わたしもまた、プルーストの「私」のように「身ぶるいし」、「私のなかに起こっている異常なことに気がつ」き「すばらしい快感が私を襲った」のだ。
気がつくと、わたしは、小学校4年から6年までを過ごした、船橋小学校の校庭にいた。そして、校庭の端にあった鉄棒の脇に立っている。そんな気がしたのである。その時、わたしは40歳を過ぎて少したった頃で、それから30年ほど前のことを思い出したのだ。まるで夢を見ているようだった。そのことを江川さんにいうと、江川さんは、こう答えた。「よくあることですね。このワインはミネラル香が強いので、そこから、鉄や錆に関する記憶が蘇ったんだと思いますよ」
記憶中枢と嗅覚の間にどんな関係があるのかわからない。けれども、確かに、匂いは、とりわけ食物の匂いは、わたしたちの中に埋もれてすっかり忘れられていた記憶を、呼び覚ます力があるのだろう。
食べることと、「ただ食べること」は、まるでちがったことなのである。
食べることが簡略になり、ほとんど意味のないもの、できれば避けるもの、単に生命を維持するために必要なものになるときが来たら、そのとき、わたしたちはどうなるのだろう。食べることの多様性が失われ、誰もが、配給された同じものを食べるようになったら、そのとき、わたしたちの記憶は、どうなるだろう。チューブ食しかなくなったら、それを食べる人間に、世界はどんなふうに見えるだろう。ときどき、わたしは、そんなことを考える。そして、そうでなくて良かったと思いながら、でも、ほんとうにそうなのだろうか、と不安になるのである。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。