読み物
第13回 最後の晩餐
更新日:2022/01/19
「食べる」以上のなにか
最近、個人的に流行っているのは、「PROTEIN BREAD」だ。1個(およそ100グラム)で、なんとプロテインが20グラム、食物繊維が21グラム、というスーパー食品。アマゾンで買って、レンジで温めて、ジャムやハチミツやクリームチーズをつけて食べる。これが、しっとりしていて、信じられないぐらい美味いのである。どうなっているのやら。同じ方向性のパンとして、コンビニでもよく売っている「BASE BREAD」があるが、あちらは、タンパク質は少ないし、食物繊維となるとさらに少ない。おまけに、決定的に不味い……。パサパサなんだよね。もう、パンに関しては、「PROTEIN BREAD」一択。まあ、355キロカロリーもあるので、問題はそこだ。なので、わたしは、必ず一かじり分だけ残すことにしている。これを称して「気分だけダイエット」。そういう心意気も、「ダイエット」には大切なのである。たかが一かじりとバカにしてはいけない。塵も積もれば、だし。千里の道も一歩から、だ。それもまたダイエット、いや、健康であることへ繋がる道なのである。
とはいえ、人生最後に「PROTEIN BREAD」を食べるか、と問われれば、いや、それはちがう、と答えるしかないと思う。栄養は最高、しかも、けっこう美味い。食物として、問題はなにもない。そういうものばかりを食べる、という選択肢もある。しかし、人間がなにかを食べるということは、単純ではないのである。
少し前、「健康食」ばかり食べている夫婦が描いたエッセイマンガを読んだ。とにかく、ふたりは、健康によいもの、ダイエットに向いたものばかりを食べるのである。その執念、そして、そんな食品への知識欲はすさまじい。しかし、そのマンガを読んでいると、なんとなく、うら寂しい気分になってくるのだ。味の話も、「美味しい」のひとことも、ほとんど出てこない。画力がある分、その夫婦が食べる描写がリアルで、しかも、ふたりの会話といえば、「これ栄養あるよね」とか「ダイエットにいいよね」ばかり。そして、その食べる様子ときたら、まるで餓鬼の如く、ガツガツとなのである。そこにあるのは、もはや、食べ物ではなく、なにか「餌」に似たものであった。いや、まいった。「食べる」ということは、「食べる」以上のなにかを含んでいるはずなのに、である。
中華スープ、リンゴを煮る
父が亡くなって、25年ほどたつ。時が流れるのは早い。気がつくと、あと6年で、わたしは、父が亡くなった年齢に達する。
父は3度、癌になった。転移ではなく、どれも原発性の癌だった。1度目が胃癌、2度目が十二指腸癌、3度目も胃癌。3度目に入院して、しばらくたって、わたしと弟に会いに来てくれという連絡があった。母と別居後、世話してくれていた叔母も亡くなり、祖母もとうに亡くなった父のところには、弟が時々、見舞いに訪れていたが、わたしは見舞いにも行ったことがなかった。そして、わたしたち親子は、3人で会った。別居していた母は、もちろん顔を見せなかったが。きちんと親子で話したのは、それが最後だった。
場所は、病院の近くの中華料理屋だった。グルメでもあった父がいちばん好きだったのは、どうやら中華料理らしかった。というか、若いころ(もちろん戦前だ)、中国で遊び、中国人のガールフレンドが何人もいたというから、なにかしら思い出があったのかもしれない。現れた父は、末期の癌患者らしく骸骨のように痩せていた。
父の用事は、「死後の後始末」についてだった。父自身に財産はほぼなかったので、悩む必要はなかった。豊中の実家(父の、というより、祖母が住んでいた高橋家のものだが)も、父が亡くなると、住む人がひとりもいなくなるので、処分してほしいということだった。狭い土地と古い家屋なので、ほとんど価値はないが、もうこの世に残す必要はない、という意向だった。それから、自分の身の回りのものもまたすべて始末するように、葬式については、家族(わたし夫婦、弟夫婦)だけですますようにといった。そして、死亡を通知する人たちのリストを渡すと、参列の必要はないことを付記するよういった。そして、それだけいうと、父は、ホッとしたようにためいきをついた。
「やれやれ、これで肩の荷がおりたわ」
そして、最後の晩餐が始まった。なにを注文したのかは、忘れてしまったが、父は、その店の名物の中華スープを頼んでいた。固形物はもうなにもとれなくなっていたので、父親は、上澄みだけをすくい、ゆっくりと一口すすると、心の底から、ひとりごとをいうように、こういった。
「ああ、うまいなあ……」
三口か四口くらいすすったところで、父親は食べ終えた。
「もう、いいわ。思い残すことは、もうなんもない。あとは、あんたらが食べなさい」
わたしと弟は黙って食事を続けた。食事が終わると、代金は父が払った。
「もう、金なんかいらんからな」と父はいった。
病院まで送っていこうか、とわたしはいった。すると、父は、こういった。
「いや、歩いて帰る。近くやから」
父は、小児麻痺の後遺症で、左脚は右脚の半分の太さもなく、しかも、5センチ以上短かったので、ひどく引きずって歩いていた。特に晩年は、その脚の具合も悪化して、見ていてハラハラするほどだったのだ。それでも、父はひとりで帰りたがった。
わたしと弟は、店の前で、父を見送った。ギッコンバッタン、なにか特殊な人形が歩いていくようだった。
父が亡くなったのは、それから3週間後だった。一度危篤になり、わたしは大阪まで出かけたが、話しかけても、せん妄状態にあった父はわたしに気がつかないようで、「ウンコを漏らした……もうお終いや」と泣いていた。医者に訊くと、「とりあえず危篤状態は脱したので、一度、お戻りになっても結構です」と答えた。だから、わたしはそのまま、東京に戻った。戻ってすぐ、次の日の明け方、弟から、父が亡くなったという電話が入った。慌ててUターンし、病院に駆けつけると、弟が先に来ていた。父は目を開けたまま亡くなっていた。弟は、わたしにいった。
「誰も周りにおらんかったんや。瞼を閉じようとしても閉じへんわ」
わたしは、高校を卒業してからずっと実家には戻っていない。すぐに同棲して、結婚を何度か繰り返した。よく考えてみると、19歳からは、いつも誰かと住んでいて、その誰かが料理をしてくれた。だから、ほとんど料理をした覚えはない。料理をするようになったのは、ここ数年、ダイエットをし始めてからだ。わたしにとって、ダイエットの効用は、健康を取り戻すためにというより、料理を自分でするようになる、という点にあったのかもしれない。
料理をすると、わかるようになることはたくさんある。ほんのささいなことだ。いまでは、ドレッシングをいくらでも、アドリブで作れる。味噌汁を作るときは、煮干しで出汁をとる。そこまでやる必要はないのだが、そっちの方が美味いからである。マヨネーズをメインにしたドレッシングを作って、味にパンチが効いてないなと思うと、ラー油を入れる。そんな智恵は、いままではもちろんなかった。そして、そうかあの時彼女が作ってくれたドレッシングにはラー油が入っていたのか、と気がつくのである。
彼女たちが作ってくれた料理を、わたしはただ食べるだけだった。どんなふうに工夫して作っているのか、知らなかったし、知ろうとも思わなかった。
いや、全く作っていなかったわけではない。彼女たちが作れないとき、それから、赤ん坊のための離乳食を作るとき、そういうときには、わたしも作った。だが、それは、結局、「特別なとき」の料理だった。台所、あるいはキッチンという世界で、ふだんなにが起こっているのか知らなかったな、といまでは思う。そのせいで、浅はかになっている部分は、確実にあると思う。もし、ダイエットという名の下に、ふだん料理を作ることがなかった男性が、台所に向かうなら、そこには、ダイエット以上の価値があるように思う。料理、あるいは、台所は、特別な世界なのである。というか、ほんとうは、誰もが知るべき世界なのではあるまいか。
父もまた、わたしなど遠く及ばぬほど、料理と縁遠い男性だった。というか、男尊女卑、男性中心主義の権化のような男だった。なにしろ、わたしが小学生の頃、授業に「家庭科」があるというので、「男に家庭科なんか必要ない。料理や裁縫をやらせているらしいが、そんなつまらんことを、男にやらせるな」と学校まで抗議にいったのだ。困った男である。
だから、わたしの知る限り、父は、一度も台所に入ったことがなかった。茶の間の食卓の前に座るとてこでも動かなかった。もう見事なほど、昭和(戦前? 大正?)の男だったのである。
一度だけ、父が「料理」をしたことがある。父が経営していた会社が倒産し、ヤクザの取り立てから逃れて東京に夜逃げした後、わたしが小学校2年の頃だ。
わたしたちは、東池袋の6畳と3畳の小さな家に間借りをして、家計は母が銀座に勤めに出ることで支えていた。それでも、ひどく貧乏だった。父は無聊を抱えたまま、やるべきこともなく家にいた。夜遅くなっても母が帰らず、ひどく空腹だったことがある。父に空腹を訴えると、突然、鍋にリンゴと水を入れ、砂糖を加えると、ニクロムヒーター型の電熱器の上で煮始めた。なにが始まるのかと不安と期待で一杯になった。リンゴが煮詰まるまで、弟と、その鍋を凝視していたように思う。薄暗い電気の下で、コトコト煮られているリンゴ。父と料理。この世でいちばん似合わぬものだった。記憶ははっきりしないのだが、たぶん、不味かったと思う。なぜ、そんな突飛なことを父はしたのだろう。おそらく、唯一食品として存在していたリンゴを用いて、子どものために菓子を作ってやろうとしたのではないかと思う。いったい、どこで、「リンゴ菓子」の概念を得たのだろう。父の実家には、そんな菓子を食べる習慣はなかった。だが、実は、夜逃げ直後には、比較的豊かな暮らしをしていて、そのときには、きわめてモダンで「ハイカラ」な生活をしていた覚えがある。朝は、サイフォンを用いてコーヒーを入れ、バター付きパンとベーコンエッグの朝食だった。そういえば、夜逃げの前も(幼稚園時代)、朝起きると、枕元には必ず、「お目覚(めざ)」と称する、お菓子がおいてあった。だいたいは和菓子か、「ハーシーの板チョコ」であった。ということは、どこかで深く、洋風の生活に傾倒していた時期が、父母にあったのかもしれない。それが、深夜の「焼き(煮?)リンゴ」になったのだろう。もちろん、真意はわからない。訊いておくべきだったが、その質問をすることはもうできないのである。
そんな父も、母が家を出た後、祖母(父にとっての母)や叔母が亡くなって、自分の世話をしてくれる女性がひとりもいなくなると、ついに料理を始めたそうだ。わたしは、その様子を見てはいないが、弟は眺めたことがある。最初のうちは、料理とはいえない体のものだったが、やがて、料理らしきものになっていったらしい。
料理をするようになった父は、変わったのだろうか。おそらく変わったのだと思う。母について、どう思っていたのか。そしてどう思うようになったのか。そのことも訊いておきたかった。いや、いま思うのは、どんな料理を、どんな工夫で作っていたのかを訊いておきたかったことだ。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。