読み物
第13回 最後の晩餐
更新日:2022/01/19
余命3カ月、お鮨
『人生最後のご馳走』に戻ろう。
西村恵美子さん(74歳)は肝臓癌の末期患者だ。お好み焼き屋を営む母のもとに育った。6人の兄弟姉妹の下から2番目、学校を卒業して勤めに出たが、母が体を悪くしてからは、会社を辞めて母の世話をした。91歳で母が亡くなるまで35年ほどずっとそばにいた。
「お母さんの最期はな、冬のよく冷える時期やった。寒い寒いと震えるので、うちが抱きかかえて、『こんでええか、こんでええか』と体をさすったら、『ありがとう、ありがとう』って息を引き取ってね。幸せやったん違うかな。
そのあとは、兄や姉が『えみちゃんの好きにしたらええ』と言ってくれて、今まで気ままにさせてもらってな。みんな優しいわ。
隣に住んでる姉家族とは、食事は一緒に食べてた。独り者といっても、ずっと大家族で賑やかなもんやわ。家族の料理は私が作ってな。そんなん苦になったこと一回もないわ。お魚は何でも料理するし、冷蔵庫の野菜を炒めたり大根を炊いたりきんぴらを作ったり、あり合わせの材料で何でも作る。料理するのは楽しいやん。出来合いの総菜なんか買ったことないで。
姉は早くに亡くなったので、姉の子は姪と言っても自分の娘みたいなもんやねん。今は結婚して滋賀で暮らしてるけど、病院にもよく顔を出してくれる。
えっ、あの子にも話を聞いたん? 私のそうめんのつゆが美味しいって? 本人にはそんなこと言わへんけどなあ。ふーん。
(中略)
病気がわかったのは去年の12月。自覚症状なんてまったくなかったわ。兄弟姉妹が全員揃って病院に寄ってくれたから、ああこれはもうあかんねんなあとわかってね。これ以上心配かけられへんと思って、『いつまで生きられるんですか』とうちから先生に聞いた。早くて3カ月。遅くて4カ月と言われたわ。
前の病院でのことやけど、お正月は年末から2日まで帰宅させてもらえて、その間に身の回りのものを箪笥ひとつにまとめたわ。これまでに何人も見送ってきたから仕方はわかるし、残った人間を狼狽(うろた)えさせたらあかんやんか。洋服や着物も整理して、葬儀に使う写真はこれ、草履と数珠はこれを使ってとまとめておいて、後のことは全部家族にもう伝えてある。だから何も心配ないねん。
うちは食べるのが命。食べたいもん食べられなかったら生きた楽しみないやんか。ベッドに寝て天井を眺めてると、『こないして死ぬのを待ってるだけなら死んだ方がましや』って考えるやろ。一か八かでいいから、できることやって欲しいと前の病院の先生に頼んで、胃を広げてもらう管を入れてもらったら、またこうして食べられるようになってん。
この病院に入ることになって、先生から何でも食べていいと言われたとき、『あとは、ことん、やな』と思ったわ。でも悔いはない。やれることはやったし納得がいってる。好きなお鮨をこうしてまた食べられるなんか、嬉しいやんか。家に帰ったときに2つ下の弟は料理まで作ってくれるねん。あの子もなかなかええ味してる。同級生3人ともあちこち食べ歩いたわ。先月は具合悪くて行かれへんかったけどなあ。
料理は作る人によって微妙に味が変わるやろ。ここのおつゆの味も、料理人が変わる日があるのかちょっと変わるねん。そこまで味にこだわってるってことやろ。盛りつけも少しずつ凝ってるわ。うちはようけ食べ歩いてるから見たらわかる。入院する前に、ここの副院長の池永先生が『食事は美味しくなかったら栄養にならない。だからうちの病院は料理にこだわってます』って言ってはった。入院して初めての朝にお味噌汁を飲んだとき、『ああ、ええ味してるなあ』と納得したわ。
姪っ子が、『えみちゃん、顔の黒いの取れてきた』って言ってたわ。今朝はあの子がきれいに化粧もしてくれてん。美味しいもん食べられて、家族も優しくしてくれる。ここは看護師さんもみんないつも冗談言ってくれるから楽しいやろ。なんでも塩梅してくれるから得やわ」
この時、西村恵美子さんが食べたのは「一口で食べられるように少し小ぶりに握られた鮨」だった。そして、さらに、その鮨の写真のキャプションは、こう続いている。「〆た鯖も調理師による自家製、表面に丁寧に入れられた包丁にも食べやすさへの気配りが見える。食べ歩きが好きだった西村さんには、お店で出すようにバランを敷いて」
わたしは、この、見知らぬ老婦人のことばを読みながら、亡くなった叔母のことを何度も思い出した。以前の連載でも取りあげたことのある、わたしの弁当のおかずに、しょっちゅう、芋の煮ころがしを入れてくれた、叔母である。
西村さんの関西弁が、叔母のことばづかいによく似ているせいもある。また、生涯、その母親、わたしにとっての祖母に仕えたこともまたよく似ている。そして、一族みんなのために、料理を作り続けたこと、みんなを看取って、亡くなっていったことも。
叔母は父の妹だった。祖母(父の母)にはたくさん子どもがいたので、いちばん末っ子が、叔母だった。上の兄や姉は、結婚したり、死んだりして、次々と、家から出ていった。叔母は、あまり頭が良くなかったし、器量の方は、はっきりいってよくなかった。上の兄や姉たちが、みんな優秀だったり、美人だったりしたので、両親(祖父と祖母)はすっかり困ったらしい。それでも、父が(つまり、彼女にとっての兄が)、友人に頼みこんで、結婚してもらうことになった。その友人がなぜそんなことを引き受けたのかはわからない。父は、その友人の弱みでも握っていたのだろうか。あるいは、裕福な家だったので、多額の持参金でも持たせたのかもしれない。ところが、新婚初夜が明けて、夫が台所に行ってみると、先に起きていた叔母が、朝食を作っているところに遭遇した。その朝食というのは、チャーハンで、しかも、叔母は鼻クソをほじりながら作っていたのである。叔母は、即日、実家に戻された。その友だちは、父に、泣きながら「絶対無理だ」といったそうである。しかし、そんな話を、親戚全員が知っている、というのも、どういうものだろう。
実家に戻った叔母は、それから死ぬまで、二度と実家を離れなかった。帝塚山に実家があったときには、家族全員にひとりずつ女中がつき、そんな女中たちをまとめる女中頭までいたほど豊かな家だったが、帝塚山から豊中に移ったときには、すっかり零落して、女中はひとりもいなくなった。家事をしたことのない祖母には、女中代わりに仕えてくれる叔母は、必要欠くべからざる存在になった。父が結婚した頃には、叔母はもう実家に戻っていたから、そこから数十年、叔母は実家の家事をして過ごした。なにより、料理を作り続けた。わたしは、古めかしい豊中の台所を覚えているが、あの場所こそ、叔母の王国だった。
わたしの母は、お嬢様育ちで、やはり料理が苦手だった。だから、わたしは「母の味」を知らない。わたしが知っているのは「叔母の味」である。豊中に行くたびに、叔母の作ったものを食べた。なんといっても、少ないカレー粉で大量にカレーを作るために開発(?)した料理で、小麦粉をこれでもかというくらい入れるのである。隠し味が醤油であることは、以前書いた。とにかく、粘っこいカレーだった。ご飯の必要がないほど、それ自体が「具」のようなカレーだった。叔母は一度も料理を習ったことがなく、教えてくれる者もいないので、見よう見まねで作っていった。安く、量があること、そして、味は濃かった。まことにもって、健康にもダイエットにも反する料理ばかりだった。
叔母は、酒を飲まなかった。だから、甘党で、時々、巨大な鍋でアズキを煮て、アンコを作っていた。わたしは、それをよく、夜中に、こっそり台所に忍びこみ、巨大な鍋から直にスプーンですくって食べたのである。ほんとうに信じられない。その半世紀後に、ダイエットをするようになるとは。
わたしは、叔母に可愛がられた。彼女にとっての甥・姪の中でいちばん可愛がられたと思う。もしかしたら、わたしが、叔母がたった1日だけの結婚生活をおくったあたりで生まれたからだったかもしれない。もっとも、甥・姪といっても、わたし以外にいたのは、亡くなった姉(伯母)の三人の娘である姪っ子たち、それから、もうひとりの姉(伯母)の、さまざまな理由で薄幸な運命をたどり自殺した娘、それから、わたしたち兄弟だった。父の弟は、実家と付き合いがなかったので、その子ども(わたしにとって従兄弟)も実家にはやって来なかった。父が問題を起す度に、わたしの家は「解散」状態になり、わたしと弟は、実家に住むことになった。弟は、母の実家に行くことも多かったので、主として、叔母の担当はわたしになった。というか、叔母がわたしを担当してくれた。
日々の料理があり、ときには、わたしのような居候の弁当を作り、お盆や暮れや正月には大量の料理を作った。葬式にも、である。祖母が亡くなって、高橋家として執り行う、最後の大きな葬儀があり、叔母は、ひどく忙しそうに、台所で働いていた。葬式が終わり、客たちが帰った、その翌日、突然、一緒に住んでいた伯母が亡くなった。影の薄い、いるのかいないのかわからないような伯母だった。三人の女性が暮らしていた実家で、3日の間に、二人が亡くなったのである。
それから、しばらくして、叔母は心筋梗塞で倒れた。病院に見舞いに行くと、体中に管が繋がれていた。
「アンコが食べたいなあ。あとお好み焼き」と叔母はいった。病院食には、ほとほとまいっているようだった。
「食べすぎやで。あと、塩気のとりすぎ」とわたしはいった。
「それは、おばあちゃんやがな」と叔母はいった。それから、こう付け加えた。
「あんた、痩せてるなあ。ちゃんと食べてんの?」
「食べてるよ!」
王国に住んで料理を作る女性たちの口癖は「あんた、痩せてるなあ」である。そして、一生懸命、そこの住民を太らせようとするのである。味の濃いオカズに、ご飯。祖母と叔母は、よく、お昼にお八つではなく、白菜の漬け物を山のように切って、お茶を飲みながら食べていた。そして、こういうのだった。
「源一郎くんも食べる?」
「いりません!」
わたしがダイエットのために採用しているメニューも、必要な材料も、そもそもダイエットという考え方も、叔母は知らなかった。そんな余裕もなかっただろう。塩分の濃い食事を続けながら、祖母は八十代半ばまで生きて、脳溢血で亡くなった。叔母は七十を少し過ぎたばかりだった。自分で作った食事のせいもあったのかもしれない。とはいえ、叔母の体を心配して、彼女のために料理を作ってくれる人は、どこにもいなかったのだ。
わたしが最後の晩餐に食べたいものは何だろう、とよく考える。
いままで食べたいちばん美味しい料理。確かに、美味しい料理を食べたことはある。高名なレストランで、何度も。でも、それではないな、たぶん。
母の手料理ではない。なにしろ、手料理という概念がない人だった。彼女は外食も好きだった。
母の実家でも、いろんなものを食べた。母の母(もうひとりの祖母)も、決して、料理の上手な人ではなかった。だが、瀬戸内海に面した尾道という場所柄か、海産物は新鮮で豊富だった。野菜や果物も。だが、母の実家では、結局、わたしは、いつも居候の気分を味わった。叔母が実家の小さな台所で作ってくれる料理こそ、わたしが、のびのびとした思いで食べられるものだったような気がする。
一度、あの途轍もなくおかしな味のカレーを作ってみたい。あの味を再現する力はないのかもしれないが。そして、子どもたちに食べさせてみたい。そのとき、彼らは、どういうだろう。
「なに、これ?」だろうか。あるいは、「ちょっと、無理」だろうか。
そしたら、わたしは、こう答えたいと思う。
「これはね、パパのために、パパを可愛がってくれた人が作ってくれた料理だよ」と。
撮影/中野義樹
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。