読み物
第12回 なんでも食べてやろう……かな
更新日:2021/10/20
セミとファーブルとアリストテレス
ゴキブリが家で誰でも出会う生きものなら、セミは、屋外で誰でも出会う生きものである。実は、いまも、家の外からセミさんたちの声が聞こえている。風流だ。でも、もう、この本を読んでしまったから、「ああ、食料が鳴いている」という気がして、ちょっと、自分でも困っている。
そういえば、いま高二の長男も、飯倉保育園在園時に、「セミの抜け殻」を集めるのに凝っていたことがある。ドングリに続き、子どもたちの思い出に繋がるのである。あんなに集めたのに、すっかり忘れて、翌年、また死ぬほど集めていたが、あれはどんな目的があったのだろう。それはともかく、セミの評価は、なんと、「入手しやすさ」が「◎」で、味も「◎」。すぐ手に入って、しかも美味しいそうです。最高ですね。
さて、セミについて、みなさんはどんなイメージを持っていらっしゃるだろうか。あの抜け殻こそ「空蝉(うつせみ)」と呼ばれ、『源氏物語』にも登場して、「はかなく哀れなもの」の象徴となっている。長く、暗い、土の中の生活、そして、脱皮と「空蝉」化。それから、夏に生命のたぎりのままに鳴き、わずか数週間で死んでゆく。いと哀れ……。
そういう「セミ観」に対して、著者は、また強く反発している。
「冷静に考えてみれば、一世代のサイクルが足掛け七年というのは、昆虫の中でもかなり長命である。生涯のほとんどを占める約五年間の地底生活も、気温の変化に煩わされることもなく、モグラなどの天敵はいるにせよ、地上で暮らすよりは遙かに安全であり、木の根に取り付いていればエサを求めて動き回る必要もない。彼らの幼虫期間は、決して不快なものではないはずである。セミに比べれば、むしろ、孵化後八~十週間で食肉となるブロイラーの方が余程気の毒である。セミに同情するくらいなら、まず若鶏を食うのをやめるべきだろう」
まさに、魂の叫びというしかない。「ゲテ食」を通じて、我々の「食生活」のあり方そのものが問われているのだ。ちょっとしんみりしたら、セミを食べてみることにしたい。それもまた、我々の宿命なのだから。
著者が推奨しているのは、まず「セミの幼虫の唐揚げ」である。なんか美味しそう。
「梅雨が明ければ、セミ釣りの季節である」
意表をつくことばだ。海で魚を釣り、ネットで人を釣るだけではなく、なんとセミも釣ることができるのである。まず「木の根元に開いた直径二cm程の丸い穴」を見つけよう。実はこれ「既に幼虫が抜け出してしまった跡」なのである。釣るのは「その周辺にある、一回りか二周り小さい不格好な穴」で、その中に、釣り上げるべき「幼虫」がいる。「細い小枝か草の茎を差し込むと、しがみついて来るので」「面白いように釣れる」そうだ。ちなみに「釣るのが面倒だという向きは、移植ゴテで掘り返してしまえば良い」。
ほんとうに、かゆい所に手が届くような書き方ではありませんか。残念ながら、もう、「セミ釣り」の季節ではないが、来年の夏には実行しようと思う。近くの妙本寺の森、木の芽(最初に紹介したやつである)だけではなく、セミの幼虫も食べられるのだ。ほぼ食料庫と呼んでもいいのではあるまいか。津波の際には、わたしが住んでいる辺りの住民は妙本寺に避難することになっているのだが、ほんとうに素晴しいお寺だ。お釈迦様に感謝するしかありませんね。
さて、この「セミの幼虫」は「サッと洗って水気を切って」「180度に熱した油に」入れ、「カラリとなるまで揚げ」「揚げたてに塩を振」って食べるそうだ。「カラリと揚がった幼虫は」「川エビの唐揚げを肉厚にしたような口当たりだが、エビのような臭みは全くない。むしろピーナッツに近い、コクのある植物質の上品な味である」。ちょっと、これ、すごくないですか。
読めば読むほど美味しそうな「セミの幼虫」だが、やはり一般的に見かけるのは、樹にへばりついて鳴いている成虫である。あっちは食べられないの? そう思われる読者も多いだろう。大丈夫、食べられます! 「セミの串焼き」である。
「成虫は、多少殻が硬いが、遠火でじっくり焼けば、さほど気にはならなくなる。幼虫と同様、植物的な味だが、油で揚げていないため、ピーナッツと言うよりも、山芋のような、あっさりとした滋味である」そうだ。最高ですね。ちなみに、アブラゼミもミンミンゼミもオーケイだが「ヒグラシはあまり旨くない」そうなので、気をつけてください。
調理法を記しておこう。用意するのは、セミと砂糖と醤油と竹串である。
(1)「セミを瓶に入れ、熱湯を注いで息の根を止める」(この過程は省略してもかまわないようである。ただし、「生きたままだと、串に刺す時、かなりうるさい」そうなので、ちょっと精神的につらいかもしれない)
(2)「数匹ずつ竹串に刺し、熱した焼き網の上に乗せ、強火で翅を焦がす」(いちいちうるさいようですが、「この時、死んでいるにも関わらず、発振膜が動き、鳴き声を出すことがある」そうなので、メンタルが弱い人は、避けた方がいいのではないだろうか)
(3)「一旦火から下ろし、焦げた翅を取り除き、火を弱め、腹側も焼く」
(4)「大体火が通ったら、砂糖と醤油を合わせたタレを付け、サッと炙り焼きにする」
以上で出来上がりである。どうぞお食べください。もしかして、南方にお住まいの方なら、まだセミが鳴いているかもしれない。ぜひとも、捕虫網を持って外出し、セミさんを捕獲し、どのような味なのか確かめていただけるとうれしいです。
そうそう、忘れていたが、小見出しのファーブルとアリストテレスについて、触れておきたい。著者は次のように書いている。
「ファーブルは、自らセミの幼虫を料理、家族と共に試食した経験を『昆虫記』に記し、『食べられる』としながらも、『おそろしく堅く、汁が少なく、本物の羊皮紙の一片をかむようで』人に推奨できる代物ではないと報告し、さらには、セミの幼虫を美味としたアリストテレスの言葉にも触れ、実はアリストテレス自身は食べたことはなく、農民の嘘を真に受けただけだろうと推測し、『どこの国でも百姓は人が悪い』と決めつけている」
いやはや、ファーブルとアリストテレス、西洋の巨人たちの争いが、こんなところで読めるのも、この本の功徳だろう。わたし、『昆虫記』を小学生の頃読んでいる。3巻本だったと思うが、当然、全訳ではないだろう。全10巻、長大な作品なのである。それから、ずいぶんたって、大杉栄訳も読んだ。これは第1巻しか出ていない。関東大震災のときに虐殺されたからだ。たいへんな名訳である。実は、わたし、昆虫学者になりたいと思うほど、ファーブル好きだったのである。だが、セミを食べたところは記憶にない。少年版では、削除されていたのかもしれない。そして、アリストテレスは『動物誌』だ。こっちも読んだ記憶はあるが、セミの美味しさについて書いた箇所の記憶はない。そんなことはどうでもいいと思っていたのかもしれない。このふたりを「セミを食べる」という一点で、出会わせる、この本の著者もすごいが、さらに、どちらが正しいのかという、歴史的問題に決着をつけたのだから、驚くしかない。著者によれば、ファーブルが食べたセミの皮が固かったのは、その料理法のせいなのである。
「原因は多分、『オリーブ油数滴、塩一つまみ、玉ねぎ少々』を使い、炒めるという料理法にある。玉ねぎの水気により、殻の水分が飛ばず、嚙み切れないほど固い料理となってしまったのであろう。オリーブ油を『数滴』とケチったのもいけなかった。もしもファーブルが、オリーブ油をたっぷりと使い、玉ネギを入れずに料理していれば、『昆虫記』の記述も変わり、アリストテレスも、農民も、妙な言い掛かりをつけられることがなかったに違いない。
ファーブルは、昆虫学者としては偉大であったが、料理人としては三流であった」
わたしは深く感動した。歴史上の偉大な人物に対して、一介の「ゲテ食」本の著者による渾身の異議申し立てである。単なるケチつけではなく、自分のやっていることの意味をよく知った者の優れた批判である、とわたしは感じた。
この後も、著者は、アリをアリ茶にして煎じて飲み、金魚を唐揚げにし、カエルを「魯山人」風あんかけで食べる。当然のことながら、亀は甲羅を外すところから始めて、完全に解体した上で甲羅蒸しにして食べる。わたしなら、もうそのへんでやめておこうと思うだろう。いよいよ食材も尽きて、問題山積みのものを射程に入れるしかないからである。
だが、著者は進む。あらゆる艱難辛苦を乗り越えて。
「フライド・インコ」や「焼きインコ」については、こちらにためらいが生じるのは、おそらく、インコが「人語」をしゃべるからだろう。「アイシテルヨ」といわれた直後に、その生きものを焼いてしまうのは、かなりつらい。著者のような豪胆な魂の持ち主でなくては、無理かもしれない。
さらに、その先がある。「ハムスター」がものすごく美味しい、ということに、読者のみなさんは衝撃を受けるだろう。どうしてかっていうと、「ニワトリに近く、さらに言えば、その歯応えと旨みは、ブロイラーではなく、地鶏のものである」からだ。すごいじゃないか、とっとこハム太郎。
最後にたどり着くのは、「イヌ」と「ネコ」。その生きものを、著者は「ホットドッグ」や「ネコバーガー」にして食べるのである。はっきりいって、世界最強のブラック・ユーモア軍団モンティ・パイソンも真っ青である。
ほんとうはこの部分をこそ紹介すべきなのかもしれない。わたしは、「イヌ」や「ネコ」を食し、それについて、不思議にユーモラスな調子で書く著者の文章を読みながら、「暗黒文学」の最高峰、マルキ・ド・サドの文章を思い浮かべた。あまりに深刻な事実を前にすると、人は笑うしかなくなるのである。
わたしは、この『「ゲテ食」大全』を読みながら、さまざまな感慨を抱いた。その最大のものは、いうまでもなく、「人間にとって『食べる』とは何か」ということである。
ただ飢えを満たすため、ただ三食をとるためなら、著者のように、未踏の荒れ地に踏み出す必要はないはずである。コンビニに行けばいいのだ。あそこには、たいていのものはあるのだから。おまけに、ときどき、「30%引き」とかもやっているし。
それにもかかわらず、著者は、苦難の道を歩むことにした。その理由は、いくつも考えられる。
たとえば、著者がやろうとしたのは、人類にとって、農耕開始以前の時代に遡ってみることではあるまいか。農業や牧畜が始まる前、我らの先祖は、獣を捕まえ、そこらに生えている食べられそうな雑草を食べた。その中には、危険な生きものも、毒を含むものもあった。我らの先祖の多くは、そうやって命を落としながら、食べるものを探したのである。何のために? とりあえず、今日を生き、明日を生きるために。そして、やがてやって来る我々のために、である。
それから、数千、数万年が過ぎ、先進国は飽食の時代に突入した。食べるものは、自分の知らないどこかからやって来る。出されたものを食べるだけ。あまったら捨てる。そんな生活を繰り返しつつ、我々は生きているのである。
それでいいのか、人間よ。
著者は、そう訴えているように、わたしには思えるのである。
リメンバー、我らの先祖が、食べるものを求めてさまよっていた時代。
「ゲテ食」なんてないのである。なんだってよかった時代があったのだ、食べることさえできるなら。
撮影/中野義樹
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。