読み物
第5回 「料理」という物語
更新日:2020/06/24
料理という物語
「ロールキャベツ
本日は包まれたい欲の強い乙女なひき肉と、包みたい欲が強いキャベツの男気溢れるロールキャベツを作りました。
ラッキーな出会いをした5つ包みの話をします。
男気キャベツは男試しに、まずは1枚1枚丁寧にキャベツを剥がしていき、熱湯で茹でられている真っ最中です。
どの葉がいちばん男として強いかを、見定めていきます。
おっきな包容力がありそうなキャベツ男には率先して先に乙女な豚ひき肉と一緒になる権利を与えましょう。
一方で、乙女な豚ひき肉はハンバーグの作り方と似ていますが、キャリアウーマンな自立型ではなく、守りたいと思われるのがロールされる理由です。
ひき肉には、玉ねぎ粉々、マヨネーズをお賽銭程度、卵を1個、お麩の粉々を鈴が2回なるほど、そして頼りっぱなしの塩胡椒をみなさんにふりかけるようにお願いします。
マッサージを惜しげなくしたら、綺麗な形に整えていざロール時間です。
両手をバサっと大袈裟に開いたキャベツ男の胸元に、豚ひき肉乙女は飛び込みます。
そして両手をそぉっと右、左と包んだら下から上にと巻き込んでロールします。
豚ひき肉乙女が完全に私たちの目からいなくなったら両想い確定ですので、結婚指輪がてらに爪楊枝などの棒をぶっ刺して離れないように誓ってもらいます。
ロールしたときに横から豚ひき肉乙女がはみ出ていたら包容力オーバーですので、少しひき肉の形を変えるか、ほかのキャベツ男をお選びください。
まだまだたくさんキャベツはいるはずです。
それぞれ自分に合ったキャベツに出会えて、幸せなキャベツ男の背中しか見えなくなったら、お鍋やフライパンに式場を用意します。
先に薔薇の床のようにトマト缶を流し入れ、コンソメカサカサをひとつの花束くらい添えて、部屋を整えていきます。
愛の赤が足りないよと神父様から怒られるので、赤を足すためのケチャップを濃い赤にするまで入れます。
と、いった割には不安になったのか、水も1人で飲むくらい入れます。
最後に客入れの塩胡椒をしましたら、いざロールキャベツの入場です。
合同結婚式はロールキャベツ界では当たり前です。
できあがった全てのロールキャベツで式場がピチピチになるまで詰め込みます。
そうしましたら、あとは若いもの同士で煮詰まってくださいと言うように蓋をして、私たちは知らん顔です。せめて弱火でお願いします。
30分くらい知らん顔をしたら開けてください。
『おいおい、こんなに仲良くなって』とロールさせた私たちはキューピッドですから嬉しくなるはずです。
染み込んだ愛(トマト)をそっとお皿に乗せ、ヴェールのような生クリームを差し上げたらできあがりです」
これが、短編「小説」「ロールキャベツ」の全文である。はっきりいって、カミュの『異邦人』を最初に読んだとき以来の衝撃かもしれない。
いま、わたしは、短編「小説」と書いた。間違いではない。わたしは、最初『カレンの台所』の頁を開いたとき、「いかん、間違えて、新潮社のクレスト・ブックス(有名な外国文学シリーズさんである)を買ってしまった」と呟いたぐらいなのだ。「確か、料理の本だと思ったのだが」とも。
で、確認のために、もう一度、本をパラパラとめくってみた。美味しそうな料理の写真がたくさん掲載されている。どう考えても料理本だ。
しかし、しかしである、これ、あきらかに「物語」ではありませんか。最初から最後まで。そして、ひとたび、これを読むと、もう、あらゆる食材や料理が、物語の登場人物としか思えなくなってしまうのである。
それにしても、寡聞にして、キャベツが「男性」で豚ひき肉が「女性(というか乙女)」だったとは気づきませんでした。ほんとうに申し訳ない。そう考えてみると、「結婚」した結果生まれたカップルなのに、名前が「ロールキャベツ」と、女性側の「豚ひき肉」さんの名前がどこにも残っていないところなど、実は、男性中心社会の恐ろしさを、わたしたちに訴えているのかもしれない。なんと深いたくらみに満ちた物語……いや、料理なのだろうか。「包容力がありそうなキャベツ男」が率先して、「豚ひき肉(乙女)」と「一緒になる権利」を与えられるところもまた、現代社会の縮図を表しているであろう。
いや、文章表現としては、調味料の量を示すことばとして「お賽銭程度」、あるいは「鈴が2回なるほど」としたところなども、驚くしかない。後者など、調味料の側ではなく、それを振る「腕」のモーションで量の程度を教えてくれるのだ。これほど鮮烈な比喩は、横光利一が、短編「頭ならびに腹」の冒頭で、
「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」と書いて、文壇に衝撃を与えたとき以来かもしれない。
この一文をもって、横光利一は「新感覚派」という名称を得たのである。
滝沢カレン『カレンの台所』
サンクチュアリ出版
滝沢カレンさんの料理は、というか、彼女が作る料理の製作過程は、そのまま「文学」になっている。それに比べて、自称文学者であるわたしの料理の製作過程には、「文学」の要素は、「お賽銭程度」もなかったのである。そうだったのか。だから、作っていても詰まらなかったんだよなあ……。
これでは、カレンさんとわたしのどちらが文学者なのかと問われたら、わたしだって、「やっぱり……カレンさん?」と思わず返事をしたくなる。
「文学」というものが、この世界を豊かにするために存在するのだとしたら、あるいは、「文学」というものが、単に素材にすぎない「ことば」という食材を、作家というシェフが、その魔法によって、「文学」という料理に変身させるものだとしたら、この世界を豊かにするために存在している「料理」もまた、「文学」と同じ性質を持っていてなんの不思議もないのである。
わたしは、自分の料理が下手であることに衝撃を受けたのではなく、料理と文学を、勝手に区別していた自分の不甲斐なさに衝撃を受けたのだ。
「麻婆豆腐」という短編……いや、レシピ……いや、短……うーん、どっちだかわからない……は、こんなふうに始まっている。
「みなさん、こんにちは。
今回は、ちょっぴり名前が派手派手しい麻婆豆腐の物語です。
豆腐をお婆さんにしていくことではありません」
豆腐をお婆さんに……朝起きたら、虫になっていたのは、カフカの「変身」だが、朝起きたら、豆腐がお婆さんになっていたらすごく怖い。お婆さんが豆腐になるのも怖いけど。わたしは今日まで70年近く生きてきたが、麻婆豆腐から「豆腐がお婆さんに変身する」ことを想像したことは一度もない。頭に浮かんだことさえも。しかし、それが「物語」であるとカレンさんは断言するのである。
そして、この、豆腐の物語は、以下のように進行してゆく。
まず、「油を引いたフライパンににんにくと生姜をレディファーストしてあげ」るのである。ここで、にんにくと生姜が女性であることが判明する。でもって、「匂ってきたらひき肉塊を入れ」「ヘラで刺激」するのである。そして、その後、なんと、
「ある程度の男子学校になるなという分までバラけさせたら、また刻むだけ刻んだネギを入れ共学にさせます。
男子という名のひき肉は喜びに変わりどんどん男らしくなっていきます」
ちょっと待て。「ロールキャベツ」のとき、「乙女」だった「豚ひき肉」くんは、「麻婆豆腐」では「男」になっているのだ! えええっ? 「豚ひき肉」って、両性具有だったの? いや、ちょっといない間に、性転換手術を受けたのか? もはや、そのことが気になって読み進められないようでは、この「料理」という名の「文学」を理解することはできないのである。
さて、「ひき肉」くんを炒めた後には、水をいれ、さらに「鶏ガラスープの素をお小遣いで500円玉もらった程度入れ」というところまで来ると、あまりにシャープな表現すぎて、意味がわからない。というか、日本語の表現に新しいなにかが加わったことだけは間違いないだろう。できたら、具体的な量がわかるようにしてほしい気もするが、そんな保守的な態度だから、ダメなんだよね……。そして、ここでようやく、この物語の主人公である「豆腐」が登場するのである。わたしは、この「豆腐」の登場シーンを永遠に忘れることはないだろう。
「全体を校長先生になったつもりで安心したら、強い意志をもった教育実習の先生のような木綿豆腐を、なんと自分の手でむしり取りながらおっきめに入れてきます」
「木綿豆腐」は「強い意志をもった教育実習の先生」だ。ということは、いうまでもなく、それ以外の具材は、生徒諸君ということになる。おお、この「麻婆豆腐」という物語は、男子学校にやって来た「教育実習の先生」の物語だったのだ。昨今の材料は輸入品が多いことから考えて、国際色豊かな、ベトナムやブラジルからの転校生がいる学校ではあるまいか。そして、わたしたち料理の作り手は、「強い意志をもった教育実習の先生」(「教育実習の先生」ではないが、わたしとしては、なんとなく「ごくせん」の仲間由紀恵を想像してしまう)やそのすべてを愛をもって見守る、優しい校長先生なのである。もう、料理を作る前、食べる前から、胸が一杯になってしまうではありませんかね。
ちなみに、短編小説「ラザニア」のこんな一文を読んでからは、ラザニアが食卓に出ても、考えこんでしまい、なかなか食べられなくなってしまったのである。
「そんなラザニア。たった4文字には普通は組み合わせないカタカナが並んでいる時点で、深さを感じます」
じゃあ、「アボカド」は? あと「アスパラ」とか。あ、どれも、料理じゃないか。「オニギリ」はどうですかね。それから「バッテラ」とか。「ビビンバ」も、よく見るとシュール。「パエリア」もなかなか、強烈な4文字の組み合わせではないでしょうか。個人的には「ババロア」の響きが、ドキドキするんですが。どうでしょうか、カレンさま。

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。