読み物
第5回 「料理」という物語
更新日:2020/06/24
よく考えたら、わたしは、「料理」に恵まれずに育った。
わたしの母親は、そもそも料理が苦手だった。たぶん、それは、母親がお嬢さま育ちのせいだったと思う(林芙美子も通った尾道の女子校に通って、宝塚を目指していた、オートバイ&自転車販売会社の一人娘だったのである)。訊いてみたら、母親の母親(祖母)も料理は苦手だったようだ。実家の尾道は魚も果物も豊富で、卓上には豊かな海の幸、山の幸が並んでいたが、凝った料理を作る必要がなかったのだろう。
母の得意料理は、「肉の塩焼き」だった。「今日はご馳走だよ! 肉の塩焼き!」といって、なにが出てくるかというと、牛肉の薄切りをフライパンで炒めて、その上に、味つけとして塩をふりかけるだけ……。それは「料理」だったのだろうか。あと、得意なのは、というか、しょっちゅう出てきたのが「すき焼き」だ。「今日はご馳走だよ! すき焼きだよ!」と宣言して、フライパンの上に(そういえば、このときもフライパンだった)に脂を敷き、そして、牛肉の薄切りを載せる……って、「肉の塩焼き」とそこまで同じじゃん!
それから、醤油に砂糖に、その他の具材を載せてゆく。まあ、昭和の一般家庭では、そういうものがご馳走だったのだ。でも、母親は途中から専業主婦ではなく、働く婦人でもあったのだから、文句をいうだけ罰があたる。ほんとに。
問題は、父親の実家の方で、まず父親の母親(父方の祖母)は、そもそも料理をしない人だった。仙台の大金持ちの娘で、子どもを作るのは得意だったが(八人)、全員、育てたのは、乳母たちで、要するに子育てを丸なげしていたのである(!)。そして、料理はというと、これも作るのは女中たちだった。なので、父親の実家にいっても、祖母が台所にいるところを見たことがないのである。もしかしたら、生まれてから死ぬまで一度も包丁を握ったことがないんじゃないだろうか。ピアニストみたいだ。要するに、彼女はお姫さまだったのである。そのせいだろうか、超絶美人といわれた父の姉(高橋家の長女)も料理をしない人だった。実家に行くと、いつも、食卓で待っているのである。まったく動かない。料理を運ぶことすらしない。もちろん、食べた食器も下げたりしない。お姫さまを超えて、もはや人形である。この人も、生まれてすぐ、娘を里子に出してしまったのだ(育てるのがめんどうくさいので)。
そんな高橋家にあって、台所を担当していたのが、叔母のK子さんだった。K子おばちゃんは、父のすぐ下の妹で、容姿にも知能にも性格にもいろいろ問題があった。父が友人に頼みこんで、その友人のところに嫁いだのだが、即日、離婚、実家へ送り返されたのである。理由は……当人の名誉のために、ここでは書かない。けれども、K子おばちゃんは、これほど純真な人はいないのではないか、と思えるほど心の美しい人であった。短気で、移り気ではあったけれど、最後まで子どものままであった。そして、わたしを、実に優しく、可愛がってくれたのである。心の底から。
おそらく、子どものいない彼女にとって、わたしは息子代わりだったのだと思う。実家に戻るたびに、「ゲンイチロウくん!」と嬉しそうにいってもらえたのだ。とりわけ、一年近く、実家から中学に通うことになったときには、みっちり、K子おばちゃんと暮らした。そして、K子おばちゃんの食事を味わうことになったのである。
いま思えば、K子おばちゃんも料理は得意ではなかったのだろう。なにしろ、家族の誰も料理を担当したことがなかったのに、気づいたときには、零落して、料理を作ってくれる女中もおらず、仕方なく、K子おばちゃんが作ることになったのだと思う。
弁当のオカズが芋の煮つけだけ、というときは驚いた。K子おばちゃんは、熱狂的な阪神ファンだったので、阪神が負けたときには、だいたいそんなメニューだった。カレーのときも、ルーをかさましするために、大量に小麦粉を入れていたし、隠し味を超えて、はっきり味つけに醤油を入れていた。カレーが美味しいと思えるようになったのは、外食をするようになってからだ。K子おばちゃん、ゴメン、でも、どんな料理だったか、ぜんぜん覚えとらんのよ……。まあ、生き延びたから問題はないのだが。
けれども、幸い、結婚をしてからは、ようやく家庭料理というものの美味しさに目覚めたのである。ほんとうに良かったです。めでたし、めでたし。
さて、問題は、ダイエットを始めてからだ。
わたしは、ダイエットのための料理を自分で作る。そりゃ、そうだ。食事を作っていただいている上に、別にダイエット料理まで、妻に作らせるわけにはいかない。また、わたしは、さまざまな研究の上に、考えて食材を決定しているので、やはり、自分で作るしかないのである。
わたしがダイエット料理を作っているのを見ると、妻は、「私も食べたいよう! 人の作ったものが食べたい!」といった。当方には、なんの異存もない。何度か、妻の分も製作し、一緒に食べた。だが……である。数回、わたしの製作した料理(たとえば、サラダ)を食べると、「ありがとう、もういい」とおっしゃって、参加しなくなったのである。
「どうして?」と訊ねると、小さな声で、妻はこう答えた。
「……あまり美味しくない……」
その瞬間、思わず、わたしはこう呟いたのである。
「……だよね……」
わたしは、ダイエット本のレシピをもとに、あるいは、ダイエットや栄養・健康に関する本のレシピをもとに、いくつかの料理(もどき)を考案して、それを食べた。なぜ「考案」ということばを用いたのかというと、製作している当人ですら、「これ、料理といえないよね」と思うものばかりだったからである。
たとえば、朝昼兼用のサラダを作る、とするでしょう。まずは野菜を買ってくる。そして、洗った後、キャベツ……千切りにしたいけどできないので、適当な大きさに切る。レタス……千切る。トマト……切るのがめんどうくさいのでミニトマト。セロリ……適当に切る。紫大根……適当に切る。そして、切ったり千切ったりした野菜を大きな皿の上に載せる。その上に、豆腐を千切って載せる。それに、時折、様々な助っ人が参加することもある。リンゴや海草、ヒジキ、ナッツ、コンビニで売っている「ほぐしサラダチキン」である。それらもまたおもむろに投下する。それが終わったら、この豆腐野菜サラダにかけるドレッシングの製作である。小さな皿に、まず、アマニ油を適当な量、投下する。それから、リンゴ酢を適当な量、投下する。柚子胡椒を適当な量、投下する。塩分控えめの梅干しの肉の部分を千切って投下する。それから、冷蔵庫の中にある、瓶詰めのニンニクを投下する。すべてを投下したら、かき混ぜる。かき混ぜたら、まとめてサラダに投下する。さらに、用意していたキムチを投下し、納豆をかき混ぜて追加投入する。以上で完成である。
その特製サラダを、わたしは、しばらくの間、毎日食べ、連日スクワットに励み、お蔭さまで減量に成功したのである。だが、正直にいおう。毎回、目の前の「サラダ」を見るたびに、「……エサ?」と思わずにはいられなかったのである。
そういえば、あのサラダ、どんな味だったっけ。そもそも、味見してなかったからなあ……。
というか、もう一度食べたいと思えないのだ、あのサラダ。
なにがいけないのか。それぐらいわかっている。わたしには、根本的なところで、「料理」のセンスが欠けているのである。それなりに美味しいものは食べてきた。だが、思えば、どれも、「誰かが作ったもの」だったのだ。
確かに、レシピ通りに作ったこともある。その場合は、それなりの味になる。けれども、もう一度といわれると、困る。なぜって、
「めんどうくさい」からだ。
レシピなんか見たくない。それぐらいなら、インスタント食品か、冷凍食品をいただく方がいい。っていうか、妻の作るものを食べていればいいわけである。
自慢ではないが、小学校の教科書で、わたしの家庭科の評価は、ずっと5段階の「1」であった。滅多にはとれない得点だ。とにかく、料理も裁縫も、家事全般がまるでできなかったのだ。おそろしや、家事一切を乳母や女中といった「使用人」に任せていた高橋家の呪いなのか。わたしのときには、もう「使用人」なんかひとりもいなかったのになあ……。
この、「お片づけ」から始まる、あらゆる家事が苦手、という根の深い問題を解決することは、わたしにとって、生涯において解決すべき宿題のひとつだったのである。でもなあ、やっぱり無理かも。
思い返せば、家事だけではなく、ほとんどすべてが苦手だったのではあるまいか。なにをやらせても、うまくいかない。少しでも自慢できるものといえば、まあ、作家なので文章を書くこと、小説を製作製造すること。それぐらいじゃないのだろうか。あとは、ひとさまに自慢できるようなものはなにもなし。
そんなある日、わたしは、驚くべきものに出会ったのだ。『カレンの台所』(滝沢カレン著・サンクチュアリ出版)である。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。