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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

焚き火

更新日:2025/12/10

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 夏の沢登りの終盤で大雨にあった。南アルプス深南部の沢を何本もつなぎ、尾根を越えてまた沢を下りてというのを繰り返し、最後の沢の上流部にさしかかったあたりだ。
 魚体のいい岩魚(いわな)が次々に釣れるけれども、土砂降りとなったため竿をしまって安全なキャンプ地をめざした。薪はすっかりずぶ濡れだ。コンロはないため何としてでも火を起こさなければならない。大きな倒木を枕木にして立ち枯れの木を薪にして、百円ショップで買った着火剤をつかって火起こしに成功した。
 これで安心だ。雨に濡れて消えないよう焚き火はタープの下で組んでいるので、どんなに土砂降りになっても火があれば暖かく過ごすことができる。
 ところが翌朝、目が覚めて愕然とした。夜中に想像以上の雨となり、タープの下に雨粒が吹き込んできて、せっかくつけた焚き火がすべてずぶ濡れになってしまったのだ。焚き火の位置をタープのぎりぎりのところにしすぎてしまったらしい。昨日の消し炭も水に浸かってべちゃべちゃになっており、乾いていた薪もすべて芯まで濡れている。これではちょっと火を起こせないかもしれない……。焚き火がなければ寒いし、お湯もわかせないし、米も炊けない。水に漬けたらふやけるフリーズドライ系食品ではなく、食料は生米と岩魚しかないのだ。
 強雨はやまずバチバチと太鼓のような音で景気よくタープをたたいている。つくかどうか、あまり自信はなかったが、他にどうしようもないので再び火起こしに挑戦した。
 濡れ方が多少はマシな炭を集めて火床にし、のこっていた着火剤を惜しみなく投入してライターで火をつける。炎のうえに直径1ミリレベルの細い枯れ枝をできるかぎり多く載せ、そのうえにそれよりちょっと太い枝を積む。そして順々に太いものにしていって山のように組んでゆく。隙間からもわーっと白煙が立ち昇るので、それを塞ぐように枯れ枝を載せて熱をこもらせるのがポイントだ。薪はすべて濡れているので火勢はなかなか強まらない。濡れた新聞紙かフキなど面積の大きな葉があれば、それをかぶせて熱を籠らせることができるが、両方ともないのでビニールのコンビニ袋で代用した。
 頼むから消えないでくれ、と祈りながら推移を見守る。着火剤の大量投入が功を奏したようで、白煙は徐々に強まり、やがて熱がコンビニ袋を溶かして小さな炎があがり、ホッとした。
 人間はエネルギーなしには生きていけない。火があればそれだけで命をつなぐことができる。朝起きたときは、くそ、コンロがあればなぁと一瞬思わないでもなかったが、でも、もしコンロがあったら、火のありがたみはこれほど理解できなかったにちがいない。昔読んだフレイザーの『火の起原の神話』を思い出した。多くの先住民は火を獲得したときの話を神話として伝えてきたが、それを身をもって体験する山登りとなった。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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