読み物
切れた定着氷
更新日:2025/09/24
今年の犬橇(いぬぞり)の旅も44日間におよぶ長いものとなったが、最大の山場はシオラパルクに帰着する直前におとずれた。
最後の氷河の入口にさしかかり、村があるフィヨルド内を一望したとき、私は息をのんだ。いつもなら全面的に海氷がのこる時期であるが、今年は九割がた流れてしまっており、水色の海原が広がっている。海は南太平洋の楽園のように透き通った淡い水色で、それが白き山々にかこまれた風景は荘厳なほどの美を現出しているが、その美しさを堪能する余裕は私にはなく、この状況で村にもどれるのか? という不安で必死にルートを探した。
前に書いたとおり(第227回参照)、湾内の氷は3月に一度ほとんど流出した。その後の冷えこみで私が旅にでるときはまた再結氷がはじまっていたので、いつものように安定した海氷がのこっているのでは……と淡い期待をよせていたが甘かったようだ。こんなこともあろうかと予定より少し早めに帰ってきて正解だった。
氷河上部より一望したところ、氷河の麓から村のある湾の北岸沿いにはしばらく海氷がのこっており、それがほぼ中間のヒオガッハーまでつづいていることは視認できた。でもその先は見えない。海氷が消えていたら、沿岸の定着氷を伝っていかないといけないが、途中で切れている可能性もある。
数時間かけて氷河を下りた。氷河周辺の海氷は安定しているが、例年通り積雪が深いため岸の近くの浅瀬を走らせた。浅瀬の氷はヒッヒャットといって、干満の影響で氷が滑りやすく比較的スピードが出る。
途中で氷のうえに海豹(あざらし)が姿をあらわしている。猟欲が出てついつい鉄砲をたずさえ歩きはじめた。成功したら日本に帰国するまでの犬の餌を確保できる。首尾よく2頭の海豹を仕留めたところで急に南風がつよく吹きはじめた。いつ流出してもおかしくない不安定な海氷上で一番怖いのは風によるうねりである。さっきまで晴れていたのに何故? と不条理をかみしめつつ、すでに疲れ切っている犬を無理やり煽って安全地帯であるヒッヒャットまで走らせた。
氷河上部で見たとおり海氷はヒオガッハーで切れており、その先は黒い海原が風に吹かれて小さな白波を立てている。くそ、やっぱここまでか……と、海氷から岸にはりついた定着氷に乗り移り、そのまま村にむかって犬を走らせる。
定着氷は潮の干満作用で岸にできあがる真っ平らな氷であり、現地語でカイグウという。傾斜のゆるい浜や河口では広々とした氷がひろがり、快適な道となる一方、岬まわりや急傾斜の崖、海岸線の入り組んだところは状態が良好ではなく、道が切れ落ちて行きづまることが多い。
ヒオガッハーの少し先には崖の切り立ったところがあり、いつもそこで定着氷は切れている。ダメだろうな……と犬を走らせてゆくと案の定、そこで平らな氷の道は切れ落ちていた。ちょうど潮は完全に引いており、崩壊箇所は45度ほどの固い雪の急傾斜が海に落ちて数メートルの崖になっている。崩壊した林道と同じで、とても突破できない。やむなく周囲を歩き回ってルートを探し、50メートルほどもどったところにあるなだらかな小尾根から大きく迂回しようと考えた。
だがあらためて目の前の崩壊箇所を見ると、ここを越えたら時間をかけて迂回する手間が省ける……という悪魔の囁きがきこえる。
すでにこの日は出発から15時間以上経過しており私も犬も疲れ切っている。44日間の旅の最後の日なのだ。正直早く家にもどって布団で寝たい。荷物を全部おろして橇を空にしたら越えられる気がする……。
越えることにした。海豹(なぜこんなものを獲ってしまったのだ!)と荷物をその場におろし、スコップで急斜面をすこしならして犬を進ませた。私は後ろから梶棒をにぎり橇をコントロールする。犬が崩壊箇所にさしかかり橇が急斜面に乗り上げると、やはりダメだ、橇が左の海側の崖のほうにズズズ……と滑り落ちてゆき、その重さを私ひとりの力では支え切れない。
「アイー、アイー、アイー」
止まれの掛け声を出すと、疲れ切り、走りたいという衝動をすでに失っていた犬は即座にその急斜面で止まった。この状況はまずい。犬が少しでも動くと橇は急斜面を滑り落ち、犬もそれにまきこまれて3メートル下の浅瀬に墜落するだろう。崖を登るのは不可能なので犬も橇も回収不能となる。
「アウリッチ、アウリッチ」
私は動くなの指示を出し、犬から目を離さず鞭をとりにもどった。
解決策はひとつしかない。犬をそのまま崩壊箇所の先に走らせるのではなく、崩壊箇所を岸側に直上させて一段うえの緩斜面まで橇をはこびあげるしかない。私は犬の左側に鞭を振って、「アッ、アッ」と右に行けの指示を出した。先導犬のレモンが右を見上げ「ここっすか?」みたいな表情で私を見る。私はさらにつよく「アッ、アッ、アッチョー!」と声をあげた。
毎年、長く厳しい旅で散々修羅場をともにしてきたレモンは、私の指示の意味を理解した……かどうかはよくわからないのだが、ともかく「まじかよ……」といった感じで渋々斜面を直上しはじめ、ほかの犬もそれについてゆく。緩斜面の先に犬の姿が消えて橇がうえに動きだした。
しめた。このままいけば突破できる。後ろから橇を押して急斜面を乗り越えると左側になんとか下りられそうな雪壁があらわれた。犬をとめて、橇をそこに固定。まずは引綱を橇から解き、犬を先に誘導して定着氷におろし、そのあとブレーキをかけて雪壁に橇をゆっくりとすべらせた。
われながらすごい突破だと思った。これほど悪い場所で犬が指示通り動いてくれたことに、チームとしての完成度の高さを感じた。そして二度とこんな危ないことはしないほうがいい、次は時間をかけてゆっくり迂回しようと思った。
何往復もして荷物を回収し(海豹はその場にのこして後日ボートで取りに戻ることに)、ふたたび定着氷を走らせる。村の500メートル手前でまた氷は切れていたが、そこはもう翌日に回し、私は犬をその場につないでひとり歩いて村にもどり、家の布団で就寝した。
幸せでした。

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。