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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

今年の白熊報告

更新日:2025/08/27

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 乱氷に苦しんだエルズミア行からアウンナットの小屋にもどったあとは、2日ほど犬を休ませてグリーンランド側のフンボルト氷河方面にむかった。まだ4月下旬で村にもどるには早い。ただ犬の餌が足りないので海豹(あざらし)をとらないといけない。今年はどうも氷が厚いのかアウンナットでは海豹の姿をほとんど見かけないため、海豹の一大繁殖地であるフンボルト氷河沿岸にむかうことにした。
 海豹だけではなくフンボルト氷河沿岸は海豹をねらう白熊の一大生息地でもある。地元猟師の昔からの猟場だ。私自身、毎年おとずれる場所で、これまで白熊と出会わなかった例はほとんどない。
 唯一の例外が昨年で、カーナックの猟師二人と白熊狩りにむかったが足跡もほとんど見つからなかった。ただし昨年は、フンボルト氷河沿岸にはいなかったものの帰路に通過したアウンナット沖合にうじゃうじゃいた。つまりいつもとちがう場所に集まっていたわけだ。
 その原因は海氷の状態にあったようだ。昨年はフンボルト氷河沿岸で乱氷が発達する一方、アウンナット沖合に新氷帯が形成され、かなり明確にわかれていた。アウンナット沖の新氷帯は真っ平らな氷原が延々とつづき、この海域でこれほどきれいな氷ができるのはめずらしいほどだった。白熊が密集していたのはそこだ。シオラパルクの村人の話では繁殖期の雌の白熊は乱氷帯を敬遠して平らな新氷帯をこのむ傾向があり、雄も雌を追いかけておなじ場所に群がる。白熊の繁殖期は3月から6月、昨年アウンナット沖に白熊が集まったのはそれが原因らしかった。
 だがこれは稀なケースで、エルズミアとの海峡にあれほど平らな氷が広々と形成されるのは滅多にあることではない。今年は逆で海峡のなかはどこもかしこも乱氷だらけ、フンボルト氷河沿岸のみが乱氷のないきれいな氷のエリアとなっている。となると例年通りここに白熊がたまっているはずだ。
 ところが私の予測は外れた。フンボルト氷河沿岸にはいっても白熊は全然見つからない。足跡は豊富だが姿が見当たらないのだ。
 白熊との出会いのない犬橇(いぬぞり)の旅は、なんだかものすごく物足りない。海豹も例年より数が少ない。だが1頭獲れれば3、4日の犬の餌にはなる。ときどき海豹を獲っては餌を補充し、白熊を探す旅をつづけた。氷山に登っては双眼鏡で周辺をじっくり眺め、犬が足跡の臭いに反応したらしばらく追わせる。
 足跡は古いものが多かった。新しいものでも1日前か、せいぜい半日前である。白熊がすぐ近くにいるような足跡があれば、私が止めても犬は制御不能となって追いかけるものだが、そういうのは全然ない。10日間ほどフンボルト氷河を彷徨(さまよ)ったが、結局見つからずアウンナットの小屋にもどることにした。これほど白熊との出会いがない旅ははじめてのことだ。
 私なりに分析すると、今年の白熊の生息域は海峡全域に拡散していたのではないだろうか。エルズミアにむかう海峡の乱氷帯にも、アウンナット沖合にも、途中のイヌアフィシュアクにも、足跡の数は例年より多いぐらいだった。これだけ足跡があるんだから今年は白熊との出会いが多そうだな、と期待に胸をふくらませたほどだが、結局空振りに終わったということは、それだけ広い範囲に拡散し、そのぶん密度が低かったのだろう。
 結局、43日間の旅で白熊を見たのはたった二度だけだった。
 一度目はアウンナットの小屋で、エルズミアにむけて出発しようとしたときだ。装備の積み込みをすべて終え、さあ犬を橇につなごうかとしたその瞬間、小屋の脇から突然、白熊があらわれて犬がいっせいに吠えはじめた。不意を突かれてびっくりしたが、間近で観察できる滅多にないチャンスだ。カメラで写真や動画を撮っていると、やがて白熊がこちらにむかってきたので鉄砲で足下の雪原に弾をうちこみ追い払った。
 二度目はフンボルト氷河にむかう途中のウイガホという地で見かけた。沿岸の定着氷で橇に乗って犬を走らせていたとき、大きな谷のなかを2頭の親子熊が逃げてゆくのが視界にはいった。海岸から500メートルほど内陸だ。あわてて犬を止め、谷を遡って見に行くと、足跡は右の急斜面を下りて谷を横断し、対岸の急な岩場を登って消えている。臭いに気づいた犬が猛烈な勢いで走り出したが、急な岩場に立ち止まり、悔しそうに上を見上げていた。
 白熊は海獣に分類される海の生き物だ。いったい何のためにこんな内陸をうろうろしているのだろう。見かけたのは二度とも陸上だ。はじめて陸地の白熊を見たけれど、いつもなら見かける海上で出会わなかったというのは、なんだか皮肉めいた結果であった。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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