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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

乱氷ラビリンス

更新日:2025/08/06

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 春に犬橇(いぬぞり)の旅をするのが一年の最大の目標である。今年もグリーンランドとカナダ・エルズミア島間の海峡が結氷し、昨年につづきエルズミアをめざした。
 ただ昨年とはルートがちがう。昨年はアウンナットの小屋(出発地点であるシオラパルクの村から百数十キロ先にある猟師小屋)から延々と400キロほど北上したケネディ海峡で横断したが、今年はアウンナットから直接エルズミアにむかった。グリーンランドとエルズミア間の海峡の南端で、スミス海峡とよばれるところである。
 エルズミアとグリーンランドを犬橇等で往来する場合、じつはこのスミス海峡こそ人類史的にもっとも正統的なルートである。エスキモーの旅人も古来、スミス海峡を利用したし、植村直己の犬橇の旅もそうだった。スミス海峡は人間の居住域を最短でつないでおり地理的にも理にかなっている。
 ただ近年は温暖化の影響で昔とくらべて氷の状態が悪く、スミス海峡を直線的にわたることはできない。大きく北側にえぐれて結氷するため移動距離がどうしても長くなってしまう。
 海峡は北極海から流れてきた浮氷が凍りつき、どこも凸凹の乱氷だらけだ。なるべく短いところで横断したいのだが、スミス海峡近辺から横断しようと思うと80キロから100キロもの乱氷帯を越えないといけない。昨年、400キロもケネディ海峡まで北上したのは海峡の幅がせまくてさほど乱氷に苦労しなくてすみそうだったからである。
 でも今年はあえてスミス海峡から行った。理由はまだそこをわたったことがないから。人類史的なルートを経験したことがないというのは、グリーンランドとエルズミア間をホームグラウンドにする私には我慢できない欠落であった。
 衛星画像を見るかぎり、今年の乱氷はまたことのほか悪そうだった。しかし来年以降、海峡が凍結するかどうかもわからないので、辛いのは承知のうえで突入した。そして突入してわかったのは、これは衛星画像で想像していた以上にひどい乱氷だ、ということだった。
 アウンナットの小屋を出発して数時間後にはひどい乱氷帯のなかにはいっていた。大きな氷の塊が堆(うずたか)くかさなり壁となってたちはだかる。なるべく低いところを探して右往左往し、突破できるところを見つけたら犬を煽って無理やり橇を引かせて、ときに後ろから梶棒を押して手助けし、ときにトウという鉄の棒で氷を砕き道をつくる。
 海峡をわたったらエルズミアの内陸部を探検するつもりだったので、橇には20日分の犬の餌と50日分の私の食料が積んである。500キロはあるだろう。乱氷の高さはときに2、3メートルもあり、重たい橇を引き上げるのは犬にとっては地獄のような苦行だ。なので行きたがらない。しかし行ってもらわないとどうしようもないので、私は大声で怒鳴り、ときに後ろからぶっ叩き、無理やり越えさせる。と書くと、私だけ楽をして犬にだけ辛い思いをさせる悪逆無道な昔の奴隷所有者のようであるが、私は私で、極寒のなか、右だ左だと大声をあげつづけ、つるつるで凸凹な氷のなかを走り回って犬を動かさねばならず、それはそれで地獄なのである。
 単独犬橇で乱氷を越える大変さを言葉で理解してもらうのは、ほぼ不可能である。直線的に進むのは無理なので、なるべく犬の走りやすいところを探して彷徨(さまよ)う。本当に迷路そのもの、乱氷ラビリンスだ。
 こんなことが2、3日つづくと犬も私も嫌気がさして旅を放棄したくなるが、途中で引き返すのも悔しいので、とにかく海峡だけはわたってしまおうと根性(死語でしょうか?)で前進した。そして約1週間かかってようやくエルズミア島の沿岸に辿りついたのだった。
 1週間もひどい乱氷のなかを彷徨ったらどうなるかというと、もうわずかな乱氷も行きたくないという気持ちになる。犬もちょっとした乱氷を見ただけで立ち止まり、仕事をボイコットする。しかしその先も乱氷は終わらない。というか、それまで以上にひどい。エルズミアの沿岸は海流ではこばれてきた浮氷が岸にぶつかり、どこもその衝撃と摩擦でずたずたになっているのである。
 内陸にはいりこめるポイントがないか何日か探したが、壁のような乱氷帯が立ちふさがり見ただけで気力を損なわせる。こんな乱氷……、越えるのにいったい何日かかるのか……。どうやら今回は海峡を越えるだけで力を使い果たしてしまったようだ。これ以上、前進しても餌不足になる危険もあり、結局アウンナットの小屋に引き返すことにした。
 もちろん帰りも乱氷を突破しなければならない。橇が軽くなったため少しペースは速まったが、それでも5日かかった。17日間乱氷漬けの日々。もう一生分体験した。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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