読み物

生活の準備をととのえる　その一

更新日：2023/03/22

　北極に行くというと、皆さん大抵「楽しみですねぇ」「ワクワクしますねぇ」とおっしゃるが、私としては逆で出発前はむしろメランコリックな気分が強まる。その原因のひとつは家族とわかれること。好きでやっているとはいえ、日常を離れるのはそれなりにつらい。
　もうひとつの原因は、村に到着してからやることが多いこと。犬橇の前に生活の態勢を整えるのが大変で、それを考えると憂鬱になるのである。
　これまで借りていた家は別の人がすでに使っているので、今年はケッダ・ダニエルセンという人物の家を借りた。借りる家はいつも、昔シオラパルクに住んでいたけど、いまはカナックで暮らしている人の持ち家だ。新しい家だけに勝手がわからず、今年は余計憂鬱だった。
　一日目。村についてまず家の様子を見に行く。思ったより広く、きれいだが、それよりガス・電気・水の生活インフラを整えることが先決だ。ガスコンロを見ると古くて使えるかどうかわからない。電気は生きているが、電球がひとつもなくヘッドランプが必要だ。まだ極夜なので日中も暗いのだ。
　ガス・電気問題はひとまず後まわしにして、まず石油ストーブに火をつけて家のなかを暖める。なにしろ氷点下三十度以下の環境でガンガンに凍結しているので、家が暖まるまでまる一日かかる。それまで生活できないので、到着した日は犬橇仲間の山崎哲秀さんの家に居候させてもらった。コーヒーで一服してから犬をあずけていたカガヤの家に行き、夏のあいだに二頭死んだことを知らされる。死んだのはナノックとプールギという一年目から飼っていたベテラン二頭。残念だが、年なので仕方がない。カガヤや自分の三歳の犬を補填としてくれるという。ほかの犬の様子を見に行くと皆、久しぶりに飼い主が来たことに大興奮し、はしゃぎまくっている。身体の状態はおおむね良好。夜飯は山崎さんお手製のマッタ（鯨の皮）スープをいただく。
　二日目。時差ボケで午前二時ぐらいに目が覚める。「夜中でもガサガサやってかまわないから」という山崎さんの言葉にあまえて、山崎さん宅に置かせてもらっていた生活・犬橇道具一式を橇にのせてはこびはじめた。推定で二百キロほどだろうか。電球を借りて部屋を明るくして、段ボールやバッグを家の奥に運び、マットレスや布団をととのえ寝る場所を確保する。山崎さん宅の食料を勝手にいただき、ときどき腹ごしらえをしながら作業をすすめる。明るくなってから山崎さんに六十リットルのポリタンクを借り、村の給水場で水をいれる。これで一週間分ぐらいの水は確保した。冬季は水道は凍結して使えないので、水を汲むか、氷山の氷をとかすかしないといけない。
　できれば食料等の買い出しをしたいが、この日は日曜で店が閉まっているため、雪にうまった橇を掘り起こしに行った。橇は犬橇用の大型のが二台、村内で荷物の運搬に使う小型のが一台の計三台を所有している。ひとまず必要なのは小型のやつだ。スコップで雪をかきだし、重石をよけて、ロープをほどき、小型のと、犬橇用の一台を使えるようにした。
　つぎに犬橇の準備をする。犬は村の中心地にあるカガヤの家の近くに六頭、そこから三百メートルぐらい離れたイツッタという場所に七頭と、わかれてつながれていた。橇もイツッタにあるので、今年はイツッタを係留地にすることに決め、まずは犬をつなぐ支点をつくる。板に穴をあけてひもを通し、雪の下に埋めて水をかけて凍らせるだけだ。カガヤに犬の世話代の残りを支払う。
　家が暖まったので荷物をすべて山崎さんの家から移し、ケッダの家で寝泊まりをはじめる。しかし店が閉店しており食べ物がない。友人のイラングアが海鳥を発酵させたキビヤという名物料理をくれた。キビヤは大好物で生肉のまま食べるので火が使えなくても大丈夫だ。（つづく）

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