
第2部 第2回
開かれた円環に、いのちは宿る
――ゆらぎから立ち上がる世界のかたち
更新日:2026/04/28

ゆらいでいると
開かれている場に
いのちがうまれる
炎はゆらぎ
ゆらぎはいのち
ゆらいで生まれる
過去と未来は
折り紙のように
イマココに 折り畳まれている

photo by. Toshiro Inaba-
2025年に大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)が開催されました。6か月の開催で3000万に近い人が足を運んだとされています。その壮大なお祭りは、「いのち」がテーマでした。
わたしは、2025年の大阪・関西万博に何度も足を運びながら、訪れるうちに2026年からは「いのち」が中心となる世界へと大きく舵を切っていくことを全身で感じたのです。
- 55年の時差が「いのち」を軸に交差する

photo by. Toshiro Inaba-
1970年に開かれた大阪万博(日本万国博覧会)では太陽の塔が象徴となりました。そして、丹下健三の設計した大屋根を突き破って空を見上げたのは太陽の塔、ただひとつでした。それから55年後に開かれた2025年(昭和で考えると昭和100年という節目)の大阪・関西万博では、藤本壮介さんが設計した大屋根はリング状となっており、巨大な穴があいているように見えます。大屋根リングを訪れると、その巨大な輪(穴)から空を見上げることになります。つまり、訪れた人のひとりひとりが太陽の塔となり、神像となり、天と地を結ぶ存在になるのです。
1970年に太陽の塔によって禅の公案のような問いを突き付けた岡本太郎に対する55年後の回答は、訪れた人全員が実際に参加することではじめて答えとなって立ち上がるのです。ひとりひとりが他者を照らす太陽の塔となって生きるために。
- 「開かれた円環」と禅の円相
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建築家の藤本壮介さんは大屋根リングを「開かれた円環(Open Circle)」と表現されていました。開きながら閉じていて、閉じながら開いている。禅でも円相のテーマは公案(考えるためのきっかけ)として何度も現れるものです。円の形は始まりも終わりもなく、角もありません。自由な心や執着から解き放たれた心の境地のシンボルです。円の中が穴になっていることは「空(くう)」を、円が閉じていることは「すべてが満ちていること」を同時に象徴しています。禅画として円相を描いた仙厓(せんがい)は、円相に「これ食ふて茶のめ」と添え書きし、日常の中にこそ真理が溢れていることを説きました。
答えを確定してしまうと、そこで問いは完結してしまい、動きが止まってしまいます。しかし問いを「いのち」のように動かせ続けるために、禅の公案のように抽象的な問いを前にして常に考え続けていく動きこそが大事なのです。
- 建築家・藤本壮介という思想家
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以前からわたしが建築家の藤本壮介さんを注目していたのには、いくつかの理由があります。その一つが、彼のキャリアの始まり方です。
藤本壮介さんは東京大学工学部建築学科を卒業し、建築事務所などにあえて就職せず、大学院にも進学せず、海外留学もしませんでした。どの役割にも自分をあてはめようとせず、空白の6年を過ごしていた「何もしない」勇気に深い共感を覚えました。役割や立場から自由になり、精神の自由を獲得するためにおそらく6年の月日が必要だったのです。自由な時間の中で、建築という閉じられた概念ではなく、「空間そのものの本質」(建築のHOW?より哲学的なWHY?)を探求していた時期だったのではないでしょうか。深い井戸に降り、深い無意識にもぐり、自分の中にある根源的な欲求の泉に到達する時間が、誰にとっても必要だと思うのです。
- 精神科病院の設計という転換点
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そして、精神科医である藤本壮介さんのお父様(医師でありながら芸術にも造詣が深かったそうです)が、「閉じ込めず開放する」ことを理念に据えて、患者さんをひとりの人間として診ていたことも影響を与えたでしょう。精神科病院を経営していた縁もあり、ブラブラしている息子である壮介さんに「情緒障害児短期治療施設(生活棟)の設計」という、人間の魂に触れる困難な課題を与えたことも、藤本壮介建築の懐の深さを育てているのだと思います。
精神科には非常にセンシティブであるがゆえに社会になじめず苦しんでいる人たちがいます。感受性が強すぎるがゆえに、社会のあらゆる矛盾に気付き、傷ついてしまうのです。だからこそセンシティブな人たちが過ごしやすい空間を作ることは極めて困難な課題です。あまりに難しい課題だからこそ、病院は無機質な空間を作ることでこの問題を処理してしまうのですが、そこに意匠(デザイン)や意図を介在させる以上、深い哲学と、愛こそが必要とされます。その回答の一つが「開かれた円環(Open Circle)」という概念だったのではないでしょうか。空(くう)でありながら全(ぜん)であるからこそ、生活者が自由に解釈できる無限の空間として。
- プリゴジンとの出会い:科学と哲学の接点
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そして、藤本さんがイリヤ・プリゴジン&イザベル・スタンジェール『混沌からの秩序』(みすず書房、1987)という本に学生時代に出会い、インスピレーションを受けていたことにも共感しました(「藤本壮介の建築:原初・未来・森」森美術館、2025年7月~11月より)。なぜなら、わたしも学生時代に興奮して読んだ本だったからです。かなり難解な本でしたが、書き手が伝えたい本質的なもの、核にあった魂なるものは、20年以上経ったわたしの中にも確実に伝わっています。医療職で働く中でも、本で得た学びを自分なりに応用して実践していたと感じています。
プリゴジンの理論を簡単に説明すれば、こうです。
世界は放っておけば無秩序に向かいます(エントロピーが増大する)。つまり、ゆっくりと崩れていきます。しかし、外部からエネルギーを取り込む「開かれたシステム」では、無秩序(カオス)な状態から新しい秩序が自発的に生まれることがあるのです。これを、プリゴジンは「自己組織化」と述べています。つまり、「開かれた円環(Open Circle)」の中では、「いのち」のような活動が自発的に生まれるのです。
この世界では、秩序と無秩序があり、自然界では「自発的な対称性の破れ」が「ゆらぎ」として起きています。「ゆらぎ」で生じる構造を「散逸構造」とプリゴジンは命名しました。大きな対称性が破れると、局所や部分、小さなところでは必ず小さな秩序が生成されますが、それは「熱的なゆらぎ」による秩序とも言うべきものです。熱(火)のエネルギーがゆらぐことで部分や局所には常に小さい秩序が自発的に現れては消えてゆく。炎を見ていると、そうした現象が瞬間瞬間に小爆発のように起きていることに気づきます。ゆらぎや不安定さがあるからこそ、炎や生命のような複雑な秩序が生まれるのです。
- 「いのち」という入れ子の秩序

photo by. Toshiro Inaba-
そもそも、「いのち」自体が宇宙空間に浮かぶ地球というゆらぎのある開放系(宇宙から見たら地球をおおうような壁はない)の上で生じたシステムとも言えるものです。「いのち」は高度な情報体でもあり、自己組織化を起こすことで独自の時間を持ち、その内部には免疫、内分泌、神経などのスーパーシステムを発達させました。つまり、内部に「秩序」を生んだのです。巨大な無秩序(宇宙)の中に局所的な秩序(地球)が現れ、地球自体もまた巨大な無秩序ですが、その中に局所的な秩序として「いのち」が現れる。そうした入れ子状になっているのが「いのち」の神秘であり、誰もが「いのち」を授かり生きています。太陽という火のエネルギーの「熱的なゆらぎ」による秩序が関わることで、宇宙と地球、地球内部の人類や生類といった互いに連関した「いのち」の階層が生まれます。太陽の塔で岡本太郎が「爆発」と表現した生命エネルギーは、「ゆらぎ」が持つ力そのものであり、円相で何もない「空」でありながら「混沌」の場所からすべてが生まれることは、カオス(無秩序)こそが創造の源であることとも通じます。
生きとし生けるものすべての内部に燃えている「いのち」の力は、そうした地球や宇宙、太陽の秩序と非秩序とが音楽を奏でるように関係している。そんな夢想に浸らせてくれたのが『混沌からの秩序』という難解な書物(科学史であり哲学史でもあった)でした。
藤本壮介さんも学生時代に同じ本に衝撃を受けたと語っていました。深い建築哲学の根はそうした非言語的な直観の中にこそあるのかもしれません。
- 都市・社会・共同体もまた「ゆらぎ」で生きている
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この「ゆらぎによる秩序」は、社会の原理そのものと言えます。
人が集い都市や社会や共同体が生まれる。「なぜ人はバラバラになり、そして集うのか」。これはまさにプリゴジンが述べる「ゆらぎ」と「散逸構造」の関係性とも言えるものです。あるシステムが限界に達すると、小さな「ゆらぎ」が抑えられずに増幅され、増幅されたゆらぎがきっかけとなり、新しい秩序(散逸構造)へ再構築されます。この「ゆらぎによる秩序」こそが、生命や社会のあり方そのものとも言えます。人が集まり、ある人数以上になるとバラバラになり、そしてまた小さな秩序が生まれるようにして集まる。都市や社会は、こうして不安定だからこそ生きています。そうした人間の生命活動と建築空間をどう接続させるのか――それは本質的には「哲学する建築」という問いなのです。
- ポテトチップスの「隙間」
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こうした“ゆらぎから立ち上がる秩序”という視点は、日常の些細なものにも宿ります。
藤本さんの作品に、ポテトチップスで作られた層状の作品があります。ポテトチップスを重ねてみると、そこに隙間が生まれます。その隙間としての空間は、枠で囲まれた現代建築のように閉じられたものではなく、開かれた空間です。偶然の中でおのずから生まれた空間を、人間の居場所として考えてみる一つの思考実験です。日常のありふれた偶然の風景にこそ、建築の発想を立ち上げる手掛かりがあるのです。
- 1970年と2025年が交差する地点
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大阪・関西万博を訪れたとき、1970年と2025年という時間が「いのち」を軸に交差しているのを感じました。大屋根リングという「開かれた円環」の中で、太陽の塔のように空を見上げた時、宇宙の中にある地球、地球の中にいる人類や生類(しょうるい)、――そこには「いのち」が貫いていることを全身で感じたのです。
わたしは大阪関西万博の会場から、その足で万博記念公園へと移動し、太陽の塔を実際に見に行きました。岡本太郎は、「人類は進歩も調和もしていない」と、宣言し、太陽の塔という神像を据えました。1970年のことです。太陽の塔は「過去・現在・未来」の象徴であり、悠久の過去と遥かなる未来とが衝突して現在という時空が立ち上がると考えていたのでしょう。現在は過去と未来が衝突した火花のようなエネルギー構造物でもあるのです。
- 700万年という視野
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太陽の塔を仰ぎ見ながら、人類の進歩や調和のことを内省しました。約700万年前、類人猿から分岐した「猿人」と呼ばれる初期の人類が誕生したことを脳内のイメージに浮かべながら(サヘラントロプス・チャデンシス:現在のところ最古の人類化石)。その後、700万年の時間をかけて、人類はいまここの地点にやってきました。農耕革命、産業革命、情報革命を経ながら。
太陽の塔を前にして「人類の現在」を考えていると、700万年前の過去である人類の幼年期の時代と、700万年先の未来である人類の進化期の時代とを衝突させた上で、そこで火花のようにして生まれる「現在」の地平を見つめてみなさい、ということだと受け取りました。
700万年後は太陽の塔も朽ち果てているし、地球上にある人工的な都市も壊れているでしょう。ただ、そんな遥かな未来でも残り続けているものは、人工物ではなく、太陽の塔のように天と地をつなぐ巨木ではないでしょうか。屋久島にある縄文杉も推定樹齢2000~7200年とされています。ギリシャのクレタ島にあるヴォーヴェスのオリーブも4000年ほど。アメリカのカリフォルニアには「メトシェラ」と呼ばれる推定約4800歳の木もあります(969歳まで生きたとされる旧約聖書の登場人物メトシェラにちなんで名付けられたらしい)。ピラミッドが約4500年前に建造されたとされるので、石でできたピラミッドと巨大植物である最古の樹木は同じくらいの時、地球の営みを見つめてきました。
700万年先をイメージして現在を生きる(人類はそれだけの歴史を背負っている)、という岡本太郎の公案は、現世だけの視野だけではとらえきれないものです。死後の生も含めて、いのちの視野を広めなさい、と言っているのかもしれません。実際、ピラミッドは死後の生もイメージされた空間として建造された巨大な人工物です。
そうしたことは、わたしが横尾忠則さんと対話をするときにも常に問いかけられるテーマです。芸術と霊性との関係は、死と生を、生と死を、ひとつのものとしてとらえない限り、永遠に解けない問いでもあるのかもしれません。
この世の生は、遥かなる長い「いのち」の時の流れの幼年期とも言えるのでしょう。かけがえのない人生の中で何を学び、何を選択し、どのように成長していけるのか。それは現世の尺度では測れないものです。
目に見えない価値に、どれだけ人生の密度を込めることができるのか。
そんなことをぼんやりと考えながら新幹線で帰路につきました。700万年後の過去と700万年後の未来を同時にイメージしていたとき、新幹線から富士山(竹取物語で不老不死の薬を燃やす山として不二山=並ぶもののない唯一無二の山)が顔を見せ、すぐに雲の中へと消えていきました。 


photo by. Toshiro Inaba
- 有機物と無機物のあいだ
- 人間は、「いのち」の役割を終えて死を迎えると、いずれ雲や山、水や土のような存在物へと溶け込んでいきます。有機物と無機物との区別はこの現世の中での一時的なものです。この世がそもそも仮の宿であると考えられていたことは、「常世(とこよ)」(あの世)に対して、鏡のように映し出した世界が「現世(うつしよ)」(この世)であると考えられていた「コトバ」の中に保存されています。ほんの100年ほど前のコモンセンス(共通感覚)だったのかもしれません。雲には水として、山には菌が分解した養分として、霊は帰り祖先として、死者は、土に還り、天に昇り、循環の環そのものとなるのです。
- 円環を結ぶ――時間と命と自然
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人間は山や水、自然へと変化することで、過去・現在・未来という「とき」を結び、生類や自然という「いのち」も結び、壮大な円環を結びます。しめ縄のように、しっかりと。そんな時代の記憶は、今でも神話や物語が、「コトバ」という乗り物で遠い太鼓のように語りかけていることです。
悠久の過去への眼差しと、未来へのヴィジョンこそが、「現在」を変容させます。
「芸術は呪術だ」
岡本太郎の祈りと叫びは、現代に託されました。
大阪・関西万博を経て、2026年からは「いのち」が中心となる世界へと大きく舵を切っていくことを全身で感じています。
小さなゆらぎこそ、大きな「いのち」を生み出す母体となるのです。
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Photograph by Yuki Inui
- 著者プロフィール
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稲葉俊郎(いなば としろう)
1979年熊本生まれ。医師、医学博士、作家。東京大学医学部付属病院循環器内科助教、軽井沢病院院長を経て、慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科(SDM) 特任教授。「いのちを呼びさます場」として、湯治、芸術、音楽、物語、対話などが融合したwell-beingの場の研究と実践に関わる。西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修め、医療と芸術、福祉など、他分野と橋を架ける活動に従事している。
『いのちの居場所』『ことばのくすり』など著書多数。
https://www.toshiroinaba.com/
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