いのちノオト 軽井沢発。屋根のない病院から届けよう―― 稲葉俊郎

第3回

「いのちの表現」で心を掃除する

更新日:2022/09/14

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今月の音

「自分自身の魂を配慮せよ」
    プラトン「ソクラテスの弁明」の教えより

体と心の困り事は突然やってくる?

 感染症が地球規模で流行している中で、医療現場が忙しいのは現実です。ただ、その忙しさとは、いままで経験したことがないことに対応している、という点での忙しさです。医療現場は、もともと忙しいのですが、この事態に対しての〝仕事〟が確立していないため、余計に忙しく感じるところがあるかと思います。実際、患者さんも、慣れていない事態に対するパニックや不安、苛立ちのようなものを多く感じているため、そうした心の動揺への対応に多くの時間を使っていることも忙しさをさらに感じてしまうことの一因とも言えます。
 医療現場は、もともと忙しいものだ、と書きました。なぜなら、体や心の困り事は、スケジュール管理されるように起こるものではなく、突然やってくるように感じられるものだからです。病院にも予約システムを設けているところがほとんどかと思いますが、予約時間通りに物事が進まないのが現実です。
 患者さんからの真剣で切実な訴えは、熱を帯びてくるほど情熱的になり時の存在を忘れて白熱します。予約時間を過ぎましたので終わります、と、シャッターを下ろすように話をブツリと切ってしまうことは難しいものです。医療者の側も、なんとか予約時間内に体や心の本質的な聲(こえ)を受け取ろうと努力します。困り事の渦中にいる人から溢れてくる言葉は理路整然といくわけもなく、あらゆる方向からの雑多な訴えの情報の中から、体や心、いのちの聲を冷静に受け止め、もっとも有効と思われる対策を考えます。そうした正確な聞き取りと適切な対策を考えることを診療時間内に行い続けるだけでも集中力を要し、医療者の心身が疲労する一因となります。

 そうしたことに加えて、予約外の緊急事態が常に入り込んできます。スタッフの数が十分な職場では、誰かが代わりに対応することもできますが、どの医療現場も慢性的な人手不足に困っていることが多く、予約時間のスケジュールとあわせて緊急対応も同時に行っていくことになります。「想定外」が起こることが基本である医療現場においては、忙しいことが常態とも言えます。人工的な管理型の発想がなじみにくい医療現場では人為的にコントロールすることが難しく、カオスの渦に巻き込まれやすい場といえるでしょう。
 こうした、あらゆる人間の感情もカオスの渦に巻き込まれていく中で、冷静に最善の策を考え続け、混沌とした現場に一定の道筋をつけて交通整理をしていけるのがプロフェッショナルの役割であり、現在の医療現場をかろうじて成り立たせているのもそうしたことを熟知する医療のプロの存在があるからなのです。

「見通しが立つ」のは錯覚にすぎない?

 交通事故が起きた時を想像してみてください。巻き込まれた後続車は交差点で何が起きているか正確にはわかっていません。後方では突然前に進むことができなくなったドライバーがクラクションを鳴らし続けています。何が起きたかを俯瞰的に観察する人が誰もいないからです。そこに交通整理をする人が現れ、全体を見る立場の視点が入ることで、救急車が到着でき、現場に必要な整理がなされ、再び効率よく車が流れていけるようになるのです。
 医療現場も、「交通事故」のように体や心に思いもよらぬ想定外のことが起きた人たちが大勢集っている現場です。それぞれの方々の体や心に起きた「事故」対応をしながら、同時に大勢の人がごった返し渋滞した人の流れを交通整理しながら、運営されているのが医療現場といえます。
 そうした意味では医療現場の日常は「忙しい」ものであり、現在は、経験したことがない事例が多発するために、現場がざわざわと落ち着かない、というのが実情に近いです。言い換えれば、わたしたちは見通しが立ちにくい日常を生きることに慣れていない、ともいえるでしょう。ただ、わたしは、これまでのような「見通しが立っている」ように思えた方が錯覚に近い現実であり、共同幻想の霧の中にいたようなものだと考えています。

 わたしたちの脳は何かを事前に想定することで「見通し」を立てますが、わたしたちの脳の判断を過信するのは禁物です。たとえば、脳は、どれだけ自分自身のことを知っているでしょうか。もし、脳が何でも「お見通し」ならば、自分の内臓や骨や筋肉の状況をすべて把握できているはずですが、体や心に異変が起きた時にほぼ原因や対策は分かりません。だからこそ、時には他者に客観的に自分の体や心を観察してもらう必要があるのです。
 「わたしは自分のことを何も知らない」と冷静に理解することで、脳の判断を過大に信じることから心理的な距離を置くことができます。自分自身の脳で総合的に考えながらも、同時に自分の脳の判断を過信しないよう脳の判断に一定の距離を置き、常に自身の判断を新鮮なものへ入れ替え続けていくことが、脳の意識状態をクリーンにするコツとも言えます。

わたしの脳はわたしのことを何も知らない

 脳は、外部情報をリサーチする能力においては優秀とも言えますが、内部情報、つまり自分自身の体や心、広く言えば「いのち」について何ひとつわかっていないのが現状です。どれだけの人が、自分自身の心臓や肺、肝臓や腎臓、脂肪や筋肉、皮膚や脳そのものについて、状況把握できているでしょうか。偉そうなことを言っていると思われるかもしれませんが、実際、このわたしも自分自身の体のことはよくわかっていません。すこし体調の違和感が出るたびに、寄生虫や細菌やウイルスに感染しているのではないかと不安になります。ただ、その体調不良も一過性のものであることが分かると、ホッとしますが、自分自身が感じた異変の感覚を忘れないようにしながら、そうした日々の体調の変化に踊らされ続けています。

 大事なことなので繰り返しますが、脳は外の情報は多くを得て何かわかったような気になりますが、内部の情報、つまり自分自身のことを何も知りません。そうした根本的な欠点を持つ脳という存在に、わたしたち人間は大きく依存していることが色々な不具合の根本原因とも言えます。「見通し」が立っていたことも、大きな勘違いを含むことが当然だと感じられるのではないかと思います。
 地球規模の気候変動も、ウイルスの流行に端を発した「いのちの居場所」の問題も(あらゆる生き物が「居場所」を失ったことが感染症の流行の大きなきっかけだと思っています)、世界中で起きている紛争も、はじめは散発的に小規模で起きていた事柄です。ただ、そうした小さなレベルでの対応を放棄して、目をつぶって見ないふりをしていると、局所的な問題が互いに呼応して関連し合うようにしてつながりあい、より大きな問題に発展します。やがて切実な問題として迫ってきたときになって、やっと対応するようになるのは、まさに自分自身の体や心への対応と同じではないでしょうか。

 つまり、わたしたちの脳は、自分自身への対応と同じようなパターンをあらゆるシーンで繰り返しているとも言えます。見通しが立たない日常を生きることに慣れていないだけで、この自然界とはそういうものだ、と割り切ってしまえば、少なくともそうした悩みに費やしていた時間とエネルギーは別の問題へと投入することができます。
 そうしたことは、医療現場でいのちに起きるリアルな事態を日々対応しているものにとって、ある意味では自然な考え方であり、わたしが医療現場での経験を通して学び取れることは、そうしたことです。壮大とも言える途方もない「いのちの働き」に対して礼節を保つように謙虚な心を持ちながら、いのちの働きの全体性を読み解くように努めることが大切だと思います。
 急激な地球環境の変動や感染症の流行も、人間もその一部として含むあらゆる「いのちの働き」の結果であり、人間が起こす争いや紛争も、あらゆる「いのちの働き」の結果です。局所的な視点に入り込みやすい脳の特徴をよく理解しながら、全体的で大局的な視点を失わないことが、負のループから脱出する鍵となります。

 医療現場で起きる体や心の急なトラブルは、想定外として感じられます。何度も述べているように、脳が自分自身をうまく把握できていないからです。ただ、後で考え直してみてください。その予兆や前兆はいたるところに存在したことも思い出せるのではないでしょうか。つまり、実は脳も含めていのちの全体は異変を感じ取っているにもかかわらず、脳の判断が誤っている場合もあり、同時に脳はそうした異変も完全には消去せずに記憶にとどめている、という事実にも驚きます。異変の記憶は、いつでも取り出せるように保持しているわけです。それだけ、異変や違和感のようなものは体や心にとって「いのちに関わる」重要な情報だと言えるでしょう。

「言葉」が荒れるのは「いのちの危機」

 そうした忙しさが当たり前と思える医療現場の中で、現場の肌感覚でわたしが危惧しているのは「言葉」に対する危機感です。つまり、発熱外来などに受診される方が、待ち時間が長い、対応が遅い、納得がいかない……など、医療者に対して口汚い言葉でののしることが増えています。そうした「言葉」が荒れている現状にこそ、危機感を感じています。
 「言葉」は、誰もが簡単に表に出すことができる「表現」の一つです。わたしたちは内臓感覚を含めて、内部で感じたことを適切に「表現」する手段をそれほど多くは持っていません。心身の違和感や不快感を、安易に発することができる表現として「言葉」で代替しようとすると、それは言葉にならない叫びのようなものとなり、時には汚い言葉となって他者に投げつけてしまいます。
 前回、「いのち」にまつわることを消費者側ではなく、つくり手側に回ることの重要さを書きました。「いのち」に関わることをお金で等価交換できる消費物として取り扱うのではなく、自分にしか世話できない、自分にしかできない創造物として考えてみてほしいのです。
 全貌を把握できない「いのち」の働きを表現するとき、「言葉」は最初に重要な役割を果たします。「言葉」は、口から発される言語だけではなく、手話やジェスチャー、そして行動そのものも、広い意味での「コトバ」です。もちろん、それは他者から読み取られない限り、「コトバ」にはなりませんが、わたしは医療者として、頭から発される「言葉」の限界を知っているからこそ、微細な動きも含めた全身の身体の動きを「コトバ」として感受するよう日々修練を積んでいます。
 口から発される「言葉」だけではなく、何気ない所作も含めた心身の動きを「コトバ」として感受する姿勢は日本の伝統芸能にも見出せます。「身心一如」という考えの中で、微細な所作を心の表現として「型」に落とし込み、微細な心の働きを微細な体の動きとして表現し、修練を続ける姿勢から、そうした行為を広い意味での「コトバ」の修練と受け取ることもできます。そのようにして、わたしたちは口から発される「言葉」も、日々修練を重ねていく必要があるものだと思います。

芸術は「いのちの表現」

 口から発される「言葉」が荒れている人を見ると、「言葉」が不得意なのではないだろうかと思っています。ただ、「いのちの表現」は、必ずしも「言葉」だけではありません。わたしは、そうした表現をすべて含んだものが芸術だと確信しています。芸術の歴史とは、まさに「言葉にならない」ものをいかに外に表現していくのか、ということに対するあらゆる挑戦の軌跡そのものだと思うのです。
 多くの人は、芸術という言葉に既に距離感を感じていることが多く、絵画や彫刻、音楽のような分かりやすいカテゴリーを想像します。ただ、それは単なるカテゴリーや枠の問題であり、表現者それぞれにとって最も表現しやすいカテゴリーだった、ということに過ぎません。芸術と言うから距離感を感じるだけで、表現と言い換えて考えてみてください。

 プラトンは哲学者として有名ですが若い時はアテネを代表するレスラーとしても活躍していました。プラトンという名前自体がレスリングの師から付けられたあだ名とも言われています。文武両道という言葉がありますが、文は情報の入力(input)であり、武は情報の出力(output)のことです。情報の入力(input)と出力(output)を両輪のように循環させていくために、プラトンは文である哲学だけではなく、武であるレスリングを必要としたのでしょう。
 そのプラトンは有名な「ソクラテスの弁明」の中で「自分自身の魂を配慮せよ」というメッセージを残しています。
 体や心の不調には休息が必要ですが、魂の不調には何が求められるのでしょうか。魂はその人の目に見えない本質的な部分を指す象徴的な言葉としても使われます。「魂を配慮せよ」という言葉の力によって、自分にとって最も重要で本質的でありながら、疎かにしているものを立ち止まって考え直すことで、わたしたちは普段から自身の「魂の世話」をする必要があるのではないでしょうか。

 生きているだけで誰もが多くの矛盾を抱えています。そうした矛盾を自分の心の中に適切に配置していくために、何かを創造し、表現していく、というプロセスが重要です。それは部屋のお掃除のような行為だと思ってください。無秩序な部屋も、それなりに居心地がいいものですが、時に掃除をすると心がスッキリすると思います。もちろん、生きていれば必ず部屋は無秩序でカオスな状態へと変化しますので、生きている以上、延々と繰り返していくプロセスです。
 表現行為が心のお掃除のようなものだと考えると、ひとりで掃除ができない場合は、他者に協力してもらう必要があります。芸術祭は、そうして他者に力を借りながら、共に行う心の掃除のようなものだとわたしは思います。自分の心も掃除しながら、同時に他者の心もお掃除されていくプロセスが、芸術祭という場で行われていることです。

「自分の中に毒を持て」

 2020年に続き、2022年度も山形ビエンナーレの芸術監督を拝命しました。世界中の芸術祭を見ても、医師が芸術監督になるのは前例がないように思いますが、わたしの役割は、そうした芸術が含む「くすり」の作用を見出すことです。人によっては毒も「くすり」になりますが、それは医薬品と同じことです。毒になるか薬になるかは、微妙な配合の問題であり、その絶妙なバランスを調整することがわたしの役割です。岡本太郎が『自分の中に毒を持て』(1988年)という本を出しています。わたしはこの本に大いに勇気づけられました。岡本太郎が言う「毒」とは、「常識」に蝕まれて深い魂の病となっている人に対して、「毒」を含んだ劇薬によって自己治癒を促すものです。そして、それこそが芸術の崇高な役割だと岡本太郎は感じていたのではないかと、わたしは受け取っています。
 山形ビエンナーレは現在開催中、多彩なプログラムによって、現代の魂の病を治癒させるような願いと祈りをもって編み込まれています。そうした魂に起こる深い変化は、単純な因果関係で説明できるものではなく、「いのちの場」自体がガラッと切り替わることによって起こる相転移のような現象です。常識で蝕まれて病んでいる「いのちの場」そのものを、より根源的に切り替える、共同プロジェクトです。「言葉」で表現できないものを数多く含んでいるからこそ芸術のフィールドで挑戦しているのですが、わたしは芸術監督として、言葉に翻訳する役割も担っています。ただ、芸術祭での体験を、事前に概念的に頭で理解してから体験すると体験の枠が狭まってしまうこともあります。まず、体験し全身で感じてから、その体験の整理をするようにして頭で理解してもらいたいと思っています。この連載でもご紹介する予定です。山形ビエンナーレは、そうした新しい「場」をつくる現代的な挑戦です。2022年9月25日まで開催しています。みなさんのご参加を心よりお待ちしています。

●山形ビエンナーレ2022
https://biennale.tuad.ac.jp/


*参考文献
『ソクラテスの弁明』(プラトン著、納富信留訳/光文社古典新訳文庫)

Photograph by Yuki Inui

著者プロフィール

稲葉俊郎(いなば としろう)

1979年熊本生まれ。医師、医学博士、作家。東京大学医学部付属病院循環器内科助教、軽井沢病院院長を経て、慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科(SDM) 特任教授。「いのちを呼びさます場」として、湯治、芸術、音楽、物語、対話などが融合したwell-beingの場の研究と実践に関わる。西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修め、医療と芸術、福祉など、他分野と橋を架ける活動に従事している。
『いのちの居場所』『ことばのくすり』など著書多数。
https://www.toshiroinaba.com/

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