いのちノオト 軽井沢発。屋根のない病院から届けよう―― 稲葉俊郎

第2部 第1回

人生に「恋」と「迷子」の効用を

更新日:2025/08/27

今月の音

世界の底流には「何か」が流れている。
音もそのひとつの流れだ。
音は境界を越えてやってくるものだから。
いのちの音の響きに、そっと耳を傾けてみる。
「みずから」創造することもあれば、「おのずから」生まれてくることもある。
「みずから」と「おのずから」のあわいを生きる中で、人生の創造の瞬間をいま体験している。

  • Twitter
  • Facebook
  • Line

 わたしは、「恋」や「迷子」の状態におちいってうろたえることは、人生において大事なことだと思っています。そして、こうした時に普段なら感じることができないことを味わうことが芸術の体験と根本的に近いとも思っています。なぜなら、そこには、意識がスイッチを押すように切り替わる可能性が隠れているからです。わたしたちの脳は、どうしても固定観念や常識に縛られやすいものです。体のストレッチ体操のように、頭の内部の柔軟体操を心がけている人は、固まった思考をほぐすことに慣れていますが、そうした習慣がない人も多いと感じています。

 人が「恋」をしたとき、一瞬にして意識が切り替わります。恋に落ちるとはまるで違う階層に移動してしまうような体験です。その結果、恋は盲目になるのです。

 そうした幸福とも不幸とも言い切れない恋の体験をしたことがある方は、その時の自分の意識構造の急激な変化を反芻しながら、あの体験は何だったのだろうかと考え直してみてください。それはまさに魂の体験ともいえるものです。人は異性の形で自身の魂と出会うと言ったのは心理学者のユングですが、まさにわたしたちは恋という形式をとって、自身の魂と出会う根源的な体験をしています。わたしはそんな恋体験はしたことがない、とおっしゃる方もいるでしょう。恋は事故のように突然遭遇するものですから、体験には個人差があります。

 そうした方は、迷子の時の体験を思い出してください。ここはどこだろう、と道に迷うと、人はうろたえます。ただ、そのうろたえている自分がばれないように隠し続けるはずです。迷子で人は不安になり心細くなることで、自身の弱さを知ります。そのことで、これまで強がっていた意識の仮面がポロポロと剥がれ落ち、些細な親切が身に染みるようになります。ありふれた日常を送れていること自体に、感謝の念がどことも分からない場所から石清水のように湧き出てきます。その感謝の思いが溢れて来た瞬間をずっと忘れないでほしいと思います。なぜなら、そこはあなたの心の奥底で封印されていた、生きていること、存在していること、そうしたいのちの根源に潜む畏怖や感謝といった、いのちを動かしているエネルギーの湧き出る源でもあるからです。また、強かった自分が弱い自分へと変貌した瞬間も忘れずに記憶してほしいと思います。

 わたしたちは、恋や迷子だけではなく、日常的にも笑いや驚きなど、あらゆる予想しなかった体験により、自分の意識体系が不意に解体されてしまうという経験をします。しかし、そういう瞬間でこそ普段使われなかった力が発動するのです。古いシステムは再構築されながら新しいシステムへと自分というシステムがモデルチェンジするように移行します。些細な体験にこそ、このありふれた日常の色彩を根本的に変える力があるのです。

 障がいや病も同じ過程を経ます。不意の障がいが起きた時、以前の自分に完全に戻ることは、ほぼ不可能です。障がいや病を経ながら、納得し充実した生き方ができるようになることを「回復」と呼ぶならば、それはまぎれもなく新しい自分を発見することです。

 1932年、世界で戦争が起きていたころです。世界はふたたび破滅に向かっているのではないかと人類の心が大きく動揺していたころ、国際連盟がアインシュタインに依頼しました。「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」。アインシュタインが対話の相手に選んだのは精神科医のフロイト、テーマは「ひとはなぜ戦争をするのか」でした。その内容は、『ひとはなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫、2016年)という120ページの文庫本として書籍化されています。そこでのフロイトの結論は「文化が戦争の抑止力になる」ということでした。人間の心はもともと破壊衝動を持ち、それは行き場のないエネルギーそのものです。同じエネルギーでも、その行く先を少し変えれば、破壊のエネルギーは創造のエネルギーへと質が変わり、破壊ではなく、文化を創造する水路をつくります。文化は、人間の心や体を否応なく変える力を持つため、そのことが戦争の抑止力として機能するだろう、と、フロイトは精緻な文章で語っています。

 わたしたちに大切なことは、人間が持つエネルギーの使い方であり、使う方向性だろうと思います。生きているだけで、どんな人にもいのちのエネルギーは潜在して隠れているのですから。

 フロイトが述べるように、アートも芸術も、そうした破壊衝動を創造へと変換させる知恵だろうと思います。それに加えて医師として人間の体を診てきたわたしが思うことがあります。体の中心には内臓と呼ばれる、植物原理に従う植物性臓器があり、植物原理こそが個のいのちを支え、そして「いのち」の流れそのものを伝えてきました。具体的には「食」と「性」を担当することで、いのちを維持し伝えていく役割を果たしています。いのちの原理としての植物原理を社会の中心に据えることが、戦争ではない解決法を人類が選択する重要な手掛かりになるだろうとも思うのです。


 生命の歴史の中で、植物世界と動物世界とは、およそ20億年前に枝分かれしています。光合成細菌(らん藻の仲間)を細胞に取り込んだものが植物となり、それ以外は動物となりました。その些細な違いが、生命原理としてまったく違う道を歩むことになります。植物は自分自身の内部でエネルギーを作ることができますが、動物は何かを食べることでエネルギーや栄養を外側からとる存在です。植物世界は同化し、吸収し、融合する原理を持ちます。地下世界の土や微生物などの環境と一体化するような生命のありかたです。それに対して、動物世界は、反発し、征服し、支配する原理を持ちます。餌を食べ、領土を得るために相手の上位に立ち対立するような生命のありかたです。同化・吸収・融合(fusion/integration)と反発・征服・支配(control/rule)というたがいに矛盾しているようにも見える原理を、植物性臓器と動物性臓器として両立させているのが人間の体に他ならないのです。ただ、どちらの原理をメインに据えて、わたしたちは身体を運用し生きていくのか、その選択は常に迫られています。人間の体は植物原理と動物原理が重なり合った存在であり、そのバランスをとっている存在です。だからこそ、その矛盾を同居させることができる存在であるとも言えます。

 植物は、自然を征服しません。自然の中に入り込み、土や環境とも一体となり、融合していきます。自分の芯(軸)を立てて宇宙の方向へ伸び、花を開き、実ります。体軸は天と地を結んでいます。闘争や支配を原理とするのではなく、土の中に根を張りめぐらせ、環境へ入りこんでいきます。環境と融和的に溶け込みながら、天地自然と同期・共振しながら自分を養い育てます。全体と調和的な関係を結びながら、生長して生きていきます。こうした植物原理こそが、人類が再度見直す大切な原理だろうと思います。

 日本の伝統でも、花や草木やお庭など、常に自然や植物を中心に据えて生活(Life)をつくり、それは華道や茶道などの道となりました。闘いから逃れられない時代には、動物原理と植物原理の調和の身体技法として、武道となっています。西洋では哲学という学問の中で言葉による頭の世界で体系化されてきましたが、東洋では「道」という考え方の中で、頭よりも体の世界を体系化しようとしました。


 現代社会が頭優位の社会である以上、アート(Art)や藝術(芸術)の世界も頭で判断されてしまうのはやむを得ないことです。ただ、わたしたちが生きる根底である内臓感覚や、はらわた感覚で感じてみた時、また違ったものとして感じられると思います。動物原理ではなく植物原理を中心に据えてみてはいかがでしょうか。実際、わたしは美術館にいくとき、瞑想のように脳の活動を休ませ、森の中を散策しているときのような感覚で美術館を巡ります。そうすると、頭には理解不能としか思えない作品が、内臓では安らぐような感覚を感じることもあります。頭で考えると迷宮に入りそうな時には、内臓や体で植物的な世界で感じていると、脳の思考回路を経ずに身体に受け取られるので、また別の味わいがあります。


 わたしたちの内に潜む植物世界を大切にし、尊重すること。考えることよりも感じること。わたしたちの頭を柔軟体操のようにほぐしながら、竹のようにしなやかに強く芯を持って生きていくこと。芸術の体験が、わたしたちの身心に深く作用することを理解したとき、わたしは改めて植物的な感覚で生きることの大切さを強く感じるのです。

Photograph by Yuki Inui

著者プロフィール

稲葉俊郎(いなば としろう)

1979年熊本生まれ。医師、医学博士、作家。東京大学医学部付属病院循環器内科助教、軽井沢病院院長を経て、慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科(SDM) 特任教授。「いのちを呼びさます場」として、湯治、芸術、音楽、物語、対話などが融合したwell-beingの場の研究と実践に関わる。西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修め、医療と芸術、福祉など、他分野と橋を架ける活動に従事している。
『いのちの居場所』『ことばのくすり』など著書多数。
https://www.toshiroinaba.com/

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.