
乗る前に食べるか、降りてから食べるか──道中、きっとお腹が空いて後悔するに違いない、でも、旅の一食をありきたりの物で済ませたくはない。駅弁は、旅人の悩みを首尾よく解決してくれる。それどころか、移動時間そのものを、貴重な旅の一場面として彩ってくれるのだ。発着駅には今、実に多種多様な駅弁の数々が並び、老若男女、洋の東西を問わぬ旅行客を魅了する。その起源はどこにあるのか。日本文化はなぜ、斯様に秀逸なアイディアを生み出すことができたのか。歴史を紐解けば、そこには日本人の世界観、思想が幾重にも隠されていた……。
駅弁の「思想」を解き明かす新たな人類学を中沢新一が綴る。
第4回
ソウルフルな駅弁
更新日:2026/08/19
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日本は東西南北に細長い列島をなしている。そのおかげで気候や風土も、各地方で大きく異なり、そこで育ってきた文化も、実に多様だ。おまけに周囲をぐるっと海で取り囲まれているので、内陸部と海岸部の違いもくっきりしている。国土が狭いわりには、地方文化の多様性は豊かで、言われているほど均質ではない。
近代になって、その細長い列島の隅々まで、日本人はくまなく鉄道を敷いたのである。鉄道敷設によって、労働力が都市に流れ込む現象が起こり始めた。逆に新聞やラジオなどを通じて、東京や大阪などの都市の文化が、地方に伝わっていくようになった。地方の人々の生活スタイルも変化して、さまざまな分野での都市化もめだってきた。しかしそうなったとき、バランス感覚を取り戻そうとするかのように、地方の伝統を取り戻そうという保守的な心情が生まれてきたのは、まことに不思議な日本的現象である。
そのとき味覚の地方的差異が浮上してきたのである。伝統は原始的な感覚の中に、より深く根を下ろしている。言葉の世界では流行や変化が軽々と起こるのに、味覚のような原始的感覚の中では、古くからの習慣が変化を起こしにくい。鉄道が都市と地方を結ぶようになって、都市と地方の行き来が増えると、言葉などに比べるとより原始的な感覚である味覚については、かえって地方の伝統にたいする関心が深くなったのである。
この味覚の地方主義の急先鋒となったのが、ほかならぬ駅弁である。鉄道が全国に敷かれたおかげで駅弁というものが生まれ、いままで広くは知られていなかった各地の特色ある食べ物が、日本人の共有財産となるきっかけとなったからである。細長い日本列島は、海の幸、山の幸のバラエティに富んでいる。そのため各地には特色ある食べ物がつくられてきた。こうして各地の特産品を目玉にすえた「特殊弁当」という駅弁のジャンルの、全国的発達が起こるようになった。この特殊弁当こそが、味覚における地方主義の代表選手なのである。
自分が生まれたり住んだりしている土地の名産品となっている食べ物を、人はなんとなく誇りにしているものである。その食べ物をソウルフードとしてきた人の体内には、まちがいなくその食べ物のソウル(魂)が入り込んでいるからである。ソウルは目に見えない。しかし土地のソウルが食べ物となって、人の体内に取り込まれると、目に見えないソウルになにかたしかな実体性が与えられたように感じる。自分はこのソウルフードによって育ったのだ。そう思うと、土地の食べ物を他所の人から褒められただけで、自分まで褒められたような気分になる。 
地鶏の王者、名古屋コーチンの「焼鳥重」-
そんなわけで、たとえば名古屋の人は地元産の地鶏を誇りにしている。なにせそこには名物「名古屋コーチン」のような地鶏の王者も含まれていて、街の焼き鳥屋で出すただの焼き鳥といっても、他を寄せ付けない威風を漂わせている。そうなればとうぜん、名古屋駅の特殊弁当といえば、明治の頃から「鶏めし」であったろうと思うところだが、じっさいに名古屋駅にそれが登場したのは、ずっと遅れて昭和七年のことである。尾張藩の時代からの気位の高さが災いしてか、鉄道の駅は町外れの田んぼの中につくられたものだから、新しい駅弁を開発しようという機運がなかなか生まれなかった。しかしいざ駅弁をつくろうとなると、迷うことなく鶏肉の料理となった。折り詰めの中に鶏肉と卵のそぼろが半々に盛り付けられ、その間をもみ海苔の緑が斜めに区切っている。名古屋のソウルフードがそのまま駅弁になった。
和歌山の庶民のソウルフードといえば「めはりずし」である。大きめに握った握り飯を高菜の古漬けでくるんだだけのものだが、海苔で巻いたのとは違った食感が楽しめる。あまりに握り飯が大きいので、食べるときには目をみはらないといけないくらい、というところからめはりずしという。紀勢本線の新宮で販売されている駅弁がこれである。 
「食べるときには目をみは」る大きなめはりずし 写真提供:和歌山水了軒-
昭和天皇は戦後の日本各地を巡歴しながら、各地のソウルフードを好んで楽しまれた。天皇は古代より日本の国土を「召し上がる」方であった。地方から献上されたさまざまな食物をお召しになることによって自らの体内に取り入れて、国土の支配者であることの確認とした。戦後の全国巡歴の旅は、ある意味でこの古代的な伝統の精神的復活でもあった。各地を巡りながら各地のソウルフードの名品を召し上がることで、日本列島の地霊との交わりを回復しようとされたのであろう。なにが出されても美味しい、美味しいとおっしゃったが、なかでも九州の有明海の周辺でムツゴロウを食されたときには、その美味に感動してお褒めの言葉を賜った。それ以来、ムツゴロウの人気はうなぎのぼり、その甘露煮を詰めた諫早駅の駅弁「幕の内」が、かつて長崎本線の名物となった。
とまあこんな具合で、各地の特殊弁当はその多くが土地のソウルフードを盛り込んでつくられている。旅人はそれをいただくことによって、土地のソウル(地霊)の切れ端を、自分の体に取り入れることになる。前回書いたように、旅人(タビビト)の原義はところところの大地からなにかを賜る(贈与される)人のことである。駅弁は、土地の産んだ食材からなるソウルの切れ端を食べて体内に取り込む行為を象徴している。地霊と交わるのに、これほどラジカルな行為はなかろう。
旅は五感を解放する。旅人は風物を目に入れて楽しみ、耳には水や風の音を感じ、鼻にほのかな独特の匂いを入れて楽しむことができる。温泉でもあれば、裸になって湯につかり、全身の肌で大地の底からの熱を浴びて悦ぶ。しかしそうした感覚の楽しみ方は、どれも受動的であるのに対して、ものの味覚を楽しむとき、人は食べ物に能動的に立ち向かっていく。
食べる行為は食べ物の破壊と一体である。味覚は食べ物の破壊を通じなければ、味わうことはできない。美しく盛り付けられた料理は目に心地よいものであるが、これを口中で噛み砕き、原形もとどめないほどに破壊して、その破片を舌の味蕾に接触させた上で、喉に送り込む。これが食べるということにほかならない。
他の五感の場合と違って、味覚はとりすましていることができない。味覚にはある種の暴力性がつきまとっている。しかしそのおかげで食べることを通して、人は世界と深く交わることもできるのだ。食卓作法(テーブルマナー)の重要さはそこから来ている。エレガントに食物を破壊して体内に取り入れるための一連の作法が、味覚の暴力性を和らげ覆い隠す働きをするのである。
駅弁を食べる時、そのことが強く意識される。短時間で食べ終わるものとはいえ、駅弁をきたなく食べることはなんとなく許されない。各地の特産の食べ物を折に詰めた特殊弁当には、土地のソウルが内蔵されているからである。現地の人たちは地霊の力を込めたそのソウルフードに育まれて来た。駅弁を食べる時、旅人は知らず知らずのうちに、そこの土地の力をいただいていることになるのだから、食べるマナーが重要になってくる。土地と人間との交わりは、食を通じて深まっていく。ご当地の特殊弁当は、土地と旅人との贈与的なつながりを実現しようとしてつくられた、と言ってもいいだろう。
こんなわけで、駅弁には旅をたんなる距離の移動に終わらせないものが、宿っている。「タビ」という日本語の原義には、旅する者へ「賜りもの」をプレゼントするという意味が含まれている。座席に座ったままで景色を眺めながら、その地霊からの「賜りもの」をゆっくりと楽しむことのできる贅沢な時間を、鉄道の旅はつくりだすことができる。これは自動車にも飛行機にもできなかったわざである。
駅弁によみがえるローカル文化
それにしても、駅弁の王国たる日本における特殊駅弁の多様性は、世界に類例を見ないものである。それは各地に独特な名物食がひしめいていることを意味する。なにゆえに、日本にはかくも豊かな地方食の多様性が生まれてきたのであろうか。
日本の各地に地方都市が発達しだすのは、室町時代から戦国時代にかけてである。その頃、農業技術が発達して生産力も大いに向上しだした。農村が今日ある形になるのもこの頃である。各地の戦国大名たちは、自国内の生産力を上げるために積極的な施策や投資をおこない、市場には楽市楽座を開いて商業の発達を促そうとした。そのおかげで、各地に名産品と呼ばれるような工芸製品がつぎつぎに生まれて来た。茶の文化が広がっていくにつれて、茶菓子の専門店も生まれ、そこから名品と呼ばれる菓子が売り出された。
江戸幕府はこうした各地の大名や小名の治める国々を、藩として編成しなおして、あらためて「幕藩体制」の中に組み込んだ。藩は自国内のことには、ある程度の自律性を与えられていたので、戦国時代から続く産業の育成に励むことができた。どこの藩も他の藩に負けないように自国に特産品を育成しようと努力した。その結果、江戸時代の中頃には、各地に有名な陶器、織物、農具、薬品、料理、菓子などが知られるようになっていった。
こういう流れの中で、各地に地元の名物料理も発達してくることになった。藩というのは内側に閉じている。料理ももともとは閉じられた「家」の内部で調理され、消費されるものであるから、藩のありかたと料理のありかたは似ている。幕藩体制の中で生み出される「クニ」の特産品が、内部にこもって精緻の限りを尽くして発達したように、地方の中に閉じ込もって、独自の発達をとげることになった。
各地の名物料理はどれも長い歴史を持っている。山梨県の「ほうとう」は一つ鍋の中で出汁をとるための煮干しにネギ、里芋、かぼちゃなどの野菜を煮込み、そこに粉をまぶしたままの平打ちの麺を入れて、味噌で味をつけた当地のソウルフードである。この山梨県の考古学博物館があるとき、縄文土器で縄文食を再現してみようというイベントをおこなった。イベントには子供も多く参加して、大人たちといっしょに縄文土器のレプリカにイノシシ肉、各種の野菜、ドングリのお練りを入れて、ぐつぐつと煮込んだ。出来上がった縄文食を食べた地元の人々は、誰もがこれは味噌なしのほうとうだ、という感想を述べたという。この話などは、土地のソウルフードには数千年の歴史がこもっているケースもあることを、よく示している。
海沿いの地方でのソウルフードでは、そこの海岸で採れる魚貝類の種類の違いが決定的な意味を持った。北海道の渡島(おしま)半島の沿岸では、子持ちイカがそれこそ腐るほどに採れた。漁師の家族はこのイカを食べて生をつないできた。戦争が始まると米が足りなくなり、代用食を見つけようという運動が広まっていった。農村では稗の栽培が盛んにおこなわれた。そんなとき森駅の弁当立ち売りをやっていた人が、イカの中に少々のお米を入れて醤油炊きすれば、うまいイカ飯ができると発案した。こうして売り出した森駅名物「いかめし」は戦中と戦後の食糧難の時代に、すぐに腹いっぱいになれる駅弁として大ヒットした。
イカの煮付けは古くからの海民の伝統につながる、海岸部のソウルフードである。そこに北海道でごく浅い歴史しか持たない弥生系の米が合体して、イカ飯という絶品の駅弁が生まれたのである。日本列島の各地には、こうして独自性を持つユニークな地元食の伝統が形成されてきた。その伝統が風化しにくかったのは、近世に長いこと幕藩体制が保たれてきたからである。そのおかげで、細長い日本列島の津々浦々まで、ソウルフードの多様な伝統がつくりあげられてきた。そしてそのソウルフードの多様性の伝統の上に立って、特殊弁当の多様性の華が咲き開いてきた。こんにち日本が世界に冠たる駅弁の王国であるのは、長いこと地方が自らの独自性を失わないでこれたからである。
主な参考文献
読売新聞くらしの案内編『駅弁日本一周』、早川書房、1963年
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- 著者プロフィール
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なかざわ・しんいち
1950年生まれ、山梨県出身。思想家・人類学者。チベットで仏教を学び、人類における精神の考古学を構想・開拓する。中央大学教授、多摩美術大学芸術人類学研究所所長を経て、明治大学特任教授/野生の科学研究所所長などを歴任。『チベットのモーツァルト』など著書多数。










