
乗る前に食べるか、降りてから食べるか──道中、きっとお腹が空いて後悔するに違いない、でも、旅の一食をありきたりの物で済ませたくはない。駅弁は、旅人の悩みを首尾よく解決してくれる。それどころか、移動時間そのものを、貴重な旅の一場面として彩ってくれるのだ。発着駅には今、実に多種多様な駅弁の数々が並び、老若男女、洋の東西を問わぬ旅行客を魅了する。その起源はどこにあるのか。日本文化はなぜ、斯様に秀逸なアイディアを生み出すことができたのか。歴史を紐解けば、そこには日本人の世界観、思想が幾重にも隠されていた……。
駅弁の「思想」を解き明かす新たな人類学を中沢新一が綴る。
第2回
幕の内弁当の誕生
更新日:2026/02/04
- 駅弁は、日本人の「弁当」の長い発達の歴史の終わり頃になって現れた、ごく新しい現象である。この駅弁は「幕の内弁当」という古い様式を土台にして、それを多方向に向かって自在に展開していくうちに、今日のような多彩な意匠をつくりだしてきた。あらゆる歴史は土台から語りだされなければならない。そこで私たちはまず、弁当の世界の中から幕の内弁当がどのようにして生まれてきたのかというところから、話し始める必要がある(「幕の内弁当」ではやや長過ぎてくどいので、以後は「幕の内」と略称する)。
幕の内は晴れ着を着た弁当である。学校や会社や屋外作業の現場などに携行されて、日常の延長の中で食される「ケの弁当」にたいして、祭礼や大切な寄り合いや芝居見物のような、華やかな特別な機会に登場してくる晴れがましい「ハレの弁当」として、幕の内は発達してきた。
ハレの日には、世界が華やぐ。まるで木々の枝にあでやかな花々が咲き出すように、生命が目一杯、自分の持てる潜在力を世界に開いていくのが、ハレの日である。その日、女性たちは美しく化粧して着飾り、男たちも盛装して、ハレの日の弁当の前に居住まいを正す。そっと蓋を取る。そこには美しい食品の調和が息づいている。どんな生活の細目にも美を見出そうとしてきた日本人の感性の中から、幕の内は生まれた。 
見た目も華やかな今日の「幕の内」。写真は「日本橋 大増(だいます)」の「銀だら弁当」/武重到・撮影- 幕の内には、しかし長い前史がある。人類は旅をするとき、村から離れた場所で作業をするとき、かならずなにかの携帯食を持参したものである。いまでいう「弁当」である。縄文人の弁当がどんなものであったかはわかっていない。しかし肉や貝を干したものや堅果類の粉をこねてつくったクッキーなどがその役目を果たしたであろうことは、十分に予想できる。
稲作が始まっていわゆる弥生文化が列島に広まっていくと、列島の住人は蒸したお米を乾燥させてつくった「糒(ほしいい)」を、弁当にしたらしい。石川県の弥生時代の遺跡からは、黒く炭化した約二千年前の「おにぎり」が出土している。笹に包んだ米を蒸して円錐形に握ったもので、考古学者は何かの祭祀に用いたものではないか、と推定している。弁当の起源には、米を中心にした穀霊信仰が深く関わっている様子なのである。
穀霊をお祀りする農耕神事がしだいに発達してくるようになった。その中から「ハレの弁当」がつくられるようになった。民俗学者の折口信夫は、古代の日本において祭りの日に穀霊である神と人間がともに食べる(神人共食)特別な野外食のための弁当が、村の少女たちのおこなう「山入り」神事と結びついて発生したと考えた。
春の盛りの一日、山や野に躑躅(つつじ)やげんげ(蓮華)が咲きみだれる頃、村々では女の子たちばかりが集団をなして、山に入っていく光景がみられた。「山入り」とか「野あそび」と呼ばれた農耕神事が、村の少女たちを主人公にしておこなわれた。その行事に男たちは参加できない。未婚の少女たちだけが、山の神の支配する領域に入っていくことができた。
神事には神に捧げる特別な神饌(しんせん)が必要である。そのとき彼女たちは、さまざまな器に入れた「ハレ(聖なる)」の弁当をつくって運んでいった。水分(みくま)りの神である山の神は、稲作の出来を左右する。今年の稲を植える「早乙女」と呼ばれる役目に選ばれた少女たちは、山の神にお目見えして、持ってきた弁当をいっしょにいただく。こうして日がな一日、山の中で歌ったり踊ったりして神遊びを楽しんだあと、日が傾く頃、植物の生命力の象徴である躑躅の花を髪にさして村に帰ってくる、というのが、折口信夫の描いた「山入り」の光景である。
そのとき古い時代に山の中で少女たちが、じっさいにどんなことをしていたのか、詳しい記録はほとんど残されていない。しかし、少年期の私の記憶を探ってみると、そこに意味不明のままにとり残されている奇妙な光景の記憶があり、のちに民俗学という学問を知るようになってから、ひょっとしたらそれは古い山入りの行事の消滅寸前の姿だったのではないか、と思い至るようになった。その推測が正しいかどうかは別にして、かつてはこんな行事が山梨の田舎ではまだおこなわれていた。
ちょうど躑躅の花が山野に咲き出した頃のある日、少し年長の姉と数人の村の少女たちに連れられて、私は家から五キロほど離れた富士塚という小高い山に登っていた。私はまだほんとうに幼かったから、この少女たちだけの山入りのお供を許されたのだろう。祖母がつくってくれた太巻きと寒天寄せときんぴらごぼうを詰めた重箱を風呂敷で包んだものが、お弁当として手渡されていた。
どの女の子も家でつくってもらった弁当を持参していたが、ふだんの質素な食生活ではめったに出会わないようなご馳走が詰めてあった。それをみんなで分け合って食べた。夕暮れまで遊んで、山を下りてきた私たちの手に、躑躅や桜の小枝が握られていたかどうか、そこまでは憶えていない。
日本列島では稲作が広まっていくと同時に、このような「山入り」の行事がおこなわれた模様である。そこから、ハレの日の野外饗宴の風習が始まった、と折口は考えている。この行事がのちの時代の「花見」につながってくる。それにつれて、「山入り」行事に携行された素朴な「ハレの弁当」は、しだいに豪華な弁当に発達していくことになる。
支配層にとっては山の神も稲作の出来も民衆ほどの関心事ではなかった。彼らの間では、花そのものを賞(め)でる「花見」の宴が流行することになった。桜の花見は平安時代の貴族の間でも人気だったが、中世になると武士の間でも桜の花見が盛んに行われるようになった。とくに有名なのが、一五九八年に太閤秀吉が醍醐で催した花見で、このときには満開の桜の樹の下に緋毛氈を敷いて千三百人もの貴婦人たちがくつろぎ、美しい装飾をほどこした漆器の容器に詰めた豪華な弁当がひろげられ、歌を詠んだり舞を舞ったりのさかんな酒宴がくりひろげられた。
江戸の中期頃からは、将軍吉宗が民生安定という政治的な意図もあって花見を推奨したため、江戸や大坂などの都市で花見が空前の盛り上がりをみせるようになる。腕利きの職人たちは競い合って、さまざまな意匠を凝らした弁当容器をつくった。この容器のことが「花見弁当」と呼ばれた。花見弁当には小さく握った握り飯といっしょに、特別にしつらえられた何種類もの御菜が添えられるのが定番であった。
農民たちのおこなっていた山入りの農耕神事の神聖さはもうここにはなくなっている。飲めや歌えやで騒ぐ都市民の心には、大地とのつながりの薄くなった世界で、植物の旺盛な生命力だけが妖しい乱舞を繰り広げるようになる。
とはいえ、このように野外で食べられる「ハレの弁当」は、つねに生命力の横溢を象徴する春の植物の開花と結びついていた。野外へ出て食事をすることと植物をつうじたよみがえりの感覚とが一つになって、「ハレの弁当」の発達をうながした。
花見はその頃の一大イベントであったが、大坂と江戸では同じ頃にもう一つの華やかな娯楽が大流行をとげていた。芝居小屋で上演される歌舞伎である。花見は一年に一度きりだが、歌舞伎は年中楽しむことができる。歌舞伎の華やかさは満開の桜のあでやかさに匹敵する。その桜の森の興奮が、形を変えて芝居小屋のエンターテイメントに移されたとも言える。
色鮮やかな衣装をまとった役者たちが、度肝を抜く豪胆さで見栄を切り、女装した女形(おやま)たちは、優美なしぐさで舞を舞い、性の境界をひらひらと乗り越える。虚構の世界の中で、抑圧された感情が一気に解き放たれる、ゴージャスな時間が庶民の前に開かれた。その空間において、日本人の「ハレの弁当」の歴史に画期をなす、合理的にして豪華な新しい弁当が生まれたのである。
芝居小屋の中では、野外に敷いた緋毛氈の上にのびのびと弁当を広げることはできない。狭い桟敷の枡の中で、隣の客と膝を触れあいながら、弁当を開かなくてはならない。そうなると、見た目の華やかな器自慢をしているよりも、たくさんの食材をコンパクトに詰め合わせる工夫のほうが大事になってくる。手軽で食べやすく、しかも花見弁当の豪華さは保たれた「幕の内弁当」なるものが、こうして誕生することになった。
芝居小屋に出前され、楽屋の役者や桟敷席の客に仕出しされた弁当の多くは、芝居小屋と提携している茶屋で、仕出しの弁当として調製されたものである。ふつうには「芝居弁当」と呼ばれた。その中でも有名になったのが日本橋芳町(よしちょう、現在の日本橋人形町)に店を出していた「万久(まんきゅう)」の芝居弁当で、「幕の内」という商標をつけていた。幕の内とは、幕間に食べる弁当という意味である。その幕の内の意匠が人気を博したのである。
当時の随筆(『守貞謾稿』)には、この万久の弁当の献立が詳しく記録してある。 
再現された江戸時代の幕の内弁当 提供 歌舞伎座サービス株式会社- それによると、江戸では「幕の内」と名付けた弁当が人気で、それは平べったく握った丸い握り飯十個ほどを軽く火にあぶって焦がし、これに卵焼き、かまぼこ、こんにゃく、焼き豆腐、かんぴょうの煮付けなどを重箱に納めて、客席まで運ぶ、とある。重箱ではなく、経木(きょうぎ)でこさえた折り詰めもよく使われた。
幕の内で特徴的なのは、宴会や花見の宴席などに登場する大きな器に盛り付けられた料理に代わって、万事が個人用に手軽にしつらえられていることである。握り飯数個と水気の少ない副食物だけが、小さな折り詰めに詰められている。これならば狭い桟敷席でも、自分の膝に載せて、手を汚すこともなく、気軽に食べることができる。しかも「ハレの弁当」としてのあでやかさも保たれている。
たちまち大人気となった幕の内は、芝居弁当の代名詞のようになっていった。万久の幕の内を真似した芝居弁当が、いろいろな茶屋でもつくられるようになり、ふつうの座敷の宴席にも出されるようになって、しだいに芝居弁当の枠を超えて広まっていった。幕の内弁当は、江戸文化のつくりだしたさまざまな名品の中でも、後世の食文化への影響力ということでは、抜群の存在感を示している。 - 主な参考文献
折口信夫「花の話」、『折口信夫全集』、第2巻、中央公論社、1995年
折口信夫「年中行事に見えた古代生活−雛祭りを中心に−」、『折口信夫全集』、第17巻、中央公論社、1996年
権代美恵子『日本のお弁当文化』、法政大学出版局、2020年
- 著者プロフィール
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なかざわ・しんいち
1950年生まれ、山梨県出身。思想家・人類学者。チベットで仏教を学び、人類における精神の考古学を構想・開拓する。中央大学教授、多摩美術大学芸術人類学研究所所長を経て、明治大学特任教授/野生の科学研究所所長などを歴任。『チベットのモーツァルト』など著書多数。










