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読むダイエット 高橋源一郎

第13回 最後の晩餐

更新日:2022/01/19

人生最後のご馳走

 青山ゆみこさんの『人生最後のご馳走 淀川キリスト教病院 ホスピス・こどもホスピス病院のリクエスト食』(幻冬舎)を読んだ。タイトルの通り、この病院のホスピス、終末期にある患者が最後の時間を過ごす施設で出される食事について書いた本だ。
 実は、わたしは、この病院のこどもホスピスの取材をしたことがある。こどもホスピスの先進国、イギリスで取材をした後に訪れたのが、ようやく日本でも始まったこどもホスピスの取り組みの先頭に立っている、この病院だった。その、こどもホスピスも素晴らしい施設だったが、それと同じ病棟に、大人用のホスピスがあって、そこで出される食事についての本なのである。もしかしたら、こどもホスピスの方でも同じ取り組みがなされているのだろうか。あのときには、訊きもらしてしまったが。

 この本の冒頭で、青山さんは、執筆のきっかけになったできごとについて書いている。

青山ゆみこ『人生最後のご馳走 淀川キリスト教病院 ホスピス・こどもホスピス病院のリクエスト食』
幻冬舎

「雑誌の編集をしていた頃、街のややこしさやふくよかさ、心にしみるような皿やそれを生み出す料理人など、『よく生きる』ための多くを教えてくれた大先輩がいた。直接的な仕事の先輩ではないが時折街に連れ出してくれて、飲むのも食べるのも豪快に楽しまれ、そんな喜びを誰かと共有したくて仕方がないという姿を見せてくれた。いつも蝶ネクタイがトレードマークとなる洒落た装いで、過剰なまでのサービス精神とウィットにあふれた人だった。
 数年前から、その先輩がお酒を飲む姿を目にすることがなくなり、お会いする度に迫力のあった大柄な体が少しずつほっそりして見えるようになった。ほどなくがんに冒された肝臓の一部を切除したことも知った。(後略)
 亡くなる半月ほど前のこと。深刻な状況だと家族の方から知らされて見舞いに行った知人から、ある洋食店のコンソメスープを先輩が飲みたがっているという話を耳にした。
(前略)その洋食店には『ダブルコンソメ』と呼ばれる深い味わいを持つコンソメスープがある。先輩がそのスープを飲みたがっているというのだ。
 魔法瓶を抱えてお店に赴き事情を話すと、ぱりっとした黒いジャケット姿の支配人らしき方は頷いて、私をテーブル席の椅子に掛けさせると、魔法瓶を持って厨房へ消えて行った。しばらく経って戻ってきた手には、熱々のスープが入った魔法瓶。そして、その方がお口にできるのかわかりませんがもし良かったら、と可愛らしい小さなお菓子まで持たせてくれた。
 その足で病院に駆けつけると、ちょっと驚いて迎えてくれた先輩は、すっかりとそぎ落とされた頬や筋の立った首元から、ほとんど食事がとれていないことが一目で推測できた。そんな状態の人にどうなんだろうと躊躇しつつも、お好きなスープだと聞いたので食事のときにでもどうぞ、と魔法瓶を渡すと、ぱっと目を輝かせて今すぐ飲みたいと言う。(後略)
 看護師さんに相談すると、スープ皿とまではいかないが、浅めの白いサラダボウルを借りることができた。そこにダブルコンソメを注ぐと、見たこともないような濃く深い琥珀色の澄み切ったスープが白い器に浮かび、濃厚な肉の風味と得も言われぬ香りがふわりと広がった。匂いだけでお腹が空いてきた私は、思わず喉を鳴らした。
『ああ、アラスカのダブルコンソメやなあ』
 先輩は低く唸り、まぶたを閉じて香りを堪能するように大きく息を吸い込んでから、ほんの少しスプーンですくったスープを唇にそっとつけて、それを舐めた。
『うまいなあ。うまいなあ。ありがとう』
 私の目をのぞきこむようにぐっと見てにっこり笑い、再び目を閉じて何かを思い出しているようだった。
(中略)
 だが、そのときはすでにいつ最期を迎えても不思議ではなく、抗がん剤と強い痛み止めによる副作用で、とうてい口から食べものを摂取できる状態ではなかったと後から人に聞いた。その後、見舞いに来た客にダブルコンソメを飲んだのだと嬉しそうに話されていたことも。
 先輩の顔を見たのはその日が最後で、私の中にはコンソメスープを飲んだときの『うまいなあ。ありがとう』の声と相好を崩した姿がいつまでも残っている。病院であっても食事のスタイルにこだわる気概は、先輩の美意識や、大げさかもしれないが生き様にも通じる気がして、思い出す度に背筋が伸びるような心持ちがする。それは先輩が私にくれた最後の贈り物だった」

 この「先輩」の「うまいなあ」は、私の父の「うまいなあ」と同じ響きであったと思う。そこでは、同席する者にも、食事の「分け前」があるのだ。そして、いつか、そのように、心の底から「うまいなあ」と呟きたいとも思うのである。

素麺

 Fは大学時代の友人だった。というか、一緒に学生運動をやった仲間ということになる。わたしは大学を中退し、Fは無事に卒業後、県庁の職員になったが、その職についたまま、しばらく司法試験の勉強もしていたと聞いた。わたしが大学を除籍になったのは、在籍期間の限度の8年を超えたときで、20代も半ばになっていた。ちょうどその頃だったと思う。県庁の定期健診で肝臓癌が発覚したFは、少しの間、入院した後、家に戻った。発覚したときには手遅れで、最後の時間を家で過ごそうと決めたのである。
 そのことを教えてくれたのは、やはり大学の頃の友人のTだった。大学の頃の友人でいまも付き合いがあるのは(つまり半世紀以上付き合っているのは)Tだけだ。
 TとわたしはFを見舞いに行くことにした。ふたりで行くことにしたのは、とてもひとりで行く勇気がなかったからだったような気がする。
 それは8月の中頃で、ひどく暑い日だった。Fが住んでいた公団住宅の周りは鬱蒼と木が生えて、耳をつんざくほどの蝉の鳴き声の中を、わたしとTは歩いた。Fの家のドアフォンを鳴らすと、F本人が現れた。
「おお、来たね」とFはいった。
 Fの顔色は黒っぽくなっていたが、思ったほどは痩せていなかった。驚いたのは、腹がむくんで妊婦のようだったことだ。腹水がたまっていたのである。
 それから、わたしたちは家に入り、しばらくの間、Fと話をした。どんな話をしたのか、まったく覚えてはいない。そもそも話すべきことがないのだ。「死を前にした知人」にどんな話をしたらいいのかを教えてくれる本を、わたしはいまだに読んだことがない。だが、それは、Fも同じだったろう。「死を前にした自分を見舞いに来てくれた知人」にかけることばを教えてくれる本もないのである。だから、わたしたちは、当たり障りのない昔話や世間話をしていたと思う。
 1時間ほどして、Fが「昼飯を食べていかないか」といった。断る理由はなかった。
 昼飯を作ったのはFだった。料理というほどではなかった。素麺を茹でて、氷水で冷したものが出た。茗荷を刻み、つゆも自分で作っていた。食卓には、わたしたちの他に、彼の妻と娘がふたり座った。2歳と3歳の娘である。
「味は薄いよ。この子たちが食べられるようにね」とFはいった。
 はっきり覚えているのは、Fの妻が最初から最後まで無言だったこと。そして、おそらく、客が珍しかったせいか、幼い娘たちがひどくはしゃいでいたことだった。
 Fは、自分では食べず、娘たちに、彼が作った素麺を食べさせていた。とても穏やかな顔つきだったと思う。わたしとTは、Fの作った素麺を食べた。どんな味だったのかは、やはり記憶にはないのである。
 最後に、Fの家を辞した。Fはドアのところまで送ってくれた。それが最後になることは、お互いによくわかっていた。
「じゃあね、ありがとう」とFはいった。
 わたしたちも「じゃあね」と答えた。「じゃあね」の後には、どんなことばがふさわしいのだろう、とそのとき思ったことをよく覚えている。
 Fの家を出ると、公団内にある、小さな公園に寄り、わたしとTはブランコに乗った。そのまま家に戻る気がしなかったのである。
「気がついた?」とTはいった。
「影が薄いって、ああいうことをいうんだな」
「うん」とわたしも答えた。
 Fのような姿の人間を見たのは、それが初めてだった。いや、それ以降も見た覚えがない。食卓につき、娘たちに食べさせているFは、目の前にいるにもかかわらず、ひどく遠いところにいるように見えた。はっきりいうなら、そこにいるのは、生きている人間ではなかった。もう半ば、Fは、この世界から離脱しているように見えた。なんというか、かすんでいるようにも、おぼろげな光を放っているようにも見えた。生きている人間は、絶対にそんなふうには見えないし、感じられないはずである。そのとき、わたしもTもそう思ったのだった。
 あのふたりの娘たちは、いま健在なら、50歳近くになっているだろう。彼女たちに、あの日の記憶はあるのだろうか。父親が作ってくれた素麺の記憶が。もしかしたら、Fは、無意識の中に、娘たちの記憶の中に生きる手段として、料理を選んだのだろうか。味の記憶、誰かと食べた記憶と共に、自分がそこにいたことを忘れられないようにするために。Fが亡くなったのは、わたしとTが訪ねた2週間後である。わたしもTも葬式には出なかった。

 一度だけ素麺を作ったことがある。わたしはふだん、自分のダイエット用の食事しか作らないし、その場合、使うのは、仕事場のキッチンだ。家のキッチンは、妻が専用にしているので、勝手に使うわけにはいかない。けれど、そのときは、妻が不在で、わたしと子どもたち二人しかいなかったのである。
「パパ、お昼、どうする」と長男がいった。
「なにか作るよ」とわたしはいった。
 キッチンを探すと、「揖保乃糸」があった。おそらく、お中元でどこかからいただいたものだろう。
「素麺でいいかい」とわたしはいった。
「いいよ」と長男と次男が同時にいった。
 それから、わたしは、大きな鍋に湯を湧かした。素麺を茹でるのと茹で卵を作るのと、同時にやるのである。料理の本には書いていないが、時間短縮のために、わたしが考え出したアイデアだ。要は、面倒くさいだけなのだが。その間に、なすと胡瓜とトマトを切った。それから、3倍濃縮のめんつゆに、コチジャンと酢と胡麻油を加えてみた。すべて、量は、なんとなくだったが、めんつゆ以外は、サラダのドレッシングに試してみたものだった。ダイエットのために始めた料理は、いつの間にか進化していたわけである。
 なすと胡瓜は塩水につけこんでから水気を切った。茹でた素麺は、水に晒してから、ボウルに入れ、特製ドレッシングをかけてこれも混ぜた。茹で卵も切っておいた。最後に、なすと胡瓜とトマトと茹で卵をのせて、胡麻を散らした。白胡麻がなく黒胡麻で代用した。すべてが完成するまで、15分もかからない。
 それから、3人で、素麺を食べた。外から蝉の声が聞こえていた。
「パパ、うまいじゃん」と長男がいった。
「サンキュー」とわたしはいった。
「しかも、けっこう栄養に配慮してあります」
 誰かのために作るのは、特に、それが毎日の義務でなければ、気持ちのいいものだ、と思った。最後の晩餐というのは、もしかしたら、自分が食べる、ということではなく、誰かのために作る、という体のものであってもいいのかもしれない。そんなことを思った。

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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