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読むダイエット 高橋源一郎

第12回 なんでも食べてやろう……かな

更新日:2021/10/20

 とりあえず、「キャメロンディアス」をグーグルで検索してもらいたい。1番目に登場するのは「キャメロンディアス」、当たり前だ。では、2番目はなんでしょう。たぶん、絶対にわからないと思う。なんと、「キャメロンディアス丼」! もう1回書いてみる。
キャメロンディアス丼」!
 せっかくだから、今度は、「キャメロンディアス丼」を検索してみる。すると、
「キャメロンディアス丼 まずい」
「キャメロンディアス丼 全卵」
「キャメロンディアス丼 ダイエット」
等がぞろぞろ出てくる。つまり、このインターネットの世界には、「キャメロンディアス丼」が作る小宇宙が存在しているのだ。いやはや。
 もちろん、「虚構新聞」のネタではない……といっても、最近では、「虚構新聞」のネタか現実か、わからないものも多いしなあ。
 正直にいって、「キャメロンディアス丼」の正確なレシピを確認するために、検索するまで、こんなことになっているとは思わなかったのである。次から次に、あたらしい何かが、ダイエットの世界に付け加わっているのだろう。
 わたしは、この「キャメロンディアス丼」を、ある「ダイエット系ユーチューバー」(妻に教えてもらった)の動画で知った。その「ユーチューバー」さんは、キャメロン・ディアスさんのサイトで知り、半信半疑で作ってみたところ、衝撃の美味しさだったとのことだった。なので、わたしもさっそく作ってみることにしたのである。
 まず、水300mlを小さめの鍋に。そこに鶏ガラスープの素を入れ、沸騰させる。それから、オートミールを投入する。目分量である。最近、なんでも「目分量」だ。ジャズでいうところの「アドリブ」ができるようになった自分に対して万感の思いがする。
 オートミールはだいたい大さじ5杯に対して水180mlなので、それよりは多めということになる。煮込む時間もだいたい(2分程度)。それが終わったら、玉ねぎ半玉を細かく切る。オリジナルのレシピには「生姜適量」と書いてあるが、ないので無視、である。切った玉ねぎをバターひとかけと共に色が変わるまで炒め、そこで、オリジナルのレシピでは卵の白身のみ4個分を投入する。それは、キャメロン・ディアスさんが、ダイエットを重視しているからで、わたしはいま62キロ少々しかないので、全卵2個にして、固まるまで炒める。そこに先ほど作っておいたオートミールを投入。味つけは「ポン酢」だ。できれば、葱を刻んでのせるといい感じ。見た目は、はっきりいって、でき損ないの「おじや」である。でも、だまされたと思って、食べてください。おそるべき美味しさ。キャメロン・ディアスさんが、これほど「ポン酢」の使い方に秀でた方だとは知らなかった。なんでも、日本在住経験があるそうなのだ。世界は広い。真のグローバリズムとは、こういうことなのかもしれない。

 最近、こうやって、インターネット上のレシピを拾うことが多い。というか、その多くは、動画となって、目の前で再現されている。その中には、とんでもないものも、ハッとするものも、そりゃないよというものもある。ひとことでいうなら、なんでもある。あるいは、そこには自由しかない。ふだん、自分が作っているもの、食べているものが、いかに「常識の範囲内」にあるかを実感するのである。
 食べて、寝て、生きて、死ぬ。「食べる」ことは、いうまでもなく、我々の人生の根幹の部分を成している。そんなこと、いうまでもなく誰だってわかっているはずだ。では、どこまで、我々は、その「食べる」を知っているのだろうか。
 この連載が、その、「人が食べる」ということの謎に迫る試みであることは、みなさんもご存じのことと思う。
 というわけで、今回は、最近、わたしが震撼させられた本を紹介してみたいと思っている。ほんとうにびっくりした。いや、この本を読んだ後では、みなさんも、もうそれ以前とは、同じように食事をすることは不可能になるはずである。

「ゲテモノ」と「反知性主義」

『「ゲテ食」大全』(北寺尾ゲンコツ堂著 データハウス)は、タイトル通り、いわゆる「ゲテモノ」を食べてみた本だ。
「ゲテモノ」を食べる……なんだか、よくある本のようにも思える。いや、そんな類の本はたくさんある。というか、そんな本を、わたしもたくさん読んできた。だが、読んでいるうちに、いつしか、居住まいをただし、背すじが伸びていた、という本は、これより他にないのである。
 そもそも、「ゲテモノ」という言い方がおかしいだろう。著者は、そういうのである。
「文化的な食の特異性を『ゲテモノ』の一言でくくり、差別的な意識で使用する貧困な精神の持ち主は、己の無知と異文化に対する許容度の低さを深く恥じるべきである。筆者は、この語の持つ差別的な意味合いを、容認するわけではなく、あくまで括弧付きの使用である」

 鋭い批評意識を感じさせる文章ではないだろうか。そして、そのことばを裏切ることのない、前例のないラディカルな実験が、この本の中で開始されるのである。
 著者は特に「ゲテモノ」を求めて、世界を旅するわけではない。そういう人たちは、心根こそマジメだが、「あえて」という感じが、どうしてもつきまとう。そもそも、「ゲテモノ」を食べる必要を感じない場合も多い。
 だが、この本の著者はちがう。著者が食べるのは、「いまそこにあるゲテモノ」だ。ただふつうに生きる市井の我々が、容易に手にすることのできる「ゲテモノ」を、手に入れ、食べようとする。いつなんどき、食料危機が襲っても、この本に書いてあることを知っていれば、生き延びることができるかもしれない。そんな気にさせてくれるのである。
 なんといってもすごいのは、この著者は、食べる対象を「選ばない」ということだろう。「なぜ、『ゲテモノ』を食べるのか」と訊ねられたら、著者は、こう答えたはずである。「その、いわゆる『ゲテモノ』が、たまたま目の前にあったからだ」と。
 著者が手にとらなかったものはないはずである。そして、その一つ一つを、著者は、自ら「調理」し「食べ」た。その中には、誰も調理したことがなく、誰も味わったことのないものも、あるというのに。真の冒険とは、このことではないか、とわたしは思ったのだ。
 さらに、たいていの「ゲテモノ」ハンターたちに我々が感じる「反知性主義」を、著者は感じさせない。ここでいう「反知性主義」とは、この概念を作ったR・ホフスタッターが使った正確な意味において、である。つまり、「反知性主義」とは「知性」に欠けているということではなく、「知性」というものの胡散臭さを信用しない、という意味なのだ。だからこそ、あえて、非知性的な言い方に走ったりもする、のである。
 だが、ここでも著者は、他の「ゲテモノ」食者とは異なったアプローチをする。それは、その、おそるべき「ゲテ食」の実況の中に、これまで人類が培ってきた、食と料理や生物に関する叡知を、惜しげもなく投入していることだ。この240頁ほどの小さな本の中で、引用されている参考文献は、122冊にのぼる。その中には、『アリストテレス全集』や『臨床的獣姦学入門』、『六法全書』(どれも「ゲテ食」と関係あるの? あるんですよ!)や『米海軍パイロット・サバイバルマニュアル』まである。
 もう一度書く。この本を読んだら、もう後には戻れない。おそらく、みなさんが予感しているだろう、あの生きものも紹介している。それから、逆に、みなさんが予想だにしないだろう、あの生きものも。とにかく、彼らはみんな生きていた。そして、著者によって、調理され、食べられたのだ。オオマイガッ……。では、覚悟はよろしいだろうか。旅立とう、もしかしたら、二度と戻れないかもしれない、「(ゲテ)食の旅へ」。

目に青葉山ほととぎす初鰹

『「ゲテ食」大全』だから、と身構えていた読者の方々には申し訳ない。本書の最初に登場するのは、ただの「ドングリ」である。「ドングリコロコロ、ドンブリコ。お池にはまって、さあたいへん」の「ドングリ」さん。意表をついて「かわいい」系から始めたわけではない。すでに申し上げたように、ほんとうに恐ろしいものは、静かに、なにげなく始まるものだ。いや、この本の著者は、読者を不必要に怖がらせようなどとは思っていないのである。そこにあるものを食べる。ただそれだけを書くのだとしたら、外出して、道に落ちているもので十分なのである。だが、それだけではない。その証拠に、「ドングリ」は、こんなふうに始まっている。

「ドングリは、縄文人にとっては、主要な食料であったし、社会が採集文化から農耕文化へと移り変わって以降も、山間部を中心に日常的に食されてきたのだが、ドングリ食の習慣は、日本の近代化とともに失われ始め、現在では、ほとんど消滅してしまうに至っている」

 ドングリは、ほんの少し前までは(んなことはないか)、「主要な食料」だったのだ。だというのに、いまや、ドングリが落ちていても、拾うのは、幼稚園児か保育園児くらいだろうか。ホームレスのみなさんが、ドングリを食べているという記事を読んだこともないのである。

「スダジイ(シイ類)は、寺社の境内や公園によく植えられ、秋ともなれば、都市部においても、大量のドングリを容易に手に入れることができる。
 身近さゆえに却って軽んじられるのか、足元に転がるこの黄金の実を顧みる人間はほとんどいないのだが、白く透き通った、弾力のある実は、ほのかに甘く、飽きの来ない魅力がある。生食も可能だが、皮に焦げ目が付き、はじけだすまで、フライパンで炒れば、甘みが増して一層旨くなる」

 これからは、近くの山を散歩するときには、ドングリを拾うことにしよう。そういえば、子どもたちがまだ小さくて、飯倉保育園の園児だった頃、近所の公園で、大量のドングリを拾ってきたことがあった。そのまま放置して、捨ててしまったっけ。なんと罪深いことをしてしまったのか……。

北寺尾ゲンコツ堂『「ゲテ食」大全』
データハウス

 さて、これだけでも、この『「ゲテ食」大全』の著者の真摯さがわかってもらえたと思う。では、ドングリの次はなんでしょう。ちょっと驚くと思います。なんと。

「新緑」である。

 わたしも、この本の中で、このことばに出会ったとき、「食べる」ことよりも、初夏の山に入り込んだときの風景を思い浮かべた。どこまでも広がる緑の木々、これぞ美しい、ニッポンの山。歩きながら、ふと吹き過ぎる、ひんやりとした風。そして、新鮮な空気。どこにも「食べる」要素はないように見える。だが、この本の著者はちがうのである。「新緑」を見て、最初に浮かぶのは、「きみは、食べられるかな?」なのだ。

「『目には青葉山ほととぎす初鰹  素堂』
 視覚・聴覚・味覚のそれぞれにより、初夏の季節感を表現した名句である。もちろん、視覚が新緑、聴覚がホトトギスの声、味覚が鰹の刺身であるとは言え、新緑とホトトギスの味覚的な価値も大いに気になるところであり、是非試食してみたいとは思うのだが、残念なことに、我が国では、狩猟鳥獣でないホトトギスを捕獲することは法律で禁じられており、合法的に食用とすることは、まず不可能である」

 ほんとうに、この本の著者に「ホトトギス」を調理して、食べてもらいたかったと思うが、いかんせん非合法では仕方ない。もし、超食料危機が来て、なんでも食べるしかないという極限状況になったら、「ホトトギス」も食べる事態になるだろう。そして、著者は、「ホトトギス」を捕獲し、彼(女?)らをもっとも美味しく食べる調理法を考え、実行するだろう。そのときを待ちたいと思う。って、そのときには、この本の価値が途轍もなく高騰していることだろう。
 そういうわけで、「ホトトギス」を食べることができない著者は、「目には青葉」こと「新緑」を「片っ端から食べてみることにした」のである。
「ただし、ただやみくもに食べていてはキリがないので、都内の某公園(『名前は出さないが、山の手線の内側にある某大公園である。公園の分際で、名前に「御」の字がついているくらいだから、数ある公園の中でも特に格の高い公園なのかも知れない』と著者が注で書いているので、当然、新……御……ですね)内の『グリーンアドベンチャー』(これも、著者が注で『社団法人・青少年交友協会により、自然教育のために企画された植物名当てクイズである。大きな公園や植物園で実施されている』としているので、今度行ってみたいと思う)対象樹木五十種類に絞らせて頂いた」

 著者は、公園の植物を勝手に食することにためらいを感じるのだが(どこまでも、礼儀正しい人である)、それでも「園内に置いてある『グリーンアドベンチャー』回答用紙に、植物観察の方法として、『味で調べる』と明記されていることに勇気付けられ、また、自然観察を通じての青少年の健全なる育成に、必ずや役立つであろうこの調査の社会的意義も考慮し、あえて食してみることにした」のである。
 涙が出る。著者は、誰もが、ただ「木があるなあ」とか「これ何の木、松? ちがうよね、おれ、松と桜しかわかんない」というような状況の下で、公園に存在する、あらゆる木々の正体を知ろうとしているのである。「ゲテ食」とは、著者にとって、「世界を知る」ことの一つの手段、なによりも本質的な手段の一つなのだ。
 思えば、わたしたちの食物の大半は「加工品」である。このことは、以前、アタリさんの本でも指摘した通りである(連載第10回)。工場の中で生産された、なんだかわからないものをわたしたちは食べる。映画『ソイレント・グリーン』では、なんと、それは「人間の肉」であった。あれは、映画だから? わかりませんよ。映画『ポーラー・エクスプレス』でも同じようなシーンがあった。個人的な感想をいわせてもらうなら、あの映画史に残る名作『2001年宇宙の旅』で、わたしがいちばん衝撃を受けたのは、食事のシーンだったのである。覚えてますかね、みなさん。主人公の宇宙飛行士が「宇宙食」を食べるのだが、それが、味も素っ気もない、いくつかの部位に分かれたプレートに、それぞれ変な色の塊があって、それをスプーンだかフォークだかでつっついて食べるのである。その瞬間、脳裏には「エサ」ということばが思い浮かんだ。
 そういうものを口の中に入れ、咀嚼する(丸飲みでもいいのかも)ことを、ほんとうに「食べる」と呼んでもいいのか、心は千々に乱れたのである。
 確かに、わたしたちは、『2001年』のボーマン船長の食事よりはましなものを食べている。というか、「食べる」ようなことをしている。だが、実際のところ、自分の食べるものが、「どこから来たのか」を、ほとんど知らないのである。

『ゲテ食』の著者はちがう。目の前にあるもの。その名前も由緒も知っているもの。ただ、料理法だけは知らないものを選ぶ。「食べる」があって、初めて、料理法も考えることになるのだ。

 ふう。それでは、50種の「新緑」に対して、著者はどのような態度をとったのか。そして、どんなふうに調理をしたのか。

「調査に当たっての原則は左(下記)の通りである。
(1)料理方法は全て天ぷらに統一する。
(2)採集に当たっては、可能な限り、新芽を集めるように心掛ける。
(3)中毒の恐れがある種類についても、少量を試食することとする。
(4)採点は五段階評価で行い、評価基準は、筆者の独断とする」

 かくして、前人未到の「新緑ミシュラン」が誕生したのである。
 評価は◎=美味、○=食用の価値有り、△=不味ではない、×=不味、※=毒ではない、毒=中毒の恐れ有り。
 さて、(おそらく)「新×御×」に生えている50種の木々の中で、著者によって、ただ一つ、特上ランク「◎=美味」と判定されたのは「エノキ(にれ科)」で、その特徴を「ポテトチップスに似た旨み。甘味も有」としている。みなさんも覚えておいてください。ポテトチップスが手に入らなくても、公園の「エノキ」の新芽があれば大丈夫なのだと(天ぷらにするのが大変だけど)。
 それから、上ランク「○=食用の価値有り」とされたものは、「イチョウ」(「香ばしく、旨味有。◎に近い」)、「イロハカエデ」(「柔らかく、微かな甘味。風情有」)、「ビワ」(「肉厚で甘味有り。多少の繊維質」)等10種類。ということは、適当に選んでも、5本に1本の木の新芽は、食べて、そこそこイケルということらしい。実に力づけられることである。
 さらに、中ランク「△=不味ではない」が10種類。ケヤキもサルスベリもシャクナゲもこのクラスである。
 おそらく、古代の人々は、このランクの木までは、食用としたのではないか。そして、これから下のランクのものは「食べるな」と知識や神話として伝えたのではあるまいか。「食べられる」木と「食べられない」木、それを神様が教えてくれるわけではない。我々の先祖は、この著者のように、おそるおそる、食べてみたはずである。好奇心や興味というより、「今日よりましな明日」のために、あるいは「生まれて来る子どもたちの未来」のために。
 そう考えると、著者のコメントの一つ一つに、我らの先祖の魂が宿っているように思えるのは、気のせいとは思えない(やっぱり、気のせいかも)。
 いよいよ、著者が自己責任で食べた最低「×=不味」ランクの木たちの登場である。こちらは17種類。この下には、もう「毒ではない」と「毒」しかありません。
「アジサイ」(「マヨネーズの風味。非常に強い苦味」……マヨネーズの風味というから、なんだか美味しそうに感じるのだが、そこに「非常に強い苦味」が加わるというのが、想像困難な味だ。苦味を消したら、マヨネーズの代りに使える? んなわけないか)
「ヒマラヤスギ」(「舌のコワ張る酸味。嚥下不可能」……嚥下不能なほどの酸味というのも、ちょっと味わってみたい気もする)
「※=毒ではない」も一つ紹介しておこう。
「クロマツ」(「松ヤニの香り。固く、喉に刺さる恐れ有」……香りはともかく、喉に刺さるとは命がけの食材だ)

 そして、最後が、番外の「毒」ランクで、全部で3種類。公園の木のおよそ16本に1本は「毒の木」なのかと感慨深い。念のために、一つだけ紹介しておこう。
「アセビ」(「嘔吐、下痢。呼吸中枢麻痺。死亡の恐れ有」)

 どうだろうか。とりあえず、なにも食べるものがなくなって、ふらふらと「新×御×」に入りこんだときには、役に立つかもしれない。ちなみに、「ヒマラヤスギ」について、著者は、本文でも「涙なしには飲み込むことができない」と書き、さらに、別注で「SAA(英国特殊部隊)のサバイバルマニュアルによれば、ヒマラヤスギ類は『どの部分も食用にしてはならない』とされている」と付け加えた。ヒマラヤスギ、恐るべし。しかし、それをわかってなお、挑戦しようとした著者のチャレンジ精神こそ称えられるべきであろう。著者のような存在がなければ、種としての人間が、この世界に広まることはできなかったかもしれないのだ。

 続いては「煮付け」「味噌煮」「味噌汁」を試みた「イソギンチャク」(味は△)、なにより味が「◎(!)」という、釣りのエサのアレ、こと「アオイソメ」(「そぼろ煮」「天ぷら」)も悪くないし、誰でも食べられそうな「ミミズ」(お勧めは「ミミズ丼」)もよさそうだが、「アメフラシ」についての著者の考察を読んでみることにしたい。入手しやすさは「◎」で味は「○」だそうだ(著者は、わざわざ「お近くに海辺のない方は入手が難しくなります」と注をつけてくださっている。なんて親切な人なんだろう。ちなみに「◎」や「○」の評価は前出の「新緑ミシュラン」とは異なるものの、基本的には同じです)。

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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