いのちノオト 軽井沢発。屋根のない病院から届けよう―― 稲葉俊郎

第6回

「はらわた」で考える

更新日:2023/12/06

今月の音

こころで感じることを、なにか具体的に表わそうとすれば、ごく自然に〝胸の奥から〟とか〝肚の底から〟というでしょう。これはまさに胸部内臓と腹部内臓――つまり「からだの奥底に内蔵されたもの」との深い共鳴を言い表わしたものではないでしょうか……。

『内臓とこころ』(三木成夫著/河出文庫)

  • Twitter
  • Facebook
  • Line
 医術と芸術は同じ力を持っている

 わたしは医術と芸術とが極めて近い場所にいるという感覚を持っています。人が治癒するプロセスは、失われた全体性を回復するプロセスでもあるのですが、そのプロセスは芸術体験に近いと感じているからです。
 全体性とは、わたしたちの約60兆個に及ぶ細胞からなる極小の世界が生み出す生体システムそのもののことです。病やケガが生じると全体性が乱れ不具合やバグが生じます。その不具合を整え回復するために体は全体のネットワークとシステムを最大限に使います。例えば風邪をひいて高熱がでたときには、熱を下げるために食欲を抑え、動かず横になってよく眠れるようにする、切り傷が生じたら体液を滲出(しんしゅつ)してかさぶたを作りながら防御し新しい皮膚を作り直すというようなことです。
 頭と体、意識と無意識など、一見、相対するように思えるものも実は分かちがたい働きの上で成り立っているため、全体性が乱れるとそこに壁ができて一時的には分断される状態がつくられるのですが、また新しい状態へと変化しながら、そうした異なるものが矛盾を含みつつ同居し両立できる状態がいのちの全体性が発揮できている状態だと言えます。
 医療従事者として人の身心に強い関心をもって生きている自分としては、いのちの全体性が発揮できる状態であるためには芸術が到達しようとするプロセスが大きく関係している、と感じます。つまり、人間が本来の力を存分に生かしていくためには芸術の力とある種の通路で結びつくことが必要だという視点から、芸術が及ぼす多面的な影響を医師として常に観察し研究しています。

 しかし、そうした話をすると、「わたしはアートに縁が薄い」、「わたしはアートに呼ばれていない」とおっしゃる方もいます。こうした話を聞く度に、わたしがイメージしているアートと、距離感を感じる方がイメージしているアートとかなり違うものを指している気がしています。わたしたちは自分の体や心と常に一緒にいて「一心同体」のはずですが、体や心のこと、健康や病気のこと、食や環境のことなどが自分とは縁遠く興味がないと言われるときにも同じ気持ちになります。アートや芸術をわたしがなぜ身近に感じているのかを含め、改めて考えてみたいと思います。

「アート」か「芸術」か? 「藝」か「芸」か?

 そもそも、わたし自身もアートと書くか芸術と書くか、二つの言葉のどちらを使うのかに迷います。さらに「芸術」と書くべきか、「藝術」と旧字体で書くべきかも、迷っています。なぜなら、どの言葉を使うかで読み手にどういうイメージが立ち上がるかが違うため、こちら側の思いと齟齬があってはいけないと悩んでしまうからです。「芸術」と「藝術」の違いは、よく話されるテーマですが、ここで一度触れておきたいと思います。
 明治期に西洋から「Art」という言葉が入ってきた時に、哲学者の西周(にしあまね)が「藝術」と漢字をあてて訳しました。
「藝」という字体は、若木をひざまずいて捧げる意味で、古代では木を植えること自体が神事的な意味を持っていました。祈りをもって人が植物を土に植えることは、人が天と地を結ぶ(天地人)ことで神々に通じる神聖な所作だったのでしょう。その後、神事だけではない種藝(草木や作物の植え付け)の意味が加わり、人工的に才能や能力を育てることから、「わざ」・「技法」の意味へも広がりを持ちました。人間の成長を、植物の生長のメタファーとして捉えることで、種が土に植わり、芽生え、生長し、実る、そしてまた土に還る、といった植物における「いのちのイメージ」が言葉の中に埋め込められています。
 実は、当用漢字として一般的に使われている「芸」の漢字は、「藝」の略字ではありません。「芸(うん)」は本来、「クサギル」と訓(よ)む農業用語で「草を刈り取る」意味です。「藝」は植え付ける、「芸」は刈り取ると、まったく逆の意味を持つため、東京藝術大学は頑なに「藝」の言葉を使っていると聞いています。わたしが大いに影響を受けた『美について』で著者の今道友信さんは〈「げいじゅつ」とは、人間の精神によい種子を植え付けるものだと思いますから、芸(・ ※原典傍点あり)ではなく藝(・)術の方が、正しいばかりでなく、それこそ美しいと思います(略)〉と書かれていて、ひざをうちました。
 もちろん、植物の手入れは、ただ植物が生えるままに放置すればいいというわけではないので、状況に応じて剪定のように「刈り取る」必要もあります。必ずしも「芸」の意味が悪いとはわたしは思っていませんが、やはりイメージは無意識へも強く影響を与えるため、言葉や漢字が持つイメージに敏感になることは理解できます。そうしたことも含めて、「藝術」を選ぶべきか「芸術」を選ぶべきかと、答えがないため頭を悩ませます。

 また、アートやArtと書くべきか、「藝術(芸術)」と漢字で書くべきか、カタカナや英語、漢字での表記の違いでも異なるイメージを与えます。そもそもアート(Art)自体が多義的な言葉です。アート(Art)には芸術だけではなく、「技巧・術・わざ」の意味もあれば、「人工」の意味もあります。「nature and art」と書くと、「自然と人工」の意味であり、転じて、「by art」では狡猾に、ずるがしこく、のような意味ももちます。いずれにしても、「Art(アート)」という言葉には、大自然に対抗する人間の力や技術という意味合いが強い言葉です。
 一方、「藝術(芸術)」には自然に対して木を植える小さな行為が自然界と新しい関係性を結ぶことにつながること、そして、そうした行為は植物が育つように人間自身を成長させる、という意味合いが含まれていることが大事な点です。「藝術(芸術)」には、大自然と真摯に向き合うことで人間が成長し成熟する意味がこめられています。

響きとリズムに宿る「ことば」の霊力

 一般的に、漢字自体が象形文字であり、形によるイメージの力を伴うものです。「藝術」「芸術」という漢字を見るだけでもみなさんの心にもさまざまな心象がある種の重さを伴ってやってくるのではないでしょうか。これには、日本語自体が「言霊(ことだま)」(言葉の力)が強いということも大きく関係していると思います。「言霊(ことだま)」とは、古代、ことばに宿ると信じられた霊力のことで、発せられたことばが物事を実現する力があると信じられていました。和歌の中にその信仰は受け継がれ、万葉集の中にもその記載があります。日本ではなぜ「言霊(ことだま)」信仰が強かったのでしょうか。
 日本ではアニミズム信仰があり、万物に人智を超えた霊力が宿ると考えていました。動物や植物などの生き物だけではなく、石などの鉱物や場所にも霊力が宿ると考えましたが、「ことば」にも霊力が宿ると考えたのです。実際、今でも法律や文書を含め、「ことば」により良くも悪くも現実が動いていく面があり、縁起の悪い言葉を避けたりする風習が残るなど、いまだに日本人は「ことば」から無意識に大きな影響を受けています。これには、日本が狭い島国で村社会の秩序を維持するため、意見の不一致がコミュニティーの崩壊を意味するため、秩序を保つために言葉の力(言霊)や場の力(空気を読む)ことを大切にしてきた長い歴史の蓄積があるのだろうと思います。

 一方、「アート」とカタカナ表記された言葉は、文字として視覚で見るときも、声に出して音声として聴覚で聞くときも、ほっと力が抜けて心も軽くなる印象があります。実際に使い分けるときは、「アート(Art)」と「藝術(芸術)」の意味を頭で考えて使い分けるというよりも、語感を身体感覚(視覚や聴覚、時に皮膚感覚)で感じながら、「アート(Art)」が心地よいのか、「藝術(芸術)」が心地よいのか、音読したときのリズムや体の反応を感じながら言葉を選んでいるのが実情ではないかと思います。頭で考えられる意味や概念よりも、こどもの言葉のように体で感じられるリズムや響きのように、身体感覚をベースにした方が、文脈として読みやすく相手に伝わりやすいものになります。そうしたこともあり、わたしは文章の流れの中ですっと心に入って来るかどうか、書き手と読み手の間に壁ができず心が言葉を介してつながりあえるかどうか、ということを重視しながら言葉を選んでいます。

判断の中枢を「お臍(へそ)に引っ越し」てみる

 例えば、頭で考えて言葉を選ぶと、頭と頭とでつながりあう感触がありますが、内臓感覚や、はらわた感覚で言葉を選んでいくと、体と体とがつながりあうような感触が得られます。そうしたことはわたしが医療の臨床現場から学び取ったことです。例えば、「眉間部の奥3㎝の場所で拍動性の頭痛がする」と言うよりも、「あたまの中がズキンズキンとして、時にチクチクと針が刺されるような感じです。まるでイノシシが走っているような勢いの痛さなんです」と言われた方が、自分の体の中に針がありイノシシが走っているかのようなイメージが伝わり、より切実な体の問題として理解できます。
 頭は往々にして嘘をつきますが、体は反応がダイレクトで生々しいものです。体の中にある内臓(はらわた)で感じているものを、異なる世界である頭の理屈に変換して言語化することが難しいのは当然のことです。「内臓(はらわた)世界」と「脳世界」とは全くの異世界なのですから。
 ここで突然「内臓感覚(はらわた感覚)」と言われてもなんのことだろうか、という方も多いかもしれません。解剖学者の三木成夫は名著『内臓とこころ』の中でこう記しています。
〈こころで感じることを、なにか具体的に表わそうとすれば、ごく自然に〝胸の奥から〟とか〝肚の底から〟というでしょう。これはまさに胸部内臓と腹部内臓――つまり「からだの奥底に内蔵されたもの」との深い共鳴を言い表わしたものではないでしょうか……。〉
 人は実は頭だけで物事を考えているのではない、はらわたで感じ考えることが、こころで感じることを本当に言い表すことがあるというのです。

「丹田」は門番。自分を守ってくれる大切な場所

「はらわたで考える」イメージが湧かない場合には、東洋医学でいうところの「丹田」、お臍辺りの部分に意識を向けてみてください。「腹(肚(はら))がすわる」「「腹(肚)におさめる」というように、武道でもこの「丹田」に意識を集中し鍛錬するように、古来、体のなかでも大変重要な部分とされてきました。(度胸があって物事に動じないさまを「胆力がある」といいますが、「胆」は「肝(きも)」のこと、これもまた「はら」です)。ここを意識して「腹(肚)で考える」、「腹(肚))で感じる」というように、お臍辺りに自分の判断中枢があると仮定してみてください。あなたの判断中枢を頭に鎮座する脳を主体にするのではなく、お腹のお臍へと仮にお引越ししてみてほしいのです。
 腹(肚)で情報を受け取って感じてみたとき、どう反応しているのか、YESなのかNOなのか(快なのか不快なのか)。腹(肚)で考えて判断してみると、通常の頭での判断と結果が違ってきて驚くのではないかと思います。
 たとえば、学校へ行きたい気持ちはあるのに、お腹がどうにもいやな感じがして動きたくない。誰かの発言を受けたとき、お腹に強い緊張が走るように反応する(快、不快にかかわらず)というような場面で、頭での判断ではなく、腹(肚)の判断を信用してほしいということです。

 何かに直面したときに、自分の体がどう反応しているか改めて気にしてみてください。体は頭だけではありません。足の先から指の先まで、そして生きている中で一度も覗くことがない内臓(はらわた)の世界まですべて含んだ広大な世界です。
 頭が混乱している時こそ頭の判断を手放し、腹で判断する習慣をつけると、自身の身体感覚をベースにして判断することの意味が体感として分かりますし、困った局面で必ず役に立ちます。頭は熱くなってくると、冷静さを失って正常な判断を下せなくなります。あなたの中には、カッカと熱くなりトラブルを起こす「あなた」だけではなく、冷静に判断しトラブルを解決できる「あなた」もいます。そうした複数の「あなた」は体の全体に散らばっており、活躍の出番をいまかいまかと待ち構えていますので、もっと協力を仰いでほしいと思います。
 さきほど、東洋医学ではお臍辺りの部分を「丹田」と言い、武道ではここに意識を向けて鍛錬することを求められるとお伝えしましたが、お臍は母と子の物理的なつながりの跡地でもあり、数十億年のいのちの歴史を思い出させる痕跡であることも偶然の一致ではないでしょう。ちなみに、相手が怒っているとき、こちら側が相手の怒りの感情に巻き込まれないためには、頭ではなく腹で対応するようにとアドバイスしています。頭がカリカリとイライラとしてくるとき、あなたの頭はすでに誰かに乗っ取られているような状態です。他者の問題は、そうして別の誰かに押し付けられてしまうことがあります。人は共鳴する生き物であり、相手の頭の感情に付き合ってしまうと、自分の頭も同じ感情に巻き込まれやすいからです。頭が感情の侵入口だとすると、体内に入り込ませるかどうかの門番の役割を果たすのが腹(肚)であり、腹(肚)の力で自分自身を守ってください。お互いの頭の中で情報が駆け巡る情報化社会の中で、わたしは腹(胎)の力をこそ信頼しています。体の中にいる複数の「あなた」である全身の細胞を、もっと活躍させてください。そこでは信頼関係こそが基礎になります。

いのちは宇宙のリズムに包まれている

『内臓とこころ』ではさきほど引用した箇所にこう続きます。
〈このことは「こころ」の漢字の「心」が心臓の象形であり、しかも、この心臓が内臓系の象徴であることを思えば、いっそう明らかになると思います。〉
 この「内臓系」という言葉について少し説明しましょう。
 生物学や医学用語で「動物性器官」「植物性器官」という言葉があります。脳(あたま)、感覚(感じる)や神経(情報を伝える)のシステム、運動(動かす)を司る体の器官を「動物性器官」、そして、呼吸(息を吐き吸う)、循環(血が巡る)、消化(食の分解)、吸収(栄養を取り入れる)、排泄(不要物を外に出す)、代謝(栄養を変換する)、生殖(いのちを生み出す)などに関わる内臓のことを「植物性器官」。主に生命維持システムに関わる臓器は、植物のように静かに生命の営みを全うしながら一瞬たりともその働きを止めず、常に宇宙と交信しているかのようなリズムを持つ存在だからです。実際、女性の月経は月の満ち欠けの周期と一致しており、月経に伴う排卵周期により、人は新しい生命を付与されます。人間のいのちの根源は、そうした宇宙的なリズムとの未知の関係性の中に包まれているのです。
 わたしたちは頭を酷使して生活しているため、頭を底で支えている内臓の世界を忘れてしまいやすいのです。人間を含めた動物の食物連鎖の根底には植物の生命が存在しているように、人間の生命システムとしての動物性の臓器(脳)の根底には植物性の臓器(内臓)が存在しています。

 冒頭に一般の人が「アート」という言葉をバリアのように壁として感じると述べました。それは、アートの世界がそもそも感覚(感じること)を重視した世界であるため、感じる前に「何がいいのかさっぱり分からない」と考えこんでしまうことにも原因があります。学校での美術教育においても、自己評価より他者からの評価が優先して創作が小さくまとまってしまったり、教師側が何気なく放った一言で傷ついてしまったりするなどの弊害もあるかもしれません。実際、多くの人が「子どもの時から美術が苦手です」とおっしゃることが多く、そうした低い自己評価は、きっと他者から行われた評価が内部に巣くっているのではないかと思われることが多いのです。
 他にも、アートの現場や業界が醸し出す場の雰囲気に疎外感を感じる、という場合もあるだろうと思います。例えば、「この芸術的な価値が分からないのはお前の感性が鈍いせいだ」などと言われてしまったらどうでしょうか。そうした場にいるだけで萎縮したり、否定的な言葉が頭を巡り続けたり、場から排他的な雰囲気を感じて、場外へと逃げ出したくなる場合もあるだろうと思うのです。実際、場を排他的にすることで他者の参入を拒み、自分の居場所を守ろうとすることは人間に起きうる普遍的な行動原理です。アート業界にもそうした状況は起こり得ます。人が集うと、必ず人の特性が場の中に現れてしまうのです。
 わたしは、この世界で最も中立的な存在は自然界であると思っていますが、人間が関わると必ずどちらかに偏ってしまうのはしょうがないことなのです。自然界は誰に対しても優しく、同時に厳しい存在です。無条件にすべてを受け入れ包み込む「母性原理(包含原理)」と、主体と客体、善と悪、上下、陰陽などすべて分割、切断し、ときに排除する「父性原理(切断原理)」とが矛盾なく両立しています。(なおいうまでもなく、ここでいう父性原理は男性固有のものではなく、母性原理は女性固有のものではありません)
 さて。自然界では人間界での役職や地位、人間性や人柄などとは全く無関係な一方、人間界で作られた社会では、そうした情報や条件のなかで真の中立を保ち続けるのは難しく、必ず揺らぎが生まれどちらかに偏りが生じます。芸術(アート)の世界に誰もが関わってほしい、誰でもウェルカムだ、という思いは母性的に包み込む原理ですが、そうした心持ちで近づいた時に、父性的な原理で切断され排除されてしまうことがあると、もはや芸術(アート)の世界を好意的に感じられなくなってしまう――そんなこともあるかもしれません。
 ただ、そこで思い出してほしいのが、「ルールが異なっているだけだ」ということです。自然界のルールと人工界のルールが異なるだけの話です。これは必ずしも芸術(アート)に限った話ではないと思ってください。子どもの時の教育環境が重要なのは、そうした排他的で阻害される体験を子ども時代に何度も何度も受けてしまうと、それが自分では気づけない行動原理にまでなってしまうからです。

 冒頭に、わたしにアートは縁遠い、アートに呼ばれていない、という考えの方が多い印象があると述べました。不幸にも排他的な芸術の場を経験してしまったため、そうしたレッテルを貼ってしまっただけではないかと感じています。つまり、芸術やアート自体の問題ではなく、その場をつくる人間側の人為的で人工的な問題だろうと思うのです。それは例えば、人が幼少期に算数や勉強が嫌いになるのは、算数などの科目そのもの問題というよりも算数を教えた先生との相性の問題が最大の原因であることが多いのとよく似ています。
 こうしたことは医療においてもわたしは同じ課題を感じているためにそう思うのです。なぜなら、「病院には行きたくない」「病院は嫌だ」とおっしゃる方は、病院という場が持つ排他的な世界観、辛く苦しい体験をしたときにさらに嫌なことにあった負の体験、そうしたことが複合的に重なって、場自体にネガティブな感覚を持っているだろうと思うからです。こうした点からも、場が持つ力の重要性や、人が場の体験をするときにどのような人と関わったのかが重要であると思い、自分なりに研究を続けながら、臨床現場で生かそうともがき続けてきました。場の母性原理(包み込む原理)と父性原理(切断し排除する原理)のバランス次第では、場に受け入れられた感覚よりも、場に排除された感覚だけが残ってしまい、ここには自分の居場所がないのだ、と判断してしまうのです。そうした問題意識もあり、わたしは芸術の場がもっと開かれたものであってほしいと思っています。そのことは医療現場の課題とも同じであり、同じ課題を持つ領域が補い合うことで新しい解決法がないか、いつも考えています。こうした文章での問題提起や問題共有も、その一環です。

ただ声を出す。「呼吸のワークショップ」で気づくこと

 芸術体験は、鑑賞者(体験者)と創り手側が出会う場です。まず、鑑賞者(体験者)側の視点から見てみると、芸術の体験では非言語的な体験が圧倒的に重要です。言葉を超える体験は、未知であるからこそ未知の変化を身心に及ぼします。「考える」ことよりも「感じる」ことを重視した場では、そもそも言葉が出てきにくいものです。それは言葉から離れる時間や空間が重要であるとも言えます。次に、創り手側の視点から見てみると、破壊にも転じうる人間内部にうごめくエネルギーを、創造へと変換する水路が必要です。その適切な水路づくりこそが、それぞれに合った表現だと言えるでしょう。
 誰もが表現の場や手段を求めています。生きているだけで人間には潜在的なエネルギーが潜んでいますが、そのエネルギーを自己否定や他者否定の作業に費やすのではなく、新しい自分を創造するエネルギーへと変換したいと思うのは、誰もが深い場所で抱えている願いだろうと思います。しかし、なかなかそうした場や機会に恵まれず悩んでいる現状もあるかと思います。
 医療現場でも感じることですが、ただ話すだけでも「表現する場」になりえると思っています。ただ話すと言っても形式的で表面的なこと、誰かの言葉をコピーして話すのではなく、自分の真の思いを「腹」から絞り出すようにして自由に遠慮なく話すことです。まず言葉に出してみると、心の内部を出口なくグルグル回っていたエネルギーが外に羽ばたき、心の重量がふと軽くなることを実感できるはずです。実際、否定的な言葉が心の中をグルグル回っているというだけでも、心は多大な仕事をし続け、心はジリジリと消耗しているのですから。

 軽井沢駅から車で10分くらいの場所にライジングフィールド軽井沢があります。標高1200mにある広さ10万坪の広大でとても気持ち良いアウトドア施設です。この地で毎年開催されている軽井沢ラーニングフェスティバル(通称、ラーフェス)があり、今年わたしは大自然の中での呼吸セッションを担当しました。ラーフェスでは、自分が持つ得意なものをお互いに持ち寄り、giveしあって共有しようという考えで作られた場であり、わたしはその理念に強く共鳴しました(もしご興味あれば次回ぜひご参加ください)。
 担当した呼吸のワークショップでは、全身の骨格や骨と骨との関係性の話、呼吸はどういうメカニズムで起きているのかという理論的な話も行いましたが、大事なことは全身で「息を吐く」という行為であり、そのことを分かりやすく体験するために共に母音(うおあえい)の声を出しながら、呼吸を内臓(はらわた)感覚で感じてもらうようにしました。実際、わたしたちが行う呼吸は、頭の世界である動物世界と、内臓(はらわた)の世界である植物世界という異なる世界をつなぐ唯一の営みなのです。なぜなら、呼吸の回数は意識的に回数を調整できますが、そのことで意識世界である頭から、無意識世界である内臓へとギアを変えるように主導権を移すことができるのです。一般的に「深呼吸して落ち着きなさい」と言われると思いますが、これは深くゆっくり呼吸することで、頭の活動を抑えて、判断の中心を内臓(肚)へとシフトさせる知恵でもあるのです。
 声を出すことで自分が息を吐いている時間を実感できます。少しずつ息を吐き、声を出すことに意識を向けているだけで、呼吸自体が長く深くなっていくのです。また、今回のように複数の人と共に声を出していると、自我の境界が薄くなり、大河の一滴になったような巨大な声の流れに包まれているような感覚に包まれます。そのことで、自分の判断中枢が脳だけにあるわけではないことを実感してもらいました。実際、全身はポカポカと温かくなるのですが、それは全身の細胞へと指令が伝わり全身が躍動し始めている証拠でもあるのです。大きく息を吐く場、大きく声を出す場、まさに体の表現であり体の叫びを発する場は、日常ではなかなか作れません。だからこそ、ワークショップという特殊な枠組を設定することで共に創り上げて、体験することができるのです。

声を発するだけでアタマの暴走を防ぐことができる

 わたしたちがイライラしたり、ムカムカしているとき(身体言語であるオノマトペでしか表現できないとき)は、体が「適切に表現できる場」がないという苦しさを感じているときです。そのとき、ただ体を動かしてみるのもいいですし、頭の暴走を防ぐには言葉を発してみることもお薦めします。もちろん、最初は叫びや泣きなどの言葉という形にならない不定形の言葉で始めても十分です。
 上述した呼吸のワークショップでは、母音(うおあえい)を発するだけの時間を30分も贅沢に使いました。その後、「うー」「おー」「あー」「えー」「いー」という原初の言葉ではなく、より言葉の輪郭を当てることができるようになったと感じたら、言葉にして日記を書いてみてはどうでしょうか。日記のモチベーションが湧かないときは手紙です。手紙も、SNSなどを活用しながら、不特定多数の誰かに書くのではなく、読んでほしい、喜んでほしいと思う人を可能な限り具体的にイメージしながら文字を書き記すことをお薦めします。親しい人をイメージすることで、そこに愛や喜びなどのポジティブな感情がスパイスのように入り込みますし、結果的に幸福で健康的なものへと水路がつながりやすいのです。想定する対話の相手は生きている人に限定する必要はありません。あなたが秘かに愛する作家や有名人、芸能人でもキャラクターでもいいので、顔を思い出すだけで思わず笑みがこぼれるようなポジティブな感情が同時に紐づけされる人を選んでください。あなたの内部にある善性がスポンと引き出されてきます。それは他者との対話の体裁をとった自己内の対話です。あなたの創造の源泉にある喜びや楽しさなどのポジティブな感情の源泉を、有効に使っていただきたいと思います。

 *参考文献
 今道友信『美について』(講談社現代新書)
 河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社+α文庫)

Photograph by Yuki Inui

著者プロフィール

稲葉 俊郎 (いなば としろう)

1979年熊本生まれ。医師。軽井沢病院院長・総合診療科医長。信州大学社会基盤研究所特任准教授。東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。東北芸術工科大学客員教授(山形ビエンナーレ2020、2022 芸術監督)。2014年東京大学医学系研究科内科学大学院博士課程卒業(医学博士)。東京大学医学部附属病院循環器内科助教を経て、2020年春、軽井沢に移住。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。『いのちの居場所』など著書多数。
https://www.toshiroinaba.com/

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.