いのちノオト 軽井沢発。屋根のない病院から届けよう―― 稲葉俊郎

第2回

その「問い」は正しいか?

更新日:2022/08/24

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今月の音

「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻(おり)を出て、鎖(くさり)から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです」
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
(村上春樹著/文藝春秋)

いのちのことを深く知りたい

 わたしは医師として医療現場で働いています。同時に、病院長として病院という場全体をよりよくする立場としても働いています。
 医師になろうと思ったきっかけは、「いのち」のことを深く知りたいと思ったからです。
 わたしは、子どもの頃から「自分のいのち」についてこんなふうに思っていました。
「わたしがいのちを持っている」というよりも「いのちがわたしを持っている」と。
 主語と述語が変わるだけで、「わたし」と「いのち」の関係性がこんなにも変わることも不思議ですが、わたしの「いのち」は自分の所有物ではない――虫や植物たちが生死を織りなし巡り巡っている自然の世界の生命感覚とでもいうべきこの感覚は、誰に教わったものでもありません。それなのに、地球全体も人間社会もひとりひとりの人間も包まれている、という感覚をおぼえていること自体が、幼いわたしにとっての不思議、謎そのものでもありました。人間を生かし、虫や動植物を生かし、この自然界を生かしている「いのち」とは何なのだろうか、と。

 こうした謎がわたしにとりついて離れなくなった大きなきっかけは、子どもの頃に大病をしたことです。死の淵から生き返った体験が、全身に深く強く刻まれているからでしょう。
 何度もの長い入院生活のなかで、なぜ私が生き残り、なぜ同室のあの子は亡くなったのだろうか、と幼い自分なりに考えることもありました。自分の体の奥底で働く「いのち」の力を思うとき、「助かった」「助けられた」という思いが自分の中に残り、同時に「なぜ助かったのか」「なぜ助けられたのか」という疑問も同じ重みをもってわたしにまとわりつきました。

 祖父は、戦後にシベリア抑留を生き延びて日本に帰ってきた経験を持っていますが、生前はほとんどこの詳細を語りませんでした。ただ、なぜ自分が生き残ったのか、生き残ったものが果たす人生の使命とは何なのか、そうした哲学的な問いを祖父が抱えていることは沈黙そのものから伝わっていました。
 わたしは、子どもの病気体験と戦争体験では次元の違う体験であることは理解しながらも、何かそこに「他者との通路」とでもいうべき不思議な共通点を見出していたのです。
 こうしたことを話すと、何か特殊な体験を話しているように受け取られることもありますが、小さい子どもが40度近い高熱を出してうなされている光景を見るたびに、どんな人でも「生き残った」「助けられた」という感覚を奥深くに秘めているのではないかと思います。
 病弱だったわたしは、その記憶や体感が、奥深くではなく常に表面に露出し続けてその存在を主張しているかのように感じていたことで、結果的に医療の道を選んだと言えるのかもしれません。今は医療現場に身をおいているからこそ「生き残った」「助けられた」という感覚を、折に触れて思い出します。

「みずから」と「おのずから」の「あわい」

 もちろん、人生は「みずから(自ら)」決めた要素と、「おのずから(自ずから)」そうなったとしか言いようのない流れの配分とが絶妙に重なり合ったものです。
「みずから」と「おのずから」のあわいにこそ、人生の醍醐味はあります。
「みずから」決めたことはどうしても短期的な視点になりやすいです。どんなに長期的な展望を持っても、20年前の過去の自分が20年後のいまこの現在の社会や世界情勢を見通せていたとは到底思えません。
「みずから」は、いわば虫の目の視点です。そこに「おのずから」という鳥の目の視点を得て、俯瞰的な広い視野で世界を眺めたときに、自分が何を乗り越えようとしているのか、何につまずいているのか、どこの光源を目指して進んでいるのか、そうしたことが冷静に見えてきます。
 作家の村上春樹は同様のことを作品内でこのように表現しています。〈「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻(おり)を出て、鎖(くさり)から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです」〉(村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』/文藝春秋)
 村上春樹さんの著作を読むと、わたしはいつも心が動くのを感じます。そして、その感覚を心に刻み込むようにして、心への「くすり」として文章をメモし、時に読み返します。「考える」行為は、わたしの枠内だけで考えていると、どうしても短期的な視点に限定されてしまいます。時にはわたしの肉体の檻を超え、大いなる流れとつながるようにして「考える」行為を拡張してみることは、さきほど述べた「おのずから」の視点を取り入れることにつながります。
 2009年に長編小説『1Q84』が出版された後、2011年の東日本大震災が起きました。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、震災後の2013年に発表された短編集でもあったため、わたしは「くすり」を求めるように読みました。わたし自身がどう生きるか、と暗闇をたいまつで彷徨(さまよ)っているような時期でした。答えの出ないと思われる難解な問いも、深い井戸に潜るようにして考え続けていることで〝壁抜け〟のようにして突然に思いがけない鉱脈へとたどり着くことがあるのです。
 わたしは村上春樹作品を読むことでいつも、肉体を離れ、檻を出て、鎖から解き放たれます。鳥の目で飛翔し、同時に深い意識の井戸に潜り、自分の向き合う問いと対決させることで、問いへの自分なりの解答を深い闇から浮かび上がらせています。私的な村上春樹の読書体験と当時の時代状況とを、同じ空気感を伴って思い出します。この著作も、そうした時代の空気感と不可分なものとして読み込んできました。

「みずから」と「おのずから」のあわいから人生を眺めてみる、この立ち位置は入学した東京大学の文学部のゼミで学んだことです。
 希望を胸に熊本から東京大学に入学したものの、そこで行われる講義がわたしには満足いくものではありませんでした。学問の場の理想像が壊れてしまい、早々に失望したわたしは「みずから」面白い授業を探そうと、他学部の授業の情報を得ながらあちこちの授業にもぐりこみました。そんなふうに主体的に動き始めた結果、東大倫理学教室の教授でもあった竹内整一先生のゼミを発見して学んだことが、「みずから」と「おのずから」に関する深い考察でした。
 そのゼミでは倫理学、宗教学、哲学の先生たちが入り交じりながら答えのない問題を考え続けているゼミであり、そうした謎を中心に据えた場に大いに触発されました。
 そもそも、こうした出会い自体も、「みずから」と「おのずら」のあわいとでも言えるものでした。「みずから」と「おのずから」は不思議な関係性にあることも分かると思います。与えられた大学の授業に満足していれば、自分が何を学びたいのかと考え直すきっかけも得られなかったわけです。短期的には悪かったように思えた経験も、長期的には心が動き出すためのきっかけづくりでもあり、良かったと言える経験にもなります。

光源が照らす向かうべき場所

 自分の人生が悲劇なのか喜劇なのかは、始まりと終わりの位置をどう決め、どう解釈するか次第ですし、一見すると失敗や挫折に見えた体験が、10年単位で過去を振り返った時に、人生の分岐点になっていた経験は多いと思います。
 やはり、そこでも長期的な視点が大切になります。自分にとっての遠い光源を見据えながら、その遠い先に向かって歩んでいくことが大事だろうと思うのです。
 遠い光源は、漠然としていても抽象的であってもいいと思います。
 例えばわたしにとっての、ジョン・レノン、岡本太郎、著名人や家族などそうした光源でもいいと思います。自由に発想してください。あなたが何かに惹かれていれば、それはすでにいのちや魂のレベルで万有引力が作用し出している証拠です。自分が何に惹かれているのか、その謎の本体を解明することは、その人が人生をかけて取り組む秘密裏のプロジェクトのようなものです。誰も代わりはいません。もちろん、探求するも探求しないも自由なので強制されることもありません。
 ただ、あなたが感じている――そのこと以上に確かなものがあるでしょうか。巨大な磁場を持つ人は、あらゆる要素がその人物の中に畳み込まれています。その入り口から、あらゆる異空間へと誘われることを楽しんでほしいとわたしは思います。

「いのち」のことを深く知りたいと思ったこと。「助けられた」「助かった」「生き残った」という感覚が強く残っていること。その二つを連結させるようにして医学の道を選ぶことにしました。もちろん、当時はそこまで明確に言語化できていたわけではありません。ただ確実に言えることは、医学部進学を選んだのは、自分が惹かれているもの、心動かされているものの正体をつきとめるための選択でした。
 生きる先の光源が定まらなかった高校生の頃、故人ではジョン・レノンや岡本太郎や手塚治虫を光として見つめてきました。生きている人では、横尾忠則さん(存命の方には敬意と礼儀もかねて「さん」付けで続けます)。わたしは彼らのことを、常に自分がどのようにして生きたいか、どんなふうに生きたいかの参照点としてきました。
 車のカーナビを想像してください。カーナビで必要な情報は、今いる地点と、向かうべき目的地です。その二つの情報がないと、カーナビはただの地図でしかありません。自分の中のナビゲーションが起動するためには、二つの要素が明確になる必要があります。いまのわたしの場所と、向かうべき場所、その二つが明確になったことで、大学受験をしようという強い意欲が湧いてきました。

問題の意味がわからない

 現在の日本の教育システムでは、医師になるためには医学部で学ぶ必要があります。
 誰にとっても同じでしょうけれど、受験勉強には苦労しました。
 そもそもわたしは「問題の意味がわからない」、という場所でつまずいていたのですが、そのことに気づくまで時間がかかりました。「問題を解く意味がよく分かっていない」ことに気づいていないのですから解答以前の問題です。問題を解くその手前の段階で、枠内に入れずに困っていたのですから。
 同級生たちは一見するとそのような悩みを持たずに勉強しているようにみえたので疎外感も感じ焦りました。
 わたしのように学校というシステムを疑い無条件に乗れないとき、中学高校の短い期間に自ら答えを出すことはとても大変なことだと思います。時と場合によっては社会人になっても考え続ける人もいるでしょうし、また不登校などを選び立ち止まって考える人もいるでしょう。今の時代、学校教育のなかで「そもそもなぜ学ぶのか」ということを共に考える授業を設けて1年間くらい各々が考える時間をかけるべきではないかと思います。

 いずれにせよ学校を含めた社会のシステムは、答えを出してくれる完璧な仕組みではない、とある種の諦めとともに適切な距離感を取ることから始めて、つまずきの原因を考えてみたところ、自分は問題の意図が分かっていないのだ、ということが分かってきたのです。わたしは、出題者が何をわたしに聞きたいのかが、よく分からなかったのです。
 目の前に出題者がいれば問題の意味が分からない、と直接聞くこともできます。手を挙げて別の先生に聞いてみることもできません。このテキストから出題者の意図を推理するにはどうすればいいのだろう、と受験生時代に悩んでいました。
 そして、気づいたのです。「問いの立て方自体が間違っているのではないか」と。

その「問い」の立て方は正しいか?

 もし「問い」そのものが間違っていたら、解答は永遠に出ないことだってあります。
 教育の現場で出される試験問題の場合は、そもそも問題自体が間違っているのではないだろうか、と疑うことはないと思いますが、巷にあふれる問題は、実は問題そのものが間違えているケースも数多くありますので十分な注意が必要です。
 解決すべき問題にぶちあたり、なかなか解けないとき、「そもそもこの問い自体が間違っているのではないか」「自分が解決すべき問題は、本当は何なのだろうか」と自分で問いそのものを変換してみることも普段の習慣として大切なことです。

 もうひとつ、中高生時代のわたしは、どこの誰だかも知らない相手に突然問題を出され、なぜか常に自分が問題を解く側に立たされている、という構造自体に不満を持っていて、そのために問題を解こうという気持ちを素直に持てなかったことに気づきました。
 なぜ上から目線の意地悪い問題を解く必要があるのか。見ず知らずの人に点数でジャッジされなければいけないのか。そういうことに対する不快感や憤りこそが、わたしのつまずきの正体でした。
 わたしの成長を期待しているというよりも、ただ解きにくい問題を出しているだけではないだろうか。模範解答を読んでもそこに学びがない場合もありました。そもそも、こうした疑問や意義申し立ても一切できない閉じられた構造に閉塞感を感じていました。一方的に採点されるという上下関係を前提としたプロセスや構造に知らないうちに巻き込まれていること自体に納得がいっていなかったのです。
 学生時代も含め、国家試験や資格試験でもこうしたどうにもならない試験スタイルにつきあわなければならないこともあります。ただ、社会に出るとこうした凡庸な試験問題はほとんどなくなります。やはり日本の教育現場には悪い習慣が残っていると言えるのかもしれません。
 
 こうした問題を出す側、出される側、という権力構造に疑問を感じているのだと分かったわたしは、どうやってこの現実を乗り越えればいいのだろうと考えました。
 すべてを拒否するのも選択肢のひとつです。けれど、相変わらず学校も試験も存在し続け、なかったことにはできません。白紙答案を提出していた時期もありましたが、やがて拒否し逃亡するよりもっと創造的なよい方法がないものかと考え始めたのです。
 ふと思いついたのは、問題を出している側も一人の人間に過ぎない、という当たり前の事実でした。

 試験問題には、必ずその問題を作った人がいます。試験問題に限らず、一般的に「人工物」の背後には必ず見えざる作者がいます。人間は感情にも大きく左右されてしまう存在だからこそ、人間の気質や性格の違いが問題の質の違いとして浮かび上がってきます。
 たとえば、重箱の隅をつつくような問題をつくることに快感を覚える、意地の悪い人が立てた問題ではしばしば問題の意図すらよく分からないことがあります。一方、正しい理解や認識へと導くことを目的としながら愛と忍耐を持って良質な問題を作ろうと努力する出題者もいます。
 出題者自身が人間という不安定な存在である以上、問題や文章にばらつきがあり、その人の癖や性格が出るのは当然なのですが、受験生時代にはそうしたことは誰からも教わりませんでした。そうした問題の背後にある見えざる存在に気づくようになってからは、問題の文章を入り口にしながら、出題者がどんな気持ちで問題をつくったのだろうかと、問題の受け手側(消費者側)ではなく作り手側(創造者側、生産者側)の立場に立って問題の成り立ちを眺めるようになりました。

相手の「いのち」と共鳴する

 冒頭に、「わたしがいのちを持っている」と「いのちがわたしを持っている」という主語の違いで見えてくる風景が違うと述べましたが、同じことです。主語が固定化してしまうと、その主語のフレームから発想が広がりません。閉じ込められてしまうのです。
「わたし」の視点を意識的に移動しない限り、問題を出す側・出される側という構造やフレーム自体が変わることはありません。出題者側に立つ習慣をもつことで、問題を作る側の視点が自分の中に生まれてきます。そして、人工的に作られた問題は必ず解けるようにできていることもわかります。わたしは、問題を出した側の立場に立って、その心に共感するようにして問題を解くようにしていました。

 こうしたことは、医師として相手の心と共鳴する行為にもつながっています。
 高校生のころ、自分がぶつかっていた壁は、試験問題の背後にある見えざる場の構造そのものでした。そのことは自分でしか解明できない謎でした。問題を出す側・出される側と立場が明確に二分化すると、問題を出される側の枠内に閉じ込められてしまいます。そもそも、枠内で閉じ込められていることが悩みの根本原因であること自体に気づけなくなるからです。
 枠内に閉じ込められる弊害は、学びに関して消費者の側へと永久にまわされてしまうことにもつながります。そうではなく、学びの創造者側にも回りたいと、わたしは思いました。そうした問題意識は、今こうして本を書いたり、文章を書いたりすることを続けていることと地続きの事柄です。

 医師として医療現場で働いていても感じます。自分の「いのち」にまつわることを消費者の側の立ち位置だけで考えていると、お金を払った対価として医療行為を受けることになり、買い物のように等価交換可能なものとして「いのち」が位置づけられていることに気づけなくなります。自分のいのちは消費され消耗し続けていきます。
 だからこそ、わたしは、ひとりひとりがいのちの当事者として、自身のいのちの生産者や創造主の側に立つことが大切なのではないかと思っています。自家発電のようにして、「いのち」の力を消費していくのではなく、創造し続けるように。

Photograph by Yuki Inui

著者プロフィール

稲葉 俊郎 (いなば としろう)

1979年熊本生まれ。医師。軽井沢病院院長・総合診療科医長。信州大学社会基盤研究所特任准教授。東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。東北芸術工科大学客員教授(山形ビエンナーレ2020、2022 芸術監督)。2014年東京大学医学系研究科内科学大学院博士課程卒業(医学博士)。東京大学医学部附属病院循環器内科助教を経て、2020年春、軽井沢に移住。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。『いのちの居場所』など著書多数。
https://www.toshiroinaba.com/

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