いのちノオト 軽井沢発。屋根のない病院から届けよう―― 稲葉俊郎

第1回

枠(フレーム)を変えよう

更新日:2022/07/26

芸術、伝統芸能、民俗学、農業などあらゆる分野との対話とコラボレーションを通じて、西洋医学のフレームを超えた未来の医療と新しい社会の創発を目指す異色のドクター、稲葉俊郎さん。
いのちを育み、より大きな自由とともに健やかに生きるヒントを、「屋根のない病院」といわれる軽井沢の地から届けていきます。
第1回は、世界的なパンデミック下で孤独を抱えて立ちすくんでいる人へのメッセージ。視線を遠くに向けたとき見えてくる新しい世界とは?

今月の音

A dream you dream alone may be a dream,
but a dream two people dream together is a reality.
――Grapefruit:A Book of Instructions and Drawings
by Yoko Ono/ SIMON&SCHUSTER,1970
共に生きる居場所を求めて

 疫病の地球規模での大流行により、社会は一変してしまいました。
 ただ、一変したのは人間の社会の事情です。そのことを誤解しないように気を付けてください。自然界は地球誕生の約四十六億年前から続いている途方もない営みですが、そうした大自然の営みの中に、約六百万年前に人類が誕生し、人と人とが協力し合って人間の社会をつくりました。自然界に対して人間界・人工界とでも呼ぶべき世界です。
 そんなことを考える時、わたしは尊敬するミュージシャンであり偉大な詩人でアクティビストでもあったジョン・レノンのパートナー、オノ・ヨーコの詩集 『Grapefruit』(SIMON&SCHUSTER)の中のテキストを思い出します。
〈A dream you dream alone may be a dream, but a dream two people dream together is a reality.〉
 あなたが一人で見る夢は単なる夢だが、ふたりで共に見る夢は現実である、とでも訳しましょうか。
 人は一人では生きられない、そして地球はすべてひとつながりの生命の働きで成り立っている、ということを今、改めて考えるべき局面に突入したということでしょう。

 オノ・ヨーコは「夢」と表現しましたが、わたしたち個人個人の喜びと、そうした個人が集ってできる共同体という場全体の喜びとが最大となるように、言い換えれば部分と全体とが共に最高の状態であることを目指して、人間界は改訂につぐ改訂を延々と繰り返しながら、現在の社会をつくりあげてきました。もちろん、それはある人には満足のいくものかもしれませんが、ある人には満足がいかないものであるとも思います。ジョン・レノンが歌ったように「想像する力」が必要であることは言うまでもありませんが、個と個、個と場という双方の希望や欲求をすべて満たすことはとても難しいものです。そうした人間界の営みがある臨界点を超えた時、今のような地球規模の事態が起きたと考えられます。人は一人では生きていけません。だからこそ、他者と協力関係を築きながら生きていく必要があります。
 そもそも人間社会はどのように生まれて来たのでしょうか。おそらく、もともとはそれぞれの得意なものを持ち寄って分担することで役割や居場所といったものが生まれ、そうした分業がうまくいった場合に、幸福な場が生まれたのだろうと思います。自分には何も得意なものがない、何もできないと嘆く人もいるかもしれません。けれど、そうした人も何もしていないということではありません。行動ではなく存在することそのものによって、場のバランスをとる存在となると言えると思います。そうした存在がいる場こそが余裕のある場です。
 見知らぬ他者と共存して暮らしていくためには、時に起こる摩擦を最小限にするためのルール作りが必要となりますが、そもそも、このルール作り自体が極めて難しいものです。資本主義もそうしたルール決めのプロセスの一つではありますが、必ず長所と短所が生まれ、長所を伸ばしながら短所を解決しようとする動的でダイナミックなバランスの中で、わたしたち人類の祖先は少しずつ社会をよくしていきました。

「病の原因」はひとつだけではない

 こうした人工社会の時代変遷の中で、微小な生命体である、未知のウイルスの地球規模での大流行が起きました。原因として、どのようなことが考えられるでしょうか。考えれば考えるほど、数多くの原因が見つかります。人間が過密な環境で生活していること、人や物の地球規模での移動が多くなったこと、動物を家畜化することでウイルス変異が起きやすい特殊な環境がつくられたこと、自然環境が破壊され生き物の居場所が変化したこと、自然環境の変化の中で生物の生態系が変化していること……。あらゆる要素が複雑に絡み合っていて、一つの原因で解決できるような問題ではありません。
 原因探しは、犯人捜し、悪者探しへと知らないうちに変化することで短期的に熱狂しながら、時にエスカレートしていきがちですが、冷静に全体を見る視点を取り戻さないと根本的な解決には至りません。そうした事態は、わたしたち医療従事者が病気の原因を探している時と似ています。
 たとえば、頭痛を訴えに病院に来院したときのことを考えてみましょう。医師は脳の病気を考え、直接的な原因として、脳に何か異常が起きたのではないかと探ります。脳に出血がないか、脳に腫瘍がないか、脳の血管に異変が起きていないか、などですが、そうした一つの原因が分かることは稀です。
 天候の変化、気温や湿度の変化、ライフスタイルの変化などの結果として起きていることもあれば、出口のない問題に悩み続けたりなどして、スパーク寸前の頭の活動を一時的に止めるためのやむを得ない手段の一環として、頭痛を引き起こしている場合もあります。体全体からの頭への休養指示です。このように、頭痛がどういう目的で起きているのかと、体全体を視野に入れて冷静に見わたすことが大事になる場面は多くあります。脳は、脳が納得しやすいもっともらしい原因を見つけることで、頭だけの理屈の世界で合理化してしまうことが多いのです。

 頭痛の例から分かるように、一つの原因だけで病気になることは極めて稀であり、実際には多くの要素や条件が複雑に絡まり合いながら、最後の一押しのような事態が起きた時に病として表に顔を出すように顕在化するのです。ただ、一般論として最後の一押しにだけ注意が向きやすく、それが原因だと思いこんで納得してしまいやすいのですが、気がついていないだけで原因は数多くあるのです。自分の体に起きた事態として考えてみると、誰もが当事者として実感をもって考えてみることができると思います。
 このように人の体でもそうなのですから、地球規模で起こる事態には、地上も空中も地下も、数多くの原因が複雑に絡み合い、相互に影響し合いながら起きていることが予想できます。もちろん、原因を考えること自体は問題解決へとつながる大事なステップにもなりますから、それを否定するものではありません。しかし、視点を原因探しの過去だけに向けるのではなく、次のステップとして未来へと向けない限り、堂々巡りを続けて泥沼にはまりこんでいくようなもので、先に進めなくなるのです。

「鳥の目」で見、「死者を仲間に」

 わたしも新型コロナウイルスの大流行で起きた社会的な変化に困り果てているちっぽけな一人の人間です。どんな人でも自然を相手として考えると事態は対等なのですが、今起きている多くの騒ぎや混乱はあくまでも人工的な社会の枠組みの中での出来事です。どういう枠組みの中、どういう場の中での困り事なのかと、深呼吸して枠組み自体を、自分の居場所を鳥の目で眺めるように、上空から見下ろしてみてください。そうして人間界との距離を定期的にとることも、不必要な混乱に巻き込まれないための知恵の一つです。わたしたちは今、視点を人間界の枠内だけに向けてあれこれとその仕組みをいじり続けるのではなく、人間と自然との関係性の問題として、もっと自然界の方へと視点を向けるべき時期が来ているのだと思います。
 若い人の悩みを聞くと、多くは人間関係の悩みであることが多く、頭の中が人間界のことで埋め尽くされていること自体が悩みを生む根本原因であることが多いと感じています。そうした悩みのメカニズムを理解しないと、悩みは延々と生まれ続けて果てがありません。
 そんな時は、頭の中を人間界のルールや人間関係だけで埋め尽くすのではなく、例えばその中に「花鳥風月」を盛り込んでほしいと思います。花鳥風月とは自然の美しい風物のこと。森羅万象の美は、人間界の管理を離れた自由な存在の象徴です。もしどうしても人間のことを考えてしまうのなら、生きている人間ではなく、死者のことを考えてください。
 いきなり「死者」といわれて驚いたかもしれませんが、死者とは音楽や文学、絵画などの、今は亡き作者たちがイメージしやすい存在かもしれません。なぜなら、死者を思うことは、人間界のルールや制約から自由になった存在を考えることにつながるからです。
 生きていると、わたしたち人間はどうしても感情に左右されてしまうことがあり、ときにそれは人間関係のトラブルにもつながります。それは存命の作家や表現者との関係においても同じです。生きている限り、どんな人にも日々の生活を安全に送る権利がありますし、わたしの自由と他者の自由とは干渉し合います。死者とは、そうした感情抜きに付き合うことができる存在でありながら、個人的に親しみを持っても誰にも迷惑がかかりません。つまり、関係性が対等になりやすいのです。
 死者を思うことで自分が生きている事実を噛みしめることができます。それこそが生きている価値そのものです。また、死者から自分は何を託されて生きているのだろうかと考えてほしいのです。どの死者からバトンを受け取るのかは、あなた次第です。自由に決めることができますので、あなたが尊敬する人物の中で、どの人物の後継者になるのか、自分から名乗り出る気持ちで行動してみてください。その時のあなたの倫理規範は、あなたが尊敬する死者が喜ぶか哀しむかを基準にしてください。ちなみにわたしは、ジョン・レノンや手塚治虫や岡本太郎が生きていたらどう思うだろうか、と、彼らの代役を演じるように考え、それを自分の行動の規範とすることがあります。死者はあなたに文句は言いません。あなたを否定もしません。自分が好きでいればいるほど、その死者はあなたに寄り添い、優しい存在として人生において同伴し続けてくれます。
 人間関係や人工社会に疲れ果てた方は、花鳥風月を仲間とし、同時に死者を仲間として連帯してつらい時を乗り越えてください。あなたを不用意に傷つけることは一切ありませんし、あなた自身も大好きなことを考え続けることができます。あなた自身が幸福であり続けるためのサバイバル技術のようなものだと思ってください。祖先たちは、誰もがそうして困難な時代を乗り越えてきました。

自然界の聲(こえ)に耳を澄ませよう

 微小な生命体の地球規模での大流行を考える時に、人間界ではなく、常に自然界へと目を向けて行動してください。
 この地球に生まれ、この地球に生きている。地球は宇宙に浮かぶ水の惑星であり、この地球上には数多くの未知の生き物が生きている。それはすべて「いのち」の表現型である――だからこそ、人間とその他の生き物との間に適切なルールが必要となりますが、多くの人は人間界内でのルール作りだけに明け暮れているのが現状です。 
 個と個、個と場のルール作りは、どんな時代であっても難しい問題です。究極的に完成された理想形は一つもありません。必ずどこかに不平等や不均衡が生まれます。それでも、なんとかよりよい形をつくろうとして祖先はたくましく生きてきて、この世界のすべてが生きている私たちに手渡されているのです。自分自身の幸福や安全を確保し、その上で、小さい共同体での幸福を追求した結果、場がすこしずつ拡大したことで地球規模の国と国の間のルールも生まれて来ました。
 くりかえしになりますが、今わたしたちが苦しんでいるのは、あくまでも人間界内でのルールに関すること。本当に大切なことは自然界と人間界の間のルール、居場所や役割をどのように設定できるのか、ということです。物言わない自然界の聲(こえ)を丁寧に聞き、耳を澄ましながら、いかにしてわたしたちが生きている場所で公平なルール作りができるのか、今まさにそうしたことを考えるべき時期なのです。
 わたしは自然界や地球界へと想像の翼を広げながら生きることが、今の時期に大事だと思うのです。ウイルスの大流行により人間界にはあらゆる問題が起きていますが、それは人間界のルールそのものの問題であることも多いのです。大きな社会的なルールは法律などの問題となり、それなりに専門的な知識を必要とします。ただ、自分の中に湧き起こってくる問題は、根本的には自分を縛るルールの問題であり、それを創造的に解決できるのは自分自身しかいないのです。

「因果律」という考え方の落とし穴

 たとえば、新型コロナウイルスのPCR検査で陽性と出た人が身近にいる場合を考えてみてください。そして、その周りの人を検査した結果、家族を含めた検査対象者5人のうち2人に陽性反応が出たとします。さらに調べていくと、職場でも続々と陽性者が出てきたとします。多くの場合、最初に陽性反応が出た人に非難の眼が向けられがちです。わたしたちはこんなにも努力して我慢や苦労をしているのに、あの人の勝手な行動のおかげでどうしてこっちまで迷惑を受けないといけないのか、と。そして、時には陽性者を差別して攻撃することまで起きてしまいます。
 これは脳が採用している「因果律」という考え方の誤りやすい典型の一つです。原因があって結果がある、と考えることを因果律と言いますが、果たしてこの場合、最初に陽性反応が出た人がすべての原因として非難されるべきなのでしょうか。この人は真面目で几帳面なため、真っ先に検査を受けに行っただけなのかもしれません。周囲にいた別の人、その人は検査すら受けていないかもしれませんが、その人が先に検査をすれば先に陽性反応が出ていたかもしれません。そうして原因を先へ先へと辿っていけばいくほど、誰が誰を感染させたのか、何が原因で何が結果なのか、決めつけること自体が、極めて難しい問題だということがわかるでしょう。
 そもそも人を介したウイルス感染の場合、感染元となった人=加害者、ウイルスをうつされた人=被害者という単純な構造をとるべきではありません。ただ、実際には、最初に検査で陽性反応が出たら、脳は勝手に因果律を採用し、その人を原因として次の結果を類推しはじめます。このような人間が持つ「脳のアルゴリズム」を疑ってかからないと、誤った判断のもとに誤った行動を起こしていること自体に気づけない場合が多いのです。
 わたしは、この感染症の流行の中で、こうした安易な因果律の判断によって起きる悲劇を数多く見てきました。ですから、今回の事態では、人間が安易に行う因果律の判断、つまり原因があって結果がある、という考え方がいかに危ういものであり、慎重に慎重を重ねないと誤りを犯す、ということを身に染みて学ぶことができました。

「未知の感情」を観察しよう

 差別の問題も同様です。陽性者に対して、自分の中で差別する心が生まれたら、そうした自分の「差別心」のメカニズムを知り、乗り越えるいいチャンスだと考えてほしいのです。なぜ自分に相手を差別する心が生まれたのか、それは反射的なものなのか、過去の学習の経験からの反応なのか、恐怖心か、それともその場しのぎの防衛反応なのか。もし防衛反応だとしたら、なぜその反応が差別心と結合してしまうのか。そもそも、自分の中に湧き起こる差別心はどのようにして自分の中で育ち拡大化していき、やがて減退し消失していくものなのか。いろいろと理解すべきことはたくさんあります。
 仏教用語に「平等心」という言葉がありますが、同じように「差別心」も誰しもが持っていて、その克服が必要である、と思います。かくいうわたしも、このパンデミックの初期に、自分の中に差別する心が生まれたことに驚き、自己嫌悪に陥りました。ただ、わたしはこのことを自分の心の反応を観察するいい機会と受け止めなおしました。防衛反応として生まれた心の動きが、区別し分離する心の働きとして育って拡大してしまい、そのことが差別心に自ら栄養を与えて育ててしまったようでした。怒りや恨み、妬みなどの負の感情も似たようなプロセスを経ます。自分自身の未知なる心の動きを観察するいい機会だったと思っています。

 今回のような人工社会の大変化はそこに大きな力が働いているからこそ、その力を利用して自分自身の問題を乗り越える機会として受け取めなおしてほしいと思います。風の力を利用して空を飛ぶようなものです。視点と発想の切り替えこそが求められています。変化していることで混乱が起きているのはあくまでも人間界のシステムの問題なのです。
 自然界は数十億年の規模で起きるプロセスの途上です。もちろん、人間界が自然界を大きく攪拌していることも事実です。たとえば、地球温暖化です。化石燃料を掘り起こし、短期間でエネルギーに変えて大量の熱を地球上に放出し続ければ、いずれ臨界点を超えます。ある臨界点を超えると平衡点は別のポイントへと移動し、地球に寒冷化や温暖化をもたらし、大雨や大雪や台風などの異常気象として大きな変動を引き起こしながら、新たな均衡をもたらすための変化のプロセスにあると理解できます。わたしたちが住む家を一つの地球と見立てて、その家の中で何が起きるとどのように内部環境が変化するかと、小さく考えやすいモデルで考えてみれば納得できる点も多いと思います。

 医療者としては、こうした異常事態は人体内部で起きていることと全く同じだということも補足しておきたいと思います。わたしたちは食や水分で栄養を取り入れ、体内でエネルギーに変換して分配し、不要なものは糞便や体液として体の外に排出します。入れて、配って、出す、というプロセスは、情報も同じようなものです。五感(見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れる)で情報を取り入れ、体内で情報を分配します、そこでは脳が司令塔の役割を果たします。そして、外界に向けて情報を出す時には、全身の小さな筋肉や大きな筋肉が動くことで「表現」するようにして、生きています。人の体では、食べ物だけではなく、情報も入れて、配って、出しています。
 人体のようにひとつのシステムの中で、入ってくるものと出ていくもの、収支計算のようなバランスを考えてみてください。入ってくる情報の量(入力、インプット)に対して、自分から外に出す情報の量(出る力、アウトプット)のバランスはとれていますか? 
   自分の体の単位や感覚で考えたバランスを手掛かりにして、体、家、地域、地球、とサイズやスケールを少しずつ大きくして見れば今、地球規模で起きていることも実感しやすくなるだろうと思います。「実感」とは、自分の体がリアルな感覚として受け取る感覚であるとすれば、やはり自分の体をひとつの拠り所として「実感」することが、すべてのスタートになると思います。

枠を拡げて、仲間と出会おう

 多くの人がつながりを絶たれ、孤独な状況の中で苦しんでいるだろうと思います。若い人たちはあたり前の学校生活をうばわれ、青春の一ページに何も刻まれないような気がして途方に暮れることもあるかと思います。ただ、苦しんでいるのは人間界という枠内のことではないだろうか、と捉えなおしてほしいのです。今視点を向けるべきは、人間界ではなく、もっと広い別の世界です。
 ある枠内で問題が解決できない時、そのフレーム自体を拡大しなければどうにもならないことが多々あります。逆にいえば少しでもフレームを拡大することができれば、問題が解決に向かうことも多いのです。
 大切なことは、あなたのフレームは、あなたが自分で拡げることができるということです。例えば先に挙げたような花鳥風月と呼ばれるこの自然界を考えてください。人間界の枠内で考えるならば、生きている人たちだけではなく、亡くなった先人たち、死者たちのことを思考の枠内に入れてください。死者の思いをどのようにすればわたしが受け継いで果たせるのか、その課題に時間をかけて取り組んでみてください。今必要とされているのは、短期的な思考や発想ではなく長期的な思考や発想です。
 あなたの悩みという強いエネルギーは、別のエネルギーへと変換されることで、冬の季節が春の芽生えのための重要な準備期間であることに気づきます。そうして四季が巡ることを念頭に置きながら、人間の社会を恨まず妬まず、花や鳥や風や月のような自由で孤高の境地を獲得し、人間界ではない世界とよく対話をしていただければと思います。

 孤独なのはあなただけではありません。必ずあなたにも仲間がいます。その仲間を探してください。仲間なんていない、と言う人はただ出会っていないだけです。人間界だけではなく、自然界も含めて仲間を探してください。きっとあなたの力となり、支えとなります。春夏秋冬と季節が巡るように、冬の時代の次にはいつか必ず春が訪れます。近い地点を見て絶望と途方に暮れた時は、山の頂上や宇宙の果てといった遠くのものに視点を向けてください。
 視野のスケールを手動で切り替えてください。そうすると、あなたの脳の思考の枠そのものが広がり、たとえ悩みそのものは消えてなくならなくとも、悩みで占められていた部分が相対的に小さくなり、やがて乗り越えることがきっとできるはずです。自分の長所と短所を学びながら、共に生きて行きましょう。
 生きていれば、素敵な出会いが突然訪れ、その出会いの力であなたには大きな変化が訪れるはずです。生きていればそうした出会いの奇跡も起きるのです。なんとか生き延びてください。そして、あの時は大変だったね、と、焚火の前で昔話として語れるように、同じような悩みを持つ次の若者へとその経験を生かして伝えてほしいと思います。今は亡き先人たちも、困難を乗り越える力をそっと次の世代へと渡してきたのです。いのちの聲に耳をすませば、そこからいのちの力を受け取ることができるはずです。

Photograph by Yuki Inui

著者プロフィール

稲葉 俊郎 (いなば としろう)

1979年熊本生まれ。医師。軽井沢病院院長・総合診療科医長。信州大学社会基盤研究所特任准教授。東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。東北芸術工科大学客員教授(山形ビエンナーレ2020、2022 芸術監督)。2014年東京大学医学系研究科内科学大学院博士課程卒業(医学博士)。東京大学医学部附属病院循環器内科助教を経て、2020年春、軽井沢に移住。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。『いのちの居場所』など著書多数。
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