いのちノオト 軽井沢発。屋根のない病院から届けよう―― 稲葉俊郎

第5回

旅に出て「いのちの土台」を育もう

更新日:2023/2/22

今月の音

わたしたちはあらゆる面で思い込みや固定観念に心が縛られていることが多く、そうした見えざる心の縛りを解くためには、外部環境を変化させるしか手段がない場合もあるのです。それだけ、わたしたちは場の影響を無意識下に強く受けています。旅は、心の治療としての効果もあります。

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自身の身体、内臓に感謝を

 わたしたちは自分の体のことをほとんど何も知りません。鼓動を感じる、息をしている、ものを考えている、尿を排出する。それぞれ心臓、肺、脳、腎臓などが体で働いていると知識や情報としては知っていても、その臓器の実態を見ることはありません。わたしたちは生まれてから死ぬまで、24時間365日、1秒のずれもなくこの肉体に支えられているにもかかわらず、ほとんどの人は自分の臓器と一度も対面することもないまま一生を終えるのです。
 わたしは外科の研修で実際の内臓の手術には何度も立ち会いましたが、表現し難い光沢感や質感で内臓は生きていました。ただ、それもあくまでも他者の臓器のごく一部分を一時的に垣間見たにすぎません。自分自身の内側に広がる内臓世界、まさに生命を支える根源の世界の全貌を見ることはありません。こんなに不思議なことがあるでしょうか。家族や親友など、わたしたちの人間関係の中で感謝すべき人は数多くいると思いますが、この日々を支えている体や臓器に対する感謝の念を持つのことはすべての前提になるのではないかと思います。感謝の念は、言葉に出さずとも心の中で思うだけでも効果的です。それだけでも、自分自身の肉体と良好な関係を結ぶことができると思います。

60兆個の細胞が支える生命活動

 実際の体の臓器は、さらに小さな細胞からなる微細なパーツから構成されています。細胞の直径は10μm (10マイクロメートル=0.01mm)程度のサイズです。ウイルスは0.1μm くらいのサイズだと考えると、ウイルスの約100倍の大きさほどの目に見えない小さな細胞の、ひとつひとつが生命活動を行っているのです。そうした生きた細胞が約60兆個(60,000,000,000,000)ほど寄り集まって私たちの体をつくっています。約60兆個の細胞と簡単に述べましたが、その微細な生命体が膨大に寄り集まりながら私たちの体の全体性が維持されている、ということにどれだけのリアリティーを感じられるでしょうか。
 例えば、地球の人口は2023年現在で約80億人とされていますので、約60兆の細胞は地球7500個分の人間の数と同じくらいです。地球一つでも争いが絶えず、人々をまとめるのに大変なのですから、地球7500個分の人口に匹敵する約60兆個の細胞をまとめていくのがいかに神業に近い状況か、お分かりになるでしょう。

「失って初めて気づく」では遅すぎる

 約60兆個に及ぶ人体の細胞が、巧妙に役割を果たすことでわたしたちのいのちは維持されています。そもそも、いのちの全体を維持している主体が何なのか、いのちを司る主体があるのかないのか自体さえも、いまだによく分かっていないのです。脳が管理しているように感じられるかもしれませんが、わたしたちの心臓や胃腸などの内臓のことなどそのすべてが脳の絶対管理下に置かれているわけではありません。何が主体となってこの生命を維持しているのかは謎なのですが、それでもうまくこの体は維持されています。そうした事情は体だけではなく、心の世界でも同じです。体の主体も心の主体も謎であるにもかかわらず、色々なトラブルに見舞われながらも、その時その時でよりよいと思われる選択を繰り返しながら、それなりにうまく収まっていきます。こんなに不思議なことがあるでしょうか。
 自分自身にできることは、この不可解な力で維持されている人間のいのちの働きを邪魔しないこと、むしろ友好的に協力体制を築きながら日々を送っていくことです。失ってはじめてその重要性や価値が分かることはありますが、いのちに関してはそれでは遅すぎるのです。そうした態度やわきまえこそが体の自己管理やセルフケアの根幹に据えるべきものではないでしょうか。不即不離の関係にありながらも、永遠に不可解であり続ける自分に備わったいのちの力に対して、敬意と礼節、畏怖と感謝の念を持つことが、自分を労わる根底に据える哲学としてふさわしいものです。
 自然には四季があり、刻々と変化しながら移ろい行きます。初夏に新緑で覆われた大木の葉っぱがやがて秋には黄色や赤色へと変化しながら紅葉し、さらには葉は落ちてゆくと共に地面の色合いをも変容させます。落ち葉は土へと還り、幹と枝が残った木は、寒い冬を耐え忍ぶようにして立ち誇ります。このとき一見、冬枯れたように見える木も活動は続けています。地下に張り巡らせた根から養分を吸収しながら体を養い、春の訪れの合図と共にまた新芽が乱舞するように芽吹き、自然界はまた新緑で包まれていきます。木はこうして自然環境に呼応するように存在のあり方を変えながら、自然に対して逆らわない生き方を続けます。わたしたちの体も人工物ではありません。長い自然界の歴史の中で育まれてきたものです。そのため、内的自然である体や心にも四季の変化に応じたありかたがあります。

人は環境とシンクロしながら生きている

 春や夏には体はやわらかく、ゆるみ、開かれます。秋から冬には体は固くなり、緊張し、閉じていきます。自然界で花が開いたり閉じたりする動きと呼応するようにわたしたちの体を調整していけば、自然に適(かな)った生き方ができるのですが、そうした自然の移り変わりを不幸にも邪魔してしまうのが「頭」でつくられた世界です。
 この連載の第1回でも触れましたが、現代社会は「頭」が創り出した人工物に溢れて行ったことで、日々の暮らしがあたかも誰かの脳の中に閉じ込められた状態に陥っています。人工物には必ず作者がいて何かしらの意図や目的があります。それに対して、自然界には作者はおらず、意図も目的もありません。私たちは自然物から意味や用途を発見しながら生きています。人工物に溢れた脳化された生活そのものが心身の不調の主原因となっている場合、完全な治癒に至ること自体がなかなか困難なことも多いです。ただ、心身の奥底で働いているいのちの力は、どんな過酷な環境の中でも、常に全体のバランスを取ろうとして、懸命にいのちの治癒活動に従事していることを忘れてはいけません。
 眠りの時間も重要です。眠りは自分自身のいのちの場所に戻れる貴重な時間であり、人生の聖域です。そもそも危険と感じられる環境では深く眠ることができず、眠りの深さにより質の違いがあります。眠りが深ければ深いほど、無意識界が活性化し、根源にあるいのちの力が強く働きます。冬は、もともと体が閉じて緊張してしまっている状態ですから、体の「眠り」の時期とも言えますので、いかにして質の高い眠りを実現させるかに気持ちを向けてほしいと思います。

 わたしは東京の都市部から軽井沢へと居住地を変えました。自然に溢れたところが全てにおいて素晴らしいと言いたいわけではありません。自然界の力は強く、人間の弱さを突き付けられることもあります。ただ、そうした自然の厳しさを踏まえた上でも、それ以上に体が感じている深い喜びも感じます。都市部や室内では温度や湿度も一定に保とうとする力が大きく、それは不快感をなくそうとする試みの結果ではありますが、自然界は変化すること自体に本質があり、温度や湿度だけでなくあらゆる条件が変化します。そうした変化は一見すると不快感を伴うものですが、そうした変化があるからこそ体はそれに応じてあらゆる力が働き出す側面もあります。
 体は、環境の変化に抵抗して敵対するという関係性よりも、体内環境を一定に保つ(ホメオスタシス)ようにして、時に変化そのものと同期(シンクロ)しながら、体表面と体内との役割分担を行いながら、体内を最適な環境に保とうとします。寒い時に、手や足の末端が冷えてしまうのは、内臓であれば脳や心臓の働きを保つために全身の血流分布が動いている結果でもあります。その時には、手足の末端だけをぬるま湯などで温めることで、また血流は全身をくまなく巡り始めます。そのようにして、自分に起きている体の変化を観察し続けていると、外部環境に応じて内部環境がどのように変化し、そのことに対して何をすればいいのか、自分の頭で考えられるようになります。それは、一生付き合っていく必要のある自分自身の体や心と和して生きていくために必要な礼節のようなものです。

「旅」がもたらす一番の治療効果とは

 先日、故郷である熊本に帰省しました。普段生活している軽井沢から熊本への旅でもありますが、人はなぜ旅をするのでしょうか。そこには色々な要素があると思いますが、わたしがいつも感じるのは、場を変えることによって心身が自動的に切り替わることです。この連載で何度も触れていますが、人は必ず場や外部環境の影響を受けています。ただ、場の中にいると、心身は自然に場に適応していくため、その場から影響を受けていること自体に気づけなくなります。都市部での室内環境はあらゆるエネルギーを消費して転換しながら室内環境を一定に保っているにもかかわらず、その前提に気づかなくなることと似ています。
 わたしたちのいのちは、環境に適応して生きていくために、自動的に心身が環境に適応していきますが、その適応があまりに自然であるために、場そのものの影響で心身が変化していることに気づけなくなるのです。そうした意味でも、場そのものを変えることで心身が新しい環境への適応を始め、スイッチが自動的に切り替わるのを感じるでしょう。
 わたしは、外部環境を変えることで内部環境の心身が変わることに旅の意義を感じています。例えば、海外など未知の場に行く旅では、あらゆる前提条件が異なります。文化様式が異なる場に行くことでしか、わたしたちの固定観念や価値観が根底から更新されることも難しいのです。わたしたちはあらゆる面で思い込みや固定観念に心が縛られていることが多く、そうした見えざる心の縛りを解くためには、外部環境を変化させるしか手段がない場合もあるのです。それだけ、わたしたちは場の影響を無意識下に強く受けています。旅は、心の治療としての効果もあります。
 旅のように物理的な移動ができない場合は、旅人の話を聞くことも同じ効果を生みます。古来、旅人はマレビト(※)として大切にされてきました。それは内部だけでは変化できない場の重力を、旅人が持ち込む異なる考え方が混ざり合うことで場の力学を変化させる力があったからでしょう。旅人や来訪者は、そのようにしてわたしたちの心の環境を更新してくれる存在として、大切にもてなす必要があるのだと思います。自分自身の力だけでは起こすことができない予想を超えた変化を起こしてくれる触媒なのです。

「帰省」は「自分の土台」を強化する

 故郷に旅することはまた別の効用があります。故郷は自分の心の地層を作ってくれた唯一無二の場所です。もちろん、心の地層には喜びだけではなく、怒りや悲しみなども折り重なっています。心がまだ未分化だった時代の心の地層に触れることは、自分自身の基礎工事を見直すいい機会ともなります。住宅もそうですが、基礎工事が揺らいでいると、どんなに立派なものを上に積み上げていっても容易に崩れてしまいます。自分自身の根(ルーツ)を確認し、起源(オリジン)を確認する作業は、意識的に行うことは難しいものです。場の変化の中で無意識に地殻変動が起きますが、そうしたことを住宅の基礎部分のチェック作業だと積極的に捉え直すことで、また未来にやってくるフレッシュな一日を積み重ねていく土台が更新され強化されます。
 わたしは軽井沢で薪ストーブの薪をつくる作業のため、木を切り、木の根を掘り起こす伐根作業を行いましたが、木を切ることはチェーンソーなどの技術の発達で容易になったものの、伐根作業がいかに大変なことかと思い知りました。スコップで木の根を掘り起こすと、根っこは地中深くまで伸びています。スコップで掘り起こし、根っこをひとつひとつ鋸で切り離すのですが、根っこはさらに深いところからも土に侵入しており、木の根はこれほどまでに深く土壌に食い込んで全体の構造を支えているのかと驚きました。これは人の心の構造も同じだと思います。執着や恨みや嫉妬や後悔などの、いつ手放してもいいような感情は、おそらく根を切ろうとすれば容易に切れるはずです。むしろ、心の根っことして本当に自分を支えるためのものは容易に抜けず、それこそが一生かけて大切にしていくべき自分のルーツ(根)なのだと思います。

 わたしたちは不安という感情を情報で穴埋めすることでやり過ごすことが多いのですが、そうした不安の穴埋めとして埋め込まれた感情は時に異物のようにして内部に入り込みます。時には心の根の一部に入り込んで気づかなくなります。旅をする、旅人の話を聞く、故郷への旅をする、という身体的な行為は、わたしたちがどうしても手の届かない心の治癒のために、必要なことだと思います。そうした心の薬として、旅を有効に活用してみてはいかがでしょうか。観光は「光を観る」体験ですが、旅により攪拌される心の内奥にこそ、その闇を破る光があるのだと思います。

 ※マレビト
 民俗学で折口信夫が用いた用語。海の彼方の異郷(常世)から来訪し、人々の歓待を受け、また祝福を授けて去る来訪神、霊的存在をさす。稀人・客人。まろうど。

Photograph by Yuki Inui

著者プロフィール

稲葉 俊郎 (いなば としろう)

1979年熊本生まれ。医師。軽井沢病院院長・総合診療科医長。信州大学社会基盤研究所特任准教授。東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。東北芸術工科大学客員教授(山形ビエンナーレ2020、2022 芸術監督)。2014年東京大学医学系研究科内科学大学院博士課程卒業(医学博士)。東京大学医学部附属病院循環器内科助教を経て、2020年春、軽井沢に移住。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。『いのちの居場所』など著書多数。
https://www.toshiroinaba.com/

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