Nonfiction

読み物

読むダイエット 高橋源一郎

第1回 食べなくっても大丈夫

更新日:2020/01/29

食べるな

 さて、もっともわかりやすいダイエット法は「食べない」ことである。
 いや、そんな身も蓋もない……。食べなければ、間違いなくやせる。やせるどころか、そのまま持続すれば、死んでしまう。ある意味、究極の方法である。
 そういえば、カフカに「断食芸人」という短編があったなあ。檻の中で、観客もいないのに、ずっと「断食」をやって、ついには餓死。その断食芸人の死体は片づけられたが、わたしには、その空っぽの檻には「空腹」のようなものが残っていたとしか思えない、おそろしい小説である。えらいお坊さんの中には、修行の果てに、最後には断食したまま棺に入ってそのまま「即身成仏」。自分の力でミイラになってしまうような方だっておられる。もちろん、わたしは、そんなことをやるつもりはないし、みなさんにお勧めしようとも思わない。
 だが、わたしの調べた限り、あらゆるダイエット法に共通していることの一つは、「どのようにすれば食べないですむのか」、ということである。そりゃそうだ。そのために、全体の量を減らしたり、回数を減らしたり、種類を減らしたり、さまざまな工夫をして、「食べない」方法を模索する。それが、あらゆるダイエットの王道なのである。そこまでなら、誰だってわかる。けれど。
 それだけではない。この「食べない」健康法の中には、実は、深い、人間的叡知が含まれているのである。

江戸時代のダイエット本

 水野南北という人をご存じだろうか。わたしだって、ダイエットを始めるまでは知らなかった。名前から想像できるように、江戸時代の人である。そして、江戸時代に『修身録』という本を書いて、一世を風靡した人である。この『修身録』、なんと、ダイエット本なのだ。いや、正確にいうと、人間の健康について考えた本である。江戸時代の健康本というと、貝原益軒の『養生訓』が有名で、当時は、益軒に匹敵するほど有名だったようだが、いまはそれほど知られていない。南北が『修身録』で主張したのは、ずばり、「小食主義」である。ここでは、南北の研究家、若井朝彦さんの『江戸時代の小食主義』(花伝社)の中で、現代文に翻訳したものをもとに、ご紹介しよう。

「味がしなくて食がすすまないのであれば、食べてはならない。いつも腹に物が入っているから味がしないのだ。
 もし三膳食べているのなら二膳に、二膳だったら一膳にしてみるがよい。腹に隙ができれば、たとえ粗食だとしても美味に感じて自然と食はすすむ。
 このようにして食を慎んでいれば、三度三度の食に味がしないということはなくなるだろう。おかずらしいものがなくても、美味を感じて食はすすむ。
 慎み悪く、いつも存分に食べている者は、美味を口にしても味がしないものだ。
 だから味を感じなければ、一日食べなければよい。そうして一日食べなければ、おかずなしで、塩だけでも十分に飯がすすむはずだ。
 食を腹に満たさない。食にとっての善とはこのことである。
 腹が空いている時は、よい心地、すこやかな気分でいられるものだ。食事をする前にはだれもがそう感じる。それが人間にとって本来の善であるからなのだ」

 空腹時こそ「善」の気持ちなのだそうだ。しかし、これちょっとつらいかも、と思ってはいけません。貝原益軒の『養生訓』もそうだが、この『修身録』も、単なるダイエット本、健康本ではありません。人間、如何に生きるべきかを書いた本なのである。真に健康になるためには、からだのことばかり考えていてはならないのだ。
 ちなみに、江戸時代も後期になると、一日三食になっていた。ということは、江戸時代前期には、一日二食が広く行なわれていたようだ。つまり、南北さんの「三膳なら二膳」というアドバイスの中には「最近、三食食べるようになったけれど、以前の二食の方がましなんじゃないの」という、歴史の見直しという考え方も入っているのである。これは現代科学の知見でもあるのだが、人間は誕生以来数百万年もたっているが、その大半を「飢餓」状態で過ごしてきた。つまり、「お腹が空いている」というのは、人間、いや、すべての哺乳類にとって「ふつう」の状態だということだ。三食とも食べてお腹一杯なのは、生きもの的には「ヤバい」のである。まあ、そうはいわれても、みんな、この異常状態に慣れちまってるわけなんだが。
 でもね、南北さんのいいところは、「食べちゃダメ」一辺倒ではないところ。

「わたしは、わたしの考えを世の人に勧めたいがために、生涯米飯は食べず、米の形が残るものならば餅なども口にせず、一日に麦一合五勺限りと定め、酒を大いに好むといっても、これも一日に一合限りと決めている」

 酒は飲んでもいいんだって!
 さらに、

「人にとって第一の慎みは食である。外に遊興に出かけて散財をして、放蕩に身を任す者であっても、ただ食さえ慎めば、家をつぶしたり、病にかかることもないものだ。長生きもできれば、財産すら築けよう。
 なにごとも食が根本だ。その根を十分に守って慎む時は、他のことは枝葉に過ぎぬ。論ずるほどのこともない。食を慎んで遊びに行くがよい」

若井朝彦
『江戸時代の小食主義 水野南北『修身録』を読み解く』  花伝社(発行)共栄書房(発売)

 いや、最高ですね。食さえ慎めば何をしてもいいんだって。とはいっても、食を慎むほど禁欲的な人が、遊びにうつつをぬかすとも思えないけど、意外に、一般人でもできそうなことをいってくれてると思いますよ。南北さんは。
 それだけではありません。「三膳食べているのなら二膳に、二膳だったら一膳にしてみるがよい」ということばがありましたね。この部分について、南北さんは、実に深いことをいっている。

「食はいのちを養う本である。その食を献ずるということは、すなわちわがいのちを献ずるに等しい。いつもが三椀ならばそれを二椀にして、一椀分を神に献じ奉るがよい。
 しかし別に椀を設ける必要はない。ただ毎日の膳に向かい、念ずる神仏を、心中に深く想って、三椀の食から一椀を献じ奉る、と祈ればよい。そして二椀をいただく。すると一椀は神がもうお受け取りになっておられるのだ」

 南北さんは、ただ、食を減らせ、といっているのではない。減らした分は、神さまへの捧げものだ、とおっしゃっている。つまり、ただ個人のからだのことをいっているのではないのである。それ以上のなにか、のために、である。南北さんは「神」といっているが、これは、個人を超えたなにか、の象徴ではないかとわたしは思っている。現代でいうなら、「環境」だろう。そう思った瞬間、南北さんが、わたしには、あの話題のグレタ・トゥーンベリさんに見えてくるのである。確かに、必要以上に食べないことは、捨てられる食物を減らすことにつながり、ひいては環境の悪化を防ぐことにつながってゆくのかもしれない。そういう気持ちで、食を減らすとき、世界の見え方は確実にちがってくるのではあるまいか。
 いや、いまの書き方では、わたしの勝手な解釈になる。南北さんは、もっとはっきり書いていらっしゃる。

「天からの恵みの究極のものが食である。これを余計に食するということは、日々天から借りをしているのと同じことなのだ。不必要に費やしてしまった食は、すべて屎(くそ)となってこの地上から消え去ってしまう。この分の食を、あなたはいったいいつ天にお返しするつもりなのか。人は催促に来るだろう。しかし天は黙ったままそれをあなたから取り上げてゆかれる。
 あなたが返さなければ、子孫から、子孫がいなければその家を亡ぼして家系を断絶させてしまわれる。
 自分が借りたものは返す。これは天地の理である。だから身のほどよりも大食をする者は運が傾くのだ。思わぬ災いや損失が起こる。だがこれもすべて天の与えたまう戒めであり、そのための取上げだと知るべきだ」

 ほら。いったでしょ。『修身録』は単なる「小食の勧め」ではなかった。現代につながる、世界を亡びから救うメッセージに満ちた本だったのである。ダイエットは世界を救う(かもしれない)のだ。
 これで、みなさんも、ダイエットや健康本が、単に個人の体調や健康に関するものではなく、もしかしたら、『資本論』や『聖書』に匹敵するような大きな意味も持っているのではないかと思われるようになったかもしれない。そのような本をもう一冊、ご紹介しよう。南北さんの『修身録』は江戸時代の本だったが、こちらは、中世ヨーロッパ最大の、健康本のベストセラーである。

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

特設ページ

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.