読み物
モレスキンのノート
更新日:2018/07/11
私の致命的欠陥は忘れ物がひどいことである。それは私をして自分は健忘症なのではないか、このような記憶に障害のある人間が事実を扱うに慎重であるべきノンフィクション作家などという肩書きを名乗っていていいのだろうかと悩ましめるほどである。当然、探検の現場でも例外ではなく、忘れ物が原因で致命的事態に陥りそうになったことも何度かある。だから登山や探検のときは、今回はどんな忘れ物をしているのかと不安でならない。ときに忘れ物が、登山や冒険の困難さのグレードを引き上げることがある。登山や冒険は困難さの追求と克服が重要なテーゼなのであるが、忘れ物はその困難さに一風変わった無用な彩りを添えることもある。
今シーズンのグリーンランド行の際も私は家を出たときから忘れ物が不安でならなかったのだが、成田を出て最初の立ち寄り地であるコペンハーゲンで早速いくつか気がついた。ノート、爪切り、村で滞在中に使用する室内履き用スリッパなど細かなものが中心で致命的なものはないが、それでもノートは探検の日記を書くためのもので、執筆時の素材になるため、ちょっと痛い。いつもはCampusのノートを使っているのだが、海外製のは紙質が粗いのが多く、ノートが悪いと日記を書くのも気分が乗ってこないのである。
コペンハーゲンの書店でモレスキンの高級ノートが売られていた。以前、大学探検部の先輩の高野秀行さんと対談したときに愛用していると聞いていたブランドである。様々な種類のノートやメモ帳が置いてあり、サンプルを触ると確かに書きやすそうだ。一番気になったのが柔らかい素材のカバーが使われたA4サイズより少し幅広のもの。じつに使い心地の良さそうなノートで、値段は約二〇〇クローネ、日本円にして四〇〇〇円近くと目ん玉が飛び出るほど高いが、そもそもデンマークは物価が日本の三倍ほどするのでこの値段も致し方ないような気がするし、このような重厚かつ手触り感抜群のノートに日記をつけたら、それは素晴らしい記録になるにちがいなく、素晴らしい記録は素晴らしい作品の誕生を促す原動力になるはずだから、であるならその投資も決して高いものではない、との錯覚が連鎖し、消費欲が刺激され、つい衝動買いしてしまった。
しかしホテルまでの帰り道、消費欲を支えたエンドルフィンの分泌が収まったのか、急に現実に立ち戻り、恐ろしい後悔の念に襲われた。いくら物価高のデンマークとはいえ、ノート一冊に四〇〇〇円はないだろ……。何度も立ち止まっては逡巡したが、結局、踵を返して書店にもどり、三冊で一〇〇クローネほどのもう少し穏便な価格のノートに交換してもらった。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。