読み物
幻の蒼氷
更新日:2017/12/27
南アルプスの甲斐駒ヶ岳に黄蓮谷(おうれんだに)という谷がある。甲斐駒周辺の谷は冬の冷え込みが厳しく、乾燥しており、しかも地形が全体的に急峻でそそりたっているためアイスクライミングの対象となる谷が多い。そのなかでも特に黄蓮谷は取り付きやすさと、山頂まで滝が連続するルート内容の充実ぶりから屈指の人気ルートとなっており、しかも結氷時期が非常に早いため、八ヶ岳の氷瀑とならび国内で一番最初に凍るルートとして知られる。アイスクライミング好きにとっては黄蓮谷が凍って登攀者(とうはんしゃ)が現れたという知らせが、そのシーズンの幕開けを告げるニュースなのだ。
私にとって黄蓮谷といえば〈蒼いガラスの谷〉。これは私が学生時代に発売された『日本のクラシックルート』(山と溪谷社)という本のなかで、遠藤甲太という名登山家がこの谷を評して形容した言葉である。遠藤は一九六八年にこの谷を初めて登攀したときのことを回想して小さなコラムを執筆しており、そこで〈雪をとどめぬ蒼い回廊、蒼いガラスの壁がどこまでも続いていた〉との自らの山日記の内容を紹介している。どうやら彼が登った当時の黄蓮谷は、本格的な降雪がはじまる前に全面的に結氷するため、ブルーアイスの滑滝(なめたき)が山頂までのびて異次元のような幻想的空間を現出したらしい。
ただ、それも今は昔の話。温暖化が進む近年は本格的に結氷する前にどうしても降雪がはじまってしまうため、蒼い回廊は雪の下に埋まってしまうケースが多い。私は過去にこの谷を二度登っているが(右俣と左俣を一度ずつ)、やはり雪が多くて、蒼氷はところどころにある傾斜のきつい氷瀑で姿を見せる程度で、残りは終始深雪をずぼずぼラッセルした。遠藤が見たような蒼い回廊はまだ目にしておらず、いつかチャンスがあれば……とずっと心に秘めていた。
今年はどうも寒いらしく結氷がいいようだ。そんな噂がどこからともなく風にのって耳にとどいてきたため、十二月五、六日に久しぶりに黄蓮谷に向かった。黒戸尾根五合目から松林の凍った斜面を下る。谷に降り立った瞬間、がっかりだった。ブルーアイスの滑滝どころか、思いっきり水面が露出しておりほとんど沢登りの世界ではないか……。
少し登ると坊主の滝という最初の滝が現れ、そこから先はまずまず結氷しており多少のアイスクライミングは楽しめたが、しかし積雪が二十センチほどあり蒼氷はおおむね雪の下。いつものように雪の中に足を沈めてひたすら登り、背後を振り返ると雪男の足跡みたいなトレースが延々とつづいていた。
雪が降る前に真冬並みの寒さがしばらく続く、そんな異常気象のような初冬でもなければ、もはや往年の幻想的な黄蓮谷の姿を見ることはできないのかもしれない。よく山は逃げないと言われるが、それはまちがいで、山は逃げる。蒼氷の回廊は逃げてどこかにいなくなってしまった。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。