Nonfiction

読み物

Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

悪なる者と善なる者

更新日:2017/10/11

 八月。盛夏である。
 日本国内で盛夏の山を登っていて何が一番鬱陶しいかといえば、それは断然アブである。前回、夕張岳のヒグマの話を書いたが、じつはこのときの登山で一番閉口したのは熊ではなくアブだった。熊は気配が濃厚とはいえ、遭遇しない確率が高く、遭遇しないだろうなぁと心のどこかで思っている。だがアブはちがう。アブは昼の間は常時身体にまとわりついてきて、衣服越しにチクチクとやってくる顕在的不快だ。人間、潜在的な大きなリスクよりも目の前の小さな雑事に気を取られる傾向がある。三十年以内に南海トラフ起因の大地震がくるとわかっていても皆どこか他人事なのと同じで、潜在的な熊リスクより顕在的なアブの不快のほうが焦眉の課題と感じられる。
 ディープな登山者の間でアブといえば七月上旬から八月中旬にかけて越後や東北の沢で大発生するメジロアブだ。こいつの発生時期に同地域の沢に入るときは数百匹レベルのアブにたかられると覚悟したほうがいい。虫どもが黒雲のように飛びまわって人柱が立つ。全身を覆いつくすことなく入山するのはそれこそ自殺行為に近く、全身が吸血されて干からびる前に、奴らの攻撃に発狂して錯乱死するか、崖から落ちて滑落死するだろう。現実的にヒグマより危険かもしれない。
 北海道の山は本州より気温が低いのアブのイメージはなかったが、やはりそれなりに大量にいた。メジロアブではなく身体つきの貧相な小型のアブだったが、アブはアブ。不快さは何ら遜色ない。メジロアブは形態がメカニックでどことなく造形美を感じさせるが、北海道のアブはコメツキムシみたいで色合いも容姿もみすぼらしくて、個別でみるとさらに不快かもしれない。夕張岳では沢中よりも林道歩きのときがひどくて、帽子を蠅叩きのようにばたばたと振りまわし汗みどろになって通過した。
 山頂から林道に下りてきたときも一気にたかられた。腹が減ったのでザックに腰かけて行動食を頬張りはじめたところ、食事が不可能となるほどみるみるたかってくる。腕や足に止まったのをバシバシ叩いて殺すのに夢中になりすぎて手に持っているカロリーメイトの存在を忘れるほどだった。
 バシバシとアブどもを片っ端から叩き殺すことに夢中になっていると、ふと、地面で蟻たちが、私が叩き殺したアブをせっせと巣に持ち運ぼうとしているのに気がついた。私がアブを叩き殺す。それが地面に落ちる。一匹の蟻がそれに顎を食いこませる。さらに二匹、三匹と群がり、わっせわっせと皆で運ぶ。
 それを見たとき、私はこの上もなく爽快な気持ちになった。とんでもなく心地よいスペクタクルを見た気がした。
 何しろ私たち登山者にとってアブは鬱陶しさ、不快を表象する悪の権化のような存在だ。それを、もう死んだとはいえ、片っ端から掃除する蟻の姿は善なるものの表象として私の目には映ったのだ。
 中には先走ってまだ息のあるアブに食いつくせっかちな蟻もいる。蟻が顎を食いこませると、アブは飛べないだけでまだ生きているので、激しく手足をばたつかせて抵抗する。思わぬ抵抗にあって蟻も必死になってさらに顎を食いこませる。自分よりも数倍大きなアブをぐいぐいと絞め殺す蟻の姿を見ていると、つい、やっちまえ、ぶっ殺しちまえと応援する自分がいた。そしてこの小さな英雄たちにどんどん餌を供給してやろうと、私のほうもさらにいっそう力をこめて、次から次へとアブの死骸を供給する。アブは無限に私の身体にまとわりつき、地面には次々とその死骸が転がり落ちた。
 三十匹ぐらい殺した頃だろうか。急に、俺はこんなところで一体何をやっているのだろう、もう四十一にもなるというのに、と冷静になり、ザックを背負って駅までの帰路についたが、十五分ほどの間、私は蟻との間にひと時の共生のときを過ごしたのだった。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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