読み物
〈神々の庭〉での一頭
更新日:2024/01/10
今回の山旅の目的は〈神々の庭〉と私が呼ぶ場所で鹿を獲ることだった。
〈神々の庭〉は日高での地図なし登山で出会った、私にとって特別な場所だ。はじめてその地を訪れたときは神秘的な靄がかかり、大河原を流れるせせらぎを数頭の鹿がピーピーと鳴きながら逃げて行った。あたかも神の使いのようで、いつかここで鹿を獲れば日高の山々と深いところでつながれる気がしたのだ。
〈神々の庭〉は日高の奥の奥で、まさに山塊の核心に位置する。林道のゲート止めから歩きはじめ、笹藪におおわれた尾根を越え、牧場のように鹿がうろつく長い林道を重荷に喘ぎながら歩き、峠を越え、出発から六日目にしてようやくたどり着いた。
翌日、〈神々の庭〉の野営地を出発し、鹿を探す。前日の峠越えまでは鹿などうじゃうじゃしていたが、〈神々の庭〉周辺はあまり姿を見かけない。全体的に急斜面が多く、ゆっくりできる場所が少ないのかもしれない。使われなくなった林道をたどり、めぼしい場所にわけいるが、気配はない。前日群れていた河畔林にも姿はなく、狙いをつけていた南向きの緩い尾根筋も笹が深くて獣道も見当たらない。雄の鳴き声に鹿笛で応えるが、反応なし。こりゃ今日はダメかな……と敗退モードが漂いはじめたころ、かつて林道だった道の水たまりの近くで雄鹿が休んでいるのを発見した。
雄は私に気づきじっとこちらを見つめる。ちょっと遠いかなと思ったが、首の付け根を狙って撃鉄を起こし、引き金をしぼる。轟音とともに鹿はその場に斃れた。
〈神々の庭〉で鹿を獲ることは、日本で狩猟をはじめてから最初の目標だった。立派な雄が獲れて幸運だ。記念に枝角を持ち帰ることにした。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。