読み物
キノコの不思議
更新日:2023/01/11
昨年から本格的にキノコを採るようになった。山にはいるときは必ずポケット図鑑をザックに忍ばせ、目に入るキノコを同定する。ポケット図鑑とはいえ重量はなかなか馬鹿にならないが、これを一冊持てば山が格段に面白くなるので手放せない。
一年間、そこそこ真面目にキノコを食べてきて、そこそこくわしくなった。最初は百パーセント間違いないと確信できるキノコしか食べられなかったが、慣れてくると、はじめて見るものでも、どのキノコの仲間か何となく推測できるようになり、次第に大胆になってくる。死の危険があるような本当に危ない毒キノコはかぎられている。それだけは絶対に避けるように注意し、あとはまちがって食べても最悪死にはしないと割り切るようになった。
面白いのはキノコを見つけたときの心理である。どういうわけか、見つけたキノコはなるべく全部食べてしまいたいという気持ちになる。同定できなければ毒キノコの危険があるわけだから、普通に考えたら避けたほうが無難である。たかだか味噌汁の具になる程度の量なのに、無理して食べる必要などない。ところが理屈ではなく、もっと奥深い原始的衝動として、見つけた以上は食べたいという気持ちになるのだ。これが不思議である。キノコ狩りの面白さは、この不可解な衝動が根本にある。
この衝動は狩猟者の心理と同じだ。鉄砲をもって狩猟をはじめると、どういうわけか見つけた獣をすべて獲りたくなる。獲りたくなる、というか、獲らないといけないという義務感に近い感覚だ。これは、必要かどうかという合理的観点とはまったく別系統の気持ちである。見つけた以上は獲らないと、その出会いを否定することになる。狩猟もキノコ狩りも出会いをつうじて獲物(キノコ)や自然と結びつく行為なので、その偶然性を否定することは自らの存在を否定するのにひとしい。だから獣もキノコも見つけたものはすべて獲りたくなるし、獲ることによってはじめてその出会いが祝福されることになるのではないか。今のところ私はそう考えている。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。