読み物
ナノック
更新日:2022/05/11
シオラパルクに四十年以上住み、猟師生活をつづけている大島育雄さんから、先日、犬橇用の白熊のズボンをもらった。昨年春、村から百キロはなれたアウンナットの猟師小屋で数日をともにしたとき、私が「白熊のズボンって高くてとても手が出ないんですよね」と話すと、「古くてもう使わないのがあるからあげるよ」とおさがりを頂けることとなったのだ。
白熊はイヌイット語でナノック、白熊ズボンもおなじくナノックだ。現地のイヌイットは犬橇に乗るときは、かならずこのナノックを着用する。家でごろごろテレビばかり見ているへろへろの駄目親父でも、ナノックをはき、鞭をふりながら犬橇に乗るとじつに格好よく見えるから不思議である。ナノック効果だ。
四年前に犬橇をはじめてから、私もいつかはナノックをはいて旅したいと思ってきたが、でもそれは儚い夢だと思っていた。なにしろ白熊は毛皮だけでも、買ったらたぶん十万円以上はする。ズボンを作ってもらったら、それこそいくらかかるかわからず、そんな贅沢品は無理だと思っていた。それがお古とはいえ頂けるとは、今まで買わなかった甲斐があったというものだ。
さすがに大島さんがはきこんだものだけに、いたるところが傷んでいたが、皮を継ぎ足したり、テープを張ったりして補修した。カミック(皮のブーツ)に入れこむ裾の部分も、かなり長くして脱げないように工夫した。
じつに硬そうな皮に見えるのでごわごわして動きにくいのではないかと思っていたが、履いてみるとやわらかくて思ったより動きやすい。そして何より暖かい。氷点下三十度近くに冷えこんでも、なかに厚手の股引一枚はいただけで寒さを感じることがない。おそるべき毛皮だ。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。