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雌犬の乳首の凍傷防止用腹当て
更新日:2020/07/08
以前、雌犬をメンバーに加えたが、予想外のタイミングで発情してしまい狼狽した、との話を書いた。
その後日談であるが、案の定、雌犬のカコットは無事懐妊したようで、おそらく四月はじめに出産と相成りそうな気配である。
私が狼狽したのは、発情、交尾して雌犬が妊娠してしまうと最大の目標である長期漂泊行につれていけなくなり、この雌犬をチームにくわえた意味がないではないか、と思ったからだが、冷静になり村人にいろいろ話を聞くと、妊娠した雌犬を旅に連れて行っても問題ない、むしろ昔は長旅の途中で雌犬が出産するのが普通だったのだから、お前も昔のイヌイットのような大旅行をしたいのならむしろ雌犬を連れていけ、みたいな感じの助言をしてくれた。そんな面白半分で言っているとしか思えない助言を聞くうち、じきに私の心も面白半分になり、村にのこしたほうが無難ではあるが、不確定要素が大きいほうが旅は愉快になるから連れていくか、という前向きな気持ちにかわった。
とはいえ妊婦犬を連れていくには何かと準備が必要だ。本品はカリブーの毛皮でつくった乳首の凍傷防止用腹当てである。出産後、雌犬は乳房がふくらみ毛が抜けて乳首が露出してしまう。村で出産するときはベニヤ板で子育て用の犬小屋を作ってやるようだが、旅先ではそれもできないので毛皮をあてて寒さから乳首を守ってやらなければならない。
出産後、五日ほどで雌犬は橇引きを再開することが可能で、休憩中に子犬を母犬のもとに連れていき乳を吸わせなければならない。授乳しやすいようにバックルで簡単に取り外しできるようにしたのが、唯一の私なりの工夫である。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。