

第43回
ジイジイ、切り絵、チョモランマ
更新日:2026/10/21
- 5月某日 カタカナ弁護士
-
23時すぎにケータイに連絡がチリチリ鳴った。ぼくにとってケータイは緊急連絡のための道具で、こんな夜中にかかってくるのは本当に緊急の用件か、ヨッパラった友人からの電話だ。どっちにしても面倒くさい。
出るとベンゴシからだった。発信元としてはどっちの種類の電話かわからない。夜更けのベンゴシからの電話はそのまま“事件”ということも考えられる。
ベンゴシといっても、ぼくが昔から知っている弁護士ではなく、雑魚釣り隊で知り合ったタナカベンゴシからだった。
彼もちゃんとした若手弁護士なのだが、仲間うちでは何故か、いつもカタカナでベンゴシと呼ばれている。
口に出して話すコトバで、それが漢字なのかカタカナなのかわかるんですか? と言われるかも知れない。わかるんですよ。
雑魚釣り隊のガラッパチ、竹田あたりの説明では、このベンゴシは毎日どこかでサケを飲んで酔っぱらって徘徊しており、さらに深く酔うとそこらの植え込みで寝てしまったりするので、当然、漢字ではなくカタカナのベンゴシなのだという。
古い友人で弁護士の木村晋介も若い頃からよく酔っぱらっていたが、さすがにヒトの家の庭の植え込みに寝てしまうというようなことはなかったな。
カタカナのベンゴシは、まだベンゴシ界では前頭クラスのベンゴシということなのだろうか。とにかく、「どうした。何か事件なのか」とぼくは聞いた。
ベンゴシの声は、まだヘベレケというわけでもなく、話し方もしっかりしてはいたものの、ややロレツがまわっていない。
「夜更けにごめんなさい。ぼくの用事ではなくて、シーナさんもよくご存じの沖縄親父の用件があって電話したのれす。いひひひ」
やっぱり問題アリなのだった。
すぐに電話の声が代わった。名蚊元(ナカモト)だ。本当は「カ」は別のもっと面倒くさい難しい字を書くのだが、わがワープロはココントコあちこち壊れてきていて、ちゃんとした字を出すのにえらく時間がかかるようになってしまった。まあこの時間、この2人が電話をかけてきているところは新宿のどこかの路地裏だろうから、2匹の蚊がかけているのとたいして変わりがないので、これでいいのだ。
「あのれすね。こんな夜更けに申し訳ないです。たんとうちょくにゅうにいいますと、最近、ワタクシにコドモが生まれまして、それで嬉しくなって報告しているのでえす」
「ええ? ちょっとまてよナカモト、君はいまいくつだ?」
わたしは聞いた。
中蚊元にそんなことが起きているとしたら、びっくりして夜更けにだろうが波うちぎわだろうがガケの上だろうが電話をかけてくるだろう。でも、電話の声はすぐにさっきのベンゴシに代わった。そばで今の会話を聞いていたらしい。
「訂正します。ナカモトさんに赤ちゃんが生まれたわけじゃありませんよ。ナカモトさんの息子さんに赤ちゃんが生まれたのれす」
そうか。そうだろうな。あーびっくりした。電話をまた代わってもらった。
「そうかあ、おじいちゃんになったかあ」
「えへ。でへへへへ」
名蚊元は人情味のある沖縄人だ。いつもひたむきに働いていて、卓球と島らっきょうの育成と小さな居酒屋経営にひたすら打ち込んできた、まじめいっぽうの男だった。
「こんど新宿にいったとき、ナカモトの店にも顔をだすから、アワモリで乾杯しようなあ」
ぼくも嬉しくなってそう言った。
「おねがいします」
そうか。名蚊元もついにジイジイになったか。夜更けの電話でも、こういう連絡はじわじわ嬉しいものだ。
- 天才とギンコイ
-
ベンゴシを介してときおり電話してくるホカの仲間に、「久保修」がいる。
彼も酔っぱらいだが、天才的な芸術家でもある。むかしから「切り絵」をやっていた。若い修業時代にはずいぶん苦労しているようだった。天才芸術家によくあるように、うまくいかないときにはどうしようもなくへたりこむようだった。
あるとき新宿の路地裏で、酔っぱらって歩いている彼とバッタリ出会ったことがあった。やつはいつものようにヘベレケだった。
「このまま一緒に飲みにいきましょう。わあ嬉しいな」
彼はそういって喜んでいた。こっちはそんなに嬉しくはない。サケのサカナとしてはアブラが強すぎて胃がもたれるのだ。
一緒に入ったそこはカラオケのある店で、久保シュウは「シーナさん、おれ、夢があるんです。シーナさんと一緒にカラオケを歌いたいんです」
えっ。なんちゅうコトを言うのだろうか。まあニンゲンは酔ってしまうと何を言い出すかわからないのだ。早いうちにヘベレケのこいつから逃げたくて、言うことを聞いた。
「それもリクエストがあるんですよお」
天才はよろけながら言った。
「おれ、いつかシーナさんとデュエットでユウジロウのギンコイを歌うのがユメでした。銀座の恋の物語でえす」
ひええ、またまたなんちゅうコトを……。まったくおかしな奴だった。
でもまあ、とにかくそのあと一緒にカラオケをやった。店には先客が何人かいた。なんちゅう奴らだと思っただろう。
しかし、いつかゲージュツ家は大きな夢を叶えるものだ。それから何年かしたある日、彼から立派な案内状のハガキが送られてきた。
「紙のジャポニスム」というタイトルが躍っていた。
伊勢丹の大きなギャラリーを使った、久保修の切り絵展の案内だった。
いまや彼の切り絵は百万円もするタタミ大のものが飛ぶように売れている、という話を少し前に聞いていた。ハガキ大ではなくてタタミ大だというのだ。
「おお、これだったかあ」
友人がヨッパライ伝説のなかから大きく羽ばたいているのを見るのは嬉しいコトだった。
こんなふうにベンゴシが電話をとりついでくる二人は、ともにとんでもなくキマジメなヨッパライ、という共通項があった。そのことを書きたかった。二人とも照れ屋のいい奴なのである。
久保修と最後に酔っぱらって歩いた記憶はいまから20年ほどまえのことだった。何人かの仲間らとポルトガルに短い旅行にいって、石畳の路地を歩いていた。そのとき二人でデタラメのファドの真似をしていたのだった。ファドとは、いわばポルトガルの演歌だ。あの情緒ある漁師町の風景を、やつはその後ちゃんとジャポニスムの切り絵にしただろうか。芸術家は泣き虫なんだよなあ。
- 5月某日 シコナ新時代
- 大相撲がはじまった。このごろ、いろんなシコナの力士が出てきて楽しい。シコナは、もう少し時代にあわせて進化させてもいいんじゃないだろうか。「雷狂」とか「悪魔の遣い」とか「大真空」とか「つきまとい」とか「神経攻め」などというシコナの力士、あるいは得意技の持ち主の力士は、まだまだ出てきてませんね。
- 5月某日 「失踪の日」
-
いまや「失踪請負チーム」のようになっているライターの竹田、事務所のW、編集Sが、我が家にやってきた。かねて予定していた計画の通りだ。
発端はある日、編集Sが電話してきて、
「もうすぐ『旅の日』だそうです。だから、とにかくどこかへ行きましょう」
と言ったことだった。
『旅の日』なんてものがあるのか。それは知らなかったが、しかしだからといってどこかへ行く、というのは、どう考えたらいいのか。
前々からこの「〇〇の日」というのは「そうか面白いなあ」というよりも、たいていの場合、そう言われて困ることが多い。
「帽子の日」とか「ハブラシの日」とか言われれたら、まあなんとかわかる。「靴の日」というのがあったら、それはどんな日だろう。これが「タカハシの日」なんていったら、日本中のタカハシは外に出て挨拶しなければならない。
だいたいこの「〇〇の日」というのは、〇〇が商品だったら、その業界のなにかに利するPRになるのだろうから、そもそも面白くもなんともなくて当然なのだ。
などと思いつつも、旅と言えば大げさだが、病み上がりでしばらく遠出もしていない。軽い運動を兼ねてちょっと出かけるのも悪くないかと、昔なじみの町を散歩してみることになった。
- 消えたチョモランマ
-
まず向かったのは、かつてぼくが住んでいた小平市の津田町だ。西武線の一橋学園駅の駅前に、大勝軒というラーメン屋がある。有名な屋号だが、編集Sの調べによると、こちらは永福町の名店に連なる店で、つけ麺で有名な大勝軒とは別の系統だそうだ。ともかく昔からこの駅前にある人気店だ。
いつも混んでいるから、行くとなると「ようし行くぞ!」と気合を入れてから、息子と連れ立ってよく行った。思えばまだラーメン戦争なんてものがはじまる前のコトだ。
当時、この店で有名だったのは特盛ラーメンだ。玉を4つ使用。大盛でも3玉。普通盛ですでに2玉使われていた。
その特盛を食べているヒトがときおりいた。洗面器じゃないか、と思われるような大きなドンブリに4玉分の麺が載っている。ぜんぶツユにひたりきらず、中央で麺がチョモランマのように盛り上がっていて、ジャンボジェット機がそのあたりを飛んでいるのである(こういうコトを書くと、どうしてそんなところにジャンボ機が飛んでいるのれすか? などと聞いてくる面倒くさいヒトがよくいるのだ。だから、飛んではいません。そんな気がするだけです)。
で、まあ、それを食う。ぼくの息子はバカだからそれを小学生のときに食った。これを食うのは、あとは一橋大学の体育会系の連中ぐらいだった。
この店はそういう珍奇なところだけではなく、麺がたいそううまいのはもちろん、ツユも煮干しダシとジャガイモダシがよく利いていて絶品だった。いつも店は大賑わいで、みんなシアワセそうな顔をして麺をすすっていたもんじゃった(日本昔ばなしのナレーションふうに)。
そんなふうだったから、この町から越したときはおらあ寂しかったもんだ。だからこんなふうにときどき仲間らと食いに来たくなるのだった。
店は昔のところから少し移動して、踏み切り際のところに引っ越していた。以前のところに比べて3分の1ぐらいの広さになってしまったけれど、相変らず満員だった。店の人も当然、昔とは代わっていたのだが、実直そうなひとが額に汗をにじませて、元気よく仕事をしていた。
少し残念だったのは、メニューにもう特盛がなかったことだ。中盛が昔の大盛くらいの役割になっているようだった。それでもここで中盛を頼むと、スモウでいえは関脇ぐらいのカンロクがあるようだった。昭和は遠くなりにけり。
ぼくにももう、とてもかつての実力は無いので、「今日はこの辺で勘弁してやろう」と「引かれ者の小唄」をうなりつつ、普通のラーメンを頼んだ。一緒に行った仲間がどうだったか、みんなそれぞれ実力のおよぶところを注文したようだ。
ぼくのとなりに座っていた若い娘は、この近所にある津田塾大の生徒のようだった。
昭和のころは若い娘の客などめったにみなかったものじゃがのう。たまにそういうそよそよした娘などが客にいようものなら、悪いお代官さまに目を付けられるのではないかと、たいそう気を揉んだもんじゃったがのう(またしても、日本昔ばなしふうに)。
かつては家からこの店までは自転車でくるコトが多かった。そんなときは帰りにこの近くにある肉屋さんでレバー肉の大カタマリを買ってかえることが多かった。
あるときこんなコトがあった。
レバー肉のカタマリを買って本屋さんに寄り、立ち読みなどしていた。そして気が付くと、いつの間にか赤犬が寄って来ていて、わが自転車の荷物入れのあたりをしきりにクンクンやっていた。あれがもし凶暴な犬で、あのまま自転車をひっくり返してしまっていたら、果たしてどうなっていただろうか。危なかった。
帰りは玉川上水の脇の道をまっしぐらにかえる。「今夜はレバステーキ400グラムを、どかっと食うんだからな。息子よ」
今の玉川上水は、もうひと頃の潤沢な流れ清き川ではなくなって、どこか寂しい風景になっている。
この川は底のほうがトックリ形に抉れていて、おまけに土が粘土層なので、落ちると上がれない、と言われていた。もう何人も流されて死んでいると聞いていた。ぼくが住んでいたころ、確か下流にある大学の水泳部の何人かがこの川で「太宰治が心中溺死した」というのを疑い、川に入ったけれど上がれなくなって消防の助けを呼んだ、という事件があった。
あの頃の豊かな流れの川はいまはもうない。
ラーメンを食べおわったぼくたち4人は、みな一様に満足した顔つきをして、玉川上水の流れなどに冷風をもとめつつ、「ダシつゆがおいしかった」「イキオイでどんどん食べてしまいました」「いやあ満足まんぞく」とシアワセそうでありました。
- 怪しい散策隊
-
そこから歩いて10分ぐらいのところにかつてぼくが住んでいた家があった。(妻である一枝さんの)父と母、ふたりの子どもとともに、ぼくが30代半ば頃まで暮らしていたのだ。一戸建ての家で、おもえば静かないい時代を過ごしていたのだ。
その頃はまだサラリーマンだったから、そこから西武国分寺線に乗って国分寺駅まで行き、中央線で荻窪まで出て、地下鉄丸ノ内線に乗り換えていた。妻は赤坂見附の大きな設計事務所に勤めていたのでそこで降りたが、ぼくはさらに地下鉄銀座線に乗り換えて新橋まで、トータル4路線乗り換えて出勤していた。1時間かかった。
だから荻窪のラーメン屋にもくわしくなった。「丸信」という駅前の店によく行った。荻窪にはいい居酒屋もいっぱいあった。
えーと、まだ小平の話だった。
みんなをぼくが暮らしていた若い頃の家庭の気配の残るところにお連れした。
平日の昼どき、東京の郊外は平和な時間である。暖かい日差しの中、シンとして静かな住宅街を、素性の知れぬ男女4人がウロチョロしていく。
ぼくたちはちょうど不動産関係の怪しい一行のようになっているのだろうな、と思った。周辺のそれぞれの家では、主婦やご老人などが穏やかに暮らしているのだろう。ときどきイヌが吠える。外の通りを歩いてくる一行の一番前で、身振り手振りでなにやら指し示しているぼくは、不動産屋のやり手のジジイなんてのに見えているのかもしれない。
多くの家がぼくのいたころと様子が違って見えるのは、たいてい建て替えられているからだろう。ぼくが住んでいたところもすぐわかったが、かつての土地がふたつに分けられ、それぞれ別の2軒の家が建てられているのだった。玄関の前にあった柿の木も庭にあった大きな桜の木も、いまはまったくカゲもカタチもない。
そのむこうに津田塾大学の校舎がみえる。ここに住んでいた頃、津田塾で年間4回、シリーズ講演をやっていた。当時は、そこへいくのに垣根の端っこをくぐりぬけて構内に入ったのだった。表を回って正式のルートを行ったら30分ぐらかかるところを、わずか5分でキリヌケていったのだ。しかし帰りはそうはいかなかったなあ。
- 桜の森の満開の下
-
あの頃、「講演」なんてエラソーに、いったいぼくはどんな話をしたんだったっけなあ。ここに越したばかりの頃、春には裏門があいて近所の人たちが津田塾構内のお花見に行くことができたのだった。津田塾の庭には翁桜の樹が三十本ぐらい生えていて、花見の季節はそれはそれは綺麗だった。結婚したばかりの頃だからなあ。
その頃、ぼくは生まれてはじめて本当の「花吹雪」というのを見た。ヒトのいない広い校庭がほとんど見えなくなるくらいに、花の吹雪が舞っていた。坂口安吾の小説の世界は本物だったのだな、と思った。
でも、この季節の校庭開放という粋なはからいも、その花吹雪を見た年が最後で、次の年から開放してくれることがなくなった。理由は花見酒に酔ったどこかの親父が花の枝を折ったからのようだった。
- キンピカ公園
-
その次に小平中央公園に行った。ぼくがまだ近くに住んでいた頃に、おっそろしく広大な桑畑と雑木林と銀杏の森をつぶして大きな公園をつくった。もの凄く立派な公園だった。
こっちは子育ての最中の出来事だったので、そんなふうに表むきだけキンピカのつまりは巨大な模型のような「市民公園」にするよりは、ちょっと管理する程度で雑木林ぐらいのままに保存してくれたらなあ、と思ったものだった。そのころ息子がドロンコ少年になっていたので、自然のままの世界を残してくれたほうがありがたかったのだ。そのなにもかもキンピカの公園の完成を呆然として眺めつつ、子どもたちには常にホンモノのなかで遊んでもらいたいものだと感じていた。
- 国分寺書店
-
編集者に誘われるまま、旅でもなんでもない、強いていえば「思い出探訪の日」のようなコトになった一日だった。
どうせなら最後までとことん思い出をたぐっていき、そして「懐かしき土地の居酒屋でシメククリ」としたいところだ。
最後に行き着いたところは国分寺駅の周辺だった。北口と南口があり、通勤でつかっていたところが南口。このへんのターミナルになる駅なので、一日中ワサワサと沢山の人々が出入りしている。
西口の駅前広場の一角に、かつてあの「国分寺書店」があった。若い時分の自分には気がつかなかったが、あの書店の経営者(オババ)はものすごい博識家だったのだ。おかしなかたちで有名にしちまったけれど、敬愛の念からつい筆を滑らせてしまったのです……などといったって、いまはもうはるか遠い50年前ぐらいに書いたぼくのアホバカ本のことをいまごろ詫びてなにがどうなる、ということでもないのだろう。
昔はこのあたりも、ターミナルといってもひっそりとしていて、哀愁のようなものを漂わせていた。ところがその日、久々に訪ねてみると、まるで違う国にきてしまった気がするぐらいの変わりようなのだった。特ににタワーマンションというものがドカドカ建っているのがおそろしい。どんな人が住んでいるのだろうか。
店も知らないのばかり。気どった店構えの日本の店じゃないみたいなのがいっぱいあって、どこに入っていいかわからない。編集Sが「芳一」というヤキトリ居酒屋をみつけてくれた。琵琶の音色が聞こえそうな店名だけれど、中は活気のあるホンモノの居酒屋だった。「立ち飲み」がけっこういて、カッコいい。
四人で卓をかこみ、本日の反省会をひらいた。大病を患い、年末年始に入院してからすっかり体力が落ちてしまったのと同時に、気分的にもあちこちやる気を無くしていた日々だったけれど、おかげで沢山の刺激を得て、終わってみれば思いのほか悪くない「失踪の日」だった。そうしてゆっくり濃い酒を飲んだ。
- 5月某日 旅とライオン
-
「斎藤茂太 旅の文学賞」の選考会のために銀座ライオンへ。ここはサラリーマンの頃、よく行った立派なビアホールだ。巨大なホールの装飾は、後に旅をしたドイツとかベルギーなどのビアホールのものとよく似ている。関係者10人ぐらいで個室に集まり、ビール飲みつつ会議。パーティ料理のひとつとして、「ムール貝」をゆでたやつがうやうやしく出てきた。この貝、子供の頃から近所の河口などでよくみかけた、どこにでもいるあの真っ黒な貝に似ている。かしこまって食するような貝には思えない。
3本の候補作の中では『明日も、森のどこかで』という上田大作さんの作品に最も心を動かされた。長年にわたり、北海道の大自然の中で地べたにへばりついて暮らした著者の息吹が伝わってきた。めでたく受賞となり、よかった。
バックナンバー
Ⓒ 撮影/松田嵩範
- 著者プロフィール
-
椎名 誠(しいな まこと)
1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『続々 失踪願望。 病み上がり乾杯編』。
椎名誠 旅する文学館
X:@shiina_tabi











