私の愛する古典の魅力 能になった平家物語 林望

第2回

謀反人の悲哀。風雅な名文。大立ち回り。
各作品の多様な見どころ

更新日:2024/12/18

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『俊寛』にみる孤独感と絶望
 能作品『俊寛』は、ストーリー自体は、本家の『平家物語』にかなり忠実につくられています。俊寛のエピソードは、「足摺」という章に出てきます。
 平家に対して謀反を企てて鬼界が島に流された俊寛、成経、康頼。公家の成経と康頼は、島の中にある熊野大社を模した八十八か所を詣で、早く都に返してほしいと願いながら神妙に毎日過ごしています。一方、俊寛は、僧侶のくせに、まったく信心がありません。二人の熊野詣に加わろうともしない強面ぶりで、いわば「悪僧」ともいうべき人物です。能の『俊寛』においても、前半部でこの場面が描かれます。シテが俊寛、ツレは成経と康頼です。
 そこへ、赦免状を携えた赦免使(ワキ)が船でやってきます。喜ぶ三人ですが、そこに記されていたのは成経と康頼の名のみ。俊寛という文字はありません。「さては筆者の誤りか」と訝り、何度も赦免状を見返す俊寛ですが、結局は一人島に取り残されることになります。
『平家物語』では、この理由が明確に説明されています。そもそも、俊寛が地位を得られたのは平清盛に取り立ててもらったおかげでした。それなのに、反旗を翻したわけです。恩を仇で返す不届きものだと立腹した清盛が、赦免から除いたというわけです。ただし、能では、その説明はありません。当然、みなさん、そのことはご存知ですよねという前提で話が展開します。
 また、『平家』の中では、置いてきぼりにされた俊寛は、赤ん坊が駄々をこねるかのように「自分も連れていけ」とすがります。それが、「足摺」の場面です。ところが、能の俊寛は少し様子が違います。
“力及ばず俊寛は……、(中略)声も惜しまず泣き居たり”と、ただ泣くだけ。そんな俊寛の姿に、船に乗った二人は、都に帰ったらとりなしてやると言いながら遠ざかっていきます。
『平家』で描かれる俊寛は、普段の強面ぶりとは打って変わっての駄々っ子ぶりに、芯の弱さを感じずにはいられませんが、能の俊寛は波打ち際で、ただ呆然と船を見送って涙にくれるばかり。この印象的な幕切れが、能の美しさです。未練を描かず、ただ置き去りにされた孤独感と苦しみを主題とすることで、感動は、より深まるのです。


シテ:二十六世観世宗家 観世清和 写真提供:観世宗家

ドラマチックなサスペンス!『正尊』
 対照的に、風情というよりはドラマ性を重視したものもご紹介しておきましょう。いわば、高倉健主演のやくざ映画のような、ドキドキハラハラのサスペンス。「やるか、やられるか」――刃の上を渡り歩くような、一種の美学を感じさせる能の作品の一つが『正尊』です。
『正尊』は、義経を討とうとして返り討ちにあってしまう“スパイ”の話です。源頼朝にすっかり嫌われてしまった義経は、命をつけ狙われていて、それを武蔵坊弁慶が守っています。あるとき、刺客として放たれた正尊は弁慶からたちまち正体を見抜かれて、義経の前に連れ出されました。即座に「起請文」を読み上げて、その場を逃れようと画策します。

“敬って申す起請文のこと……”


シテ:二十六世観世宗家 観世清和 写真提供:観世宗家

 義経は、それを信じてはいないのですが、機転の働きを敵ながらあっぱれと放免し、ともに酒宴を囲みます。静御前が舞を舞い、正尊がその場を去るまでが前半です。
 そして、後場。正尊一味が夜討ちの準備をする様子などを経て、丁々発止の大立ち回りが繰り広げられます。登場人物も多く、緊迫した場面が続く活劇的な劇能『正尊』は、最後、正尊が弁慶に捕らえられて終わります。
 これもまた、能の一つの形です。
これほど好きな場面は他にない!『忠度都落』の描かれ方
 平家の公達は、ひとりひとりに際立つ個性があります。たとえば、敦盛や清経なら笛の、経政なら琵琶の名手です。芸術家として、また、文化人としての雅やかな姿を現すのが能楽の一つの幽玄味すなわち美学でもあります。
 私が『平家物語』のなかでもっとも好きな場面である「忠度都落」に描かれる忠度は、清盛の弟。立派な武将でありながら優れた和歌詠みでもあります。
 俱利伽羅峠の戦いで大敗を喫した平家は、比叡山からも裏切られて西国への避難を決めます。一度は都を出発したにもかかわらず、わずか7人の家来を連れて、源氏だらけの京都に忠度は戻ります。それは、千載和歌集の撰者である藤原俊成に自らの歌を託すためでした。
 それを託せば、もう思い残すことはありません。

“今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひをくこと候はず。さらばいとま申して”(さあ、これで思いが晴れました。このうえは、西海さいかいの浪の底に沈まば沈め、山野さんやしかばねをさらさばさらせ、もはやこの俗世に思い残すことはござりませぬ。されば、これにておいとまを申しまして)

 まことに潔い。出処進退の潔さが印象的で心に残ります。
 ところが、世阿弥の作による能『忠度』に出てくる忠度は、もっと文人的なイメージです。『千載集』に載った自作の歌が「読み人知らず」とされ自分の名が記されなかったことへの無念により亡霊となって現れ、これまでの経緯を語るという展開で話が進みます。これは、この曲のテーマを戦いの勇ましさ、忠度の豪勇ぶりには置いていないからです。ゆえに、能の忠度の亡霊(後シテ)は、風流な貴公子の姿で現れ、素性不明の武将の亡霊として、忠度について第三者的に語ります。そして、最後になってようやく「今は疑ひよもあらじ」と、自分が忠度であると明かすのです。能の忠度は、歌人としての名を惜しむ人間味あふれる人物として描かれています。


シテ:二十六世観世宗家 観世清和 写真提供:観世宗家

林さんによる平家物語の現代語訳版。自身が手がけた『謹訳 源氏物語』とは文体を変えて、講談のようにすらすらと語ることを意識した講釈体と名付けた文体で訳したそうだ。声にだして読みながら、物語を味わいたい。
『謹訳 平家物語』全四巻 祥伝社

著者プロフィール

林望(はやし のぞむ)

1949年生。作家・国文学者。慶應義塾大学文学部・同大学博士課程満期退学(国文学)。東横学園女子短大助教授、ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。『謹訳源氏物語』で毎日出版文化賞特別賞受賞。若い頃から能楽の実技を学び、能作品の解説を多数執筆。声楽実技も学び、バリトン歌手としても各地で活躍。『謹訳平家物語』『謹訳徒然草』『謹訳世阿弥能楽集』など古典の現代訳にも精力的に取り組む。


取材・文/白鳥美子
写真(林さん)/山下みどり

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