第2回
『葵上』に、葵上本人は登場しない
更新日:2024/07/10
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題名が『葵上』(あおいのうえ)でありながら、葵上は舞台には登場しません。ここに、能の演出の深さがあります。リアリズムや写実性を捨象し、その向こうへ突き抜けた表現です。観客の想像力やイリュージョンを前提としてなり立っています。
舞台正先(しょうさき)に置かれた折り畳まれた小袖を葵上の寝姿だと見立てて物語が展開します。シテは六条御息所の生霊、ワキ(シテの相手。脇役ではなく人間の役で面はつけない)はそれを祈り伏せようとする横川小聖(よかわのこひじり)です。 -
『葵上』前シテ シテ:二十六世観世宗家 観世清和
写真提供:観世宗家 -
源氏物語を簡略化されたアニメなどで知っている人の中には、六条御息所を非常に嫉妬深くて、その嫉妬のあまり、源氏の正妻であった葵上を呪い殺した恐ろしい悪役というふうに思いこんでいる人がいますが、決してそんな女性ではありません。大変落ち着いていて教養があり、人を恨んだりするようなことは一度もない方だと書かれています。そもそも、皇太子妃であった人ですから、もしも皇太子が長らえていれば皇后になっていたほどの方です。それに対して、葵上は左大臣の娘。源氏も天皇家からすれば臣下の一人ですから、その妻であっても位は下です。比べるべくもない身分の差があります。
それなのに、あるとき、賀茂の祭の際の御禊(みそぎ)の行列を見るための場所をめぐり、葵上の車と六条御息所の車の間で争いが起こります。このとき、六条御息所方は破れ、散々な目に遭わされます。と言っても、もちろん、本人同士が争ったわけではありません。牛車を引く従者や下僕どもが勝手に仕掛けただけです。それでも、このときの悔しさが六条御息所をいつまでも苦しめます。理性のある人ですから正気の時には、その思いを押さえていますが、寝ている間の無意識界になると抑えきれずに生霊となって葵上を襲ってしまうのです。そんな自分の醜い姿を、六条御息所は恥じます。何と恥ずかしいことかと、ますます絶望していく。
前段の締めくくりに「その面影もはづかしや、枕に立てる破(や)れ車、打ち乗せ隠れ行こうよ」という文句があります。この解釈は、従来、「この車に憎き葵上を乗せてさらっていこう」とされてきましたが、私はそうは思いません。六条御息所という人物の真の姿に思いを馳せれば、自分の醜さにほとほと嫌気がさして、自己嫌悪のあまり「恥ずかしい自分を車に乗せて隠れて立ち去ろう」という解釈が自然なはずです。それでもやはり収まらぬ怒りが、後場に鬼となって出現するのだと私は考えています。
また、『葵上』では、最後には六条御息所の霊は成仏したように描かれますが、この結末についても、生霊が成仏しては、原作から遠く離れてしまうわけですね。 -
『葵上』後シテ シテ:二十六世観世宗家 観世清和
写真提供:観世宗家
- 愛の葛藤を『野宮(ののみや)』に見る
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光源氏への愛ゆえの嫉妬と自己嫌悪に苦しむ六条御息所は、相手から見捨てられる前に自分から離れる決意をします。娘の姫君が伊勢の斎宮として遣わされることとなり、その前に穢れを落とすべく斎戒沐浴(神に仕えるために心身を清めること)の生活を野宮で始めるのに伴い、都、つまり源氏から距離を置くことにしました。
伊勢神宮の斎宮は、神様にお仕えする巫女の中での最上位です。清らかな処女(おとめ)でなければなりません。日本の神は、西洋の宗教のようなドグマ(教義)を持ちませんが、ただ一つ、穢れを絶対に許しません。穢れを帯びた人が神の領域に踏み込むことをすごく嫌がります。そのため、人が住む里と神が住む山の間の「野」にお宮を立てて、そこで一年以上にわたり潔斎した生活を送ります。
つまり、野宮神社は汚れをはらうための場所であり、清浄なる空間を保つ必要があります。俗人の男たちが入ってきては困るのです。それなのに、ある時、娘と共に野宮に籠る六条御息所を源氏が訪れます。この描写は先行文芸である伊勢物語からヒントを得ています。 -
『野宮』シテ:二十六世観世宗家 観世清和
写真提供:観世宗家 -
野宮に源氏を入れるのは、タブーです。六条御息所は本来追い返すべきなのですが、どうしても追い返すことが出来ません。過去に身体の関係も結んでいた仲であり、今も、その愛が忘れられない懐かしい相手から「もう二度と会えないかもしれないから会いにきた」と言われて追い返すことのできる人がいるでしょうか。もう終わったことだ、と割り切れるものではありません。きっと、死ぬまで割り切れないのではないでしょうか。
現代においても、心から愛した人がいたとしたら、たとえ別れた後でも忘れることはできないはずです。「別れた人のことなんて、もう忘れたわ」という人がいるとしたら、それは、本当に誰かを愛したことがないからだと私は思います。
六条御息所は、本当に源氏を愛していた。けれども、自分は皇太子妃であった人間で7つも歳が上。源氏には葵上という正妻がいる。許されるわけのない二人なのに、それゆえに、あたかもロミオとジュリエットのように、燃え上がった時期がありました。だけど、いったん口説き落としてしまうと、それが男の性なのか、やがて源氏の情熱は薄れていきました。それでも、もう二度と会えないとなると、一目会いたくて野宮まで追いかけて来る。矛盾に満ちた行動ですが、それこそが生きている人間の生々しい在り様です。
きっぱりと追い返せない御息所に付け込んで、源氏は、じりじりと距離を詰めて、ついには上がり込んで朝まで過ごしていきました。それを受け入れてしまった御息所は、深く懊悩します。「こんなことをして、果たして浮かばれるであろうか。いや、浮かばれないかもしれない…」と、小道具である鳥居の作り物から足を出したり入れたりする「型」によって迷いを表し、野宮はもやもやとした余韻を残して終わります。まことに、深い。おそらく当時の女性たちは、男たちに翻弄されながら、一生を割り切れない心の中に生きていたのでしょう。いや、もしかすると、それは今も変わらないのかもしれない。
『野宮』を通じて心得たいのは、六条御息所は嫉妬深く恐ろしいひとではなく、本物の愛を知り愛に苦しむあなた自身だということです。
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- 著者プロフィール
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林望(はやし のぞむ)
1949年生。作家・国文学者。慶應義塾大学文学部・同大学博士課程満期退学(国文学)。東横学園女子短大助教授、ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。『謹訳源氏物語』で毎日出版文化賞特別賞受賞。若い頃から能楽の実技を学び、能作品の解説を多数執筆。声楽実技も学び、バリトン歌手としても各地で活躍。『謹訳平家物語』『謹訳徒然草』など古典の現代訳にも精力的に取り組む。
取材・文/白鳥美子
撮影(林さん)/山下みどり