私の愛する古典の魅力 能になった源氏物語 林望

第1回

能が描く「魂」の世界

更新日:2024/06/26

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大河ドラマ(NHK)『光る君へ』で紫式部が主人公として描かれていることもあり、改めて『源氏物語』への関心が高まっている。千年以上前に完成した日本最古の長編小説は、これまでに多くの文学者により現代語訳され、また、漫画やオペラ、歌舞伎などを通じて、時代や世代を超えて日本人の心を揺さぶってきたが、そういった派生作品の先駆けが能楽だ。鎌倉・室町時代の能楽の作者たちは、源氏物語のどういった部分に惹かれて、どのような演出を施したのだろうか。今回は、大学時代以来50数年『源氏物語』に親しみ、かつ、観世流能楽を学んできた林望さんに、現在でも上演されている源氏物語関連作品の楽しみ方とともに、その魅力を聞いた。

 能は、一種の翻訳である――。
 そんなふうに私が考えるのは、能の筋書きには、いわゆるフィクション、つまり根も葉もないところから考えたオリジナル作品は、ないではないが少なく、多くが、神話・伝説や、平安時代から鎌倉時代にかけての物語などを素材にしているからです。それら先行文芸のなかで最も多く取り上げられたのは平家物語ですが、これは平家物語が「読み物」ではなく琵琶法師によって歌い語られる「語り物」、つまり芸能であったことが理由でしょう。今回のテーマである源氏物語からは、それほど数は多くありませんが、今なお上演されることの多い能の作品が生まれています。
 能という芸能が大きく発展したのは観阿弥・世阿弥父子が現れた南北朝・室町時代ですが、当時の一般庶民には、書物を通じて先行文芸に触れる機会はありません。そもそも、本が手に入らない。能のような演劇的な表現があってこそ、様々な古典文学を楽しむことが出来たのです。現代では、難しそうだと敬遠されることも多い能ですが、当時は娯楽の一つとして人気を集めていました。
 能が描くのは、ほとんどが、今の言葉で言うならスピリチュアルな世界です。亡き人の亡霊、あるいは天人や神という、何かこの世ならぬもの、現実から離れた魂の世界が能舞台という「この世」ではない場所に現れます。亡霊も神も、昔の人たちにとっては紛れもない現実、リアルな存在でした。だからこそ、「たたられる」ことを非常に怖れ、亡霊を慰め神を讚える鎮魂芸能としての意味合いを持つ能に心を寄せたのでしょう。
源氏物語は、一つの奇跡である
 魂を描くのが能なのだとしたら、たとえば平家物語を題材に、戦で死んだ武将の魂が能舞台に現れるのは理解しやすいですね。亡霊となった彼らはシテ(主役)としてこの世での無念を語り、現実の人間であるワキがそれと対峙し、祈りを捧げて成仏させる。平家の盛衰は実際に在った歴史上の事実であり、登場するのも実在の人物ですから、その鎮魂のための芸能は非常に説得力がったことでしょう。
 しかし、源氏物語はフィクションです。すべてが空想の産物で、現実の存在ではありません。それなのに、たとえば登場人物の一人、六条御息所の魂が能で描かれていることに誰も違和感を持たないのは、ひとえに作者紫式部の巧みな構想と表現の力ゆえでしょう。源氏物語の登場人物たちは、皆、大変リアルな存在としてキャラクターが立ち上がってきます。一人ひとりが皆、それぞれの違いを持っている。いかにもこういう人がいるな、ああ、こういう人を知っている…と思わせてくれます。江戸時代の国学者、本居宣長も「まったく生きている人にあいみるようだ」と称えています。
 リアルな人間というものは、善悪型通りではなく、矛盾を含んだ存在です。ごく普通に生きている善良な人が、ある時、誰かを手ひどく裏切ることもある。ひどい悪人でも、我が子には細やかな愛情を注ぐ。平穏に過ごしてきた人が、道ならぬ恋に苦しみもだえる日があるかもしれない。そういう矛盾をありのままに描き、嘘のない人物像を見事に作り上げたのが源氏物語の素晴らしさであり、1000年前に日本でこのような小説が書かれたのは、まさに奇跡です。
能になった源氏物語
 源氏物語に関連した能の作品には、六条御息所が現れる『葵上(あおいのうえ)』『野宮(ののみや)』、夕顔の帖を題材とした『夕顔』『半蔀(はじとみ)』、夕顔の忘れ形見である玉鬘の霊が現れる『玉鬘(たまかずら)』、宇治十帖から『浮舟(うきふね)』、光源氏の生涯と死後の栄光が語られる『須磨源氏(すまげんじ)』、そして作者である紫式部の供養のために作られた『源氏供養(げんじくよう)』などがあります。


『浮舟』 シテ:二十六世観世宗家 観世清和
写真提供:観世宗家

 次回以降、この中の作品をいくつか取り上げて、私なりの解釈で語ってみたいと思いますが、まずは前提として知っておいていただきたいことがあります。それは、日本人の、体と魂についての認識、死生観です。
 私が学んだ慶應義塾大学は、民俗学で大変偉大な業績を残した折口信夫先生が教導された“折口学”の伝統が連綿と続いています。私自身は書誌学が専門なので、“折口学”の弟子筋ではありませんが、考え方についてはその洗礼を受けました。
 例えば、人間は体を持っているが、生まれたときにはそこには魂は入っていない。体とは「カラダ=殻(から)」であり、単なる入れ物(ケース)に過ぎない。たとえば、お宮参りは、現代では、産後一カ月後くらいを目安に行われる行事ですが、かつては五十日(いか)の祝いと呼ばれ、魂(たま)を入れてもらえるように神様にお願いをするという意味合いを持っていました。魂が入って、はじめて人間になるわけです。
 そして、死んだときには、体から魂が出ていきます。体から出た魂は、しばらくは辺りを漂っている。お通夜で一晩中、亡き人のことを語り合うのは浮遊している魂に想いを込めた言葉を聞かせるためです。「こんなにみんなが懐かしがってくれるなら、帰ろうか」と、魂が再び体に戻ってくるかもしれないという願いが、そこにはあります。しかし、それでも蘇ってくれない。もう帰ってきてはくれない。そうなってようやく告別式が行われます。
 魂は肉体とは別に存在している。だから、肉体が滅びても、魂は呼べば応えてくれる。そう信じられているからこそ、鎮魂の芸能である能は人々に愛されてきたのです。
闇の中に魂の存在を感じる『夕顔』
 能の舞台は、「この世」ではありません。現代の能舞台は、能楽堂という建物の中にあり天井に覆われていますが、もとは、舞台のうえには空が広がっていました。そして、舞台の周囲にある玉砂利の空間は水を表していて、その「水」が、「この世」と「あの世」を隔てている。そのような超常的空間に、この世のものでない魂が現れて、思いの丈を語ります。
 源氏物語で描かれた女性のなかで、大変人気のある女性の一人が夕顔ですが、能の『夕顔』では、何者かの生霊らしきものにとり殺された夕顔の亡霊が悲しく迷い出る様が表現されています。夕顔が亡くなった「何某の院」は「河原院」の旧地がモデルで、源融(みなもとのとおる)の幽霊が棲むと噂されていた場所です。そして、夜も半ばになり、風の渡る音とともに灯が消えて、舞台は真の闇に包まれると謡う文言に、見る人は魂の存在を感じずにはいられないでしょう。いかにも恐ろし気な荒れ果てた地に現れる夕顔の亡霊が光源氏との思い出を詠じながら舞を舞います。
 写実的な演劇ではなく、独自の演出で魂の世界を創り出す能が、どのように源氏物語を作品化しているか、次回以降で詳しくご紹介します。

著者プロフィール

林望(はやし のぞむ)

1949年生。作家・国文学者。慶應義塾大学文学部・同大学博士課程満期退学(国文学)。東横学園女子短大助教授、ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。『謹訳源氏物語』で毎日出版文化賞特別賞受賞。若い頃から能楽の実技を学び、能作品の解説を多数執筆。声楽実技も学び、バリトン歌手としても各地で活躍。『謹訳平家物語』『謹訳徒然草』など古典の現代訳にも精力的に取り組む。

取材・文/白鳥美子
撮影(林さん)/山下みどり

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