知と創意のエンタテイメント 集英社 学芸編集部

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Nonfiction

読み物

読むダイエット 高橋源一郎

第7回 肉か、野菜か、それが問題だ……

更新日:2020/12/23

鎌倉ベジタリアンマップ

 お久しぶりです。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。実は、わたし、しばらくの間、病の床に臥せっておりまして……ウソです。少しお休みをもらうつもりが、気がついたら、前回、この連載を書いてから、4カ月以上たっていました。記憶喪失……したわけではなく、なぜでしょう。わかりません。たぶん、コロナのせいです……。
 コロナといえば、わが町・鎌倉に、戻ってきたのだ。観光客のみなさんが、である。以前と変わったのは、外国人観光客が減ったことと、みんなマスクをつけていることだけ。「小町通り」は、元の「竹下通り」なみの混雑で、真っ直ぐ歩けない。食べもの屋も、少し前の「テイクアウト」でなんとかしのぐ状態は、ついに脱したようだ。
 けれども、コロナはまだ続いているのである。いったい、ニッポンはどうなるのだろうか……。

 ところで、最近のわたしの健康事情をお伝えしておきたい。なにしろ、これは、ダイエットに関する連載なのだから。
 体重は、一貫して、63キロと64・5キロの間を往還している。64・5を超えても、一日二食のうち、一食をリンゴだけにするとか、穀類をその日だけ完全に抜くだけで、すぐに63キロ台に戻ってしまう。ダイエットに関していうなら、わたしは、ほぼ「卒業」している。いまや、「次のステージ」に移行中なのである。
では、「次のステージ」とはなんだろうか。それは、「健康な身体」の生成ということになる。いくらダイエットに成功しても不健康では、意味がないからだ。
 とはいえ、外食だってしますよ。ただし、決まったお店である。というわけで、わたしがお世話になっている、鎌倉の名店を紹介したい。もちろん、どの店からもお金はもらっておりません。ちゃんと行っています。

 まず、「香菜軒 寓」。ここは鎌倉駅から歩いて10分ほど。材木座の住宅街の真ん中にあるので、なかなか見つかりにくい。そして、席が三つしかないのである(!)。しかも、全部、トタン屋根の別々の棟になっている。でも、一つの棟が一坪もなかったりするのだ。はっきりいって、子どもが遊びで作る「ヒミツの小部屋」である(実際に、オーナーの手作りの「お家」だけど)。この完全ベジタリアンのお店で、わたしは、もっぱら「野菜全部定食」をいただく。カレーも美味しい。ご飯は玄米+雑穀。
 仕事場から5分歩くと、「ソラフネ」がある。水・木は休みで、11時開店。古民家カフェだ。日替わり定食で、こちらも完全ベジタリアン。メインは、「大豆タンパクのから揚げ定食」である。客の大半は、女性でかつ観光客。昼飯を食べに通っているのは、わたしだけかもしれない。ご飯は玄米。
 駅の近く、小町通りに面して、「なると屋+典座(てんぞ)」がある。この店名すごくないですか。「+」の意味がわからないんだが。「サイモン&ガーファンクル」的な、なにか? ここでは月替わり定食をいただく。11時30分開店だが、開店した瞬間に、ほぼ満席になる。わたしは、45分頃に行くことが多い。一席ぐらいは空いているし、最初に入ったお客さんたちの食事が配られる頃で、1回目の分の料理を作り終わり、さあ次という時間なのである。だから、実は、ほとんど待たなくていいからだ。いうまでもなく、ここも完全ベジタリアン。
「麻心」と書いて「まごころ」と読む。由比ヶ浜の海岸沿い、3階建てのビルの2階にある。目の前が海、なので、散歩がてら出かける。ここもベジタリアンだが、店の名前にあるように「麻」がご飯に炊き込んであったりする。というか、おかずにも「麻」「麻」「麻」だ。大丈夫、危ない「麻」はありません。
 いまあげた店は、だいたい、いつでも行くことができる。わたしがよく行く店の中には、やっているのかどうか、行ってみないとわからない店がある。じゃあ、電話をかけて確かめろよ、というあなた。都会生活に毒されてます。食べるものがベジタブルなら、考え方もデジタルではなく「ベジタル」にしましょう。
 まず、大町四つ角というか、「ソラフネ」のすぐ近くにある「オイチイチ」。注意しないと、通り過ぎてしまうくらい地味な店で、出ている看板は「SOZAI」(=惣菜、の意味)である。夜は居酒屋、昼だけ、定食(日替わり)がある。何が出てくるかわからない。ここもベジタリアン。調理してくれる、オーナーの奥さまは、いつもキッチンの方にいらっしゃるので、外から見ると、やっているのかどうかわからない。外から覗いていると、中で、奥さまが、手で○を作ってくれる。やっている、というマークである。終わりの時間も決まっていない。なんとなく始まって、なんとなく終わる。
 もっとレアな店がある。「酵素玄米ごはん専門CAFE」の「コスモキッチン」だ。ここは由比ヶ浜通りに面した2階にある。以前は、週末だけやっていたのだが、コロナ禍以来、シャッターが下りてしまった。ここはベジではなく、酵素玄米専門店なので、肉もオーケイ。というか、酵素尽くしの店なのだ。この前、偶然通りかかったとき、なぜかピンと来て、2階に上がったら、やっていたのである。話を聞いたら「なんとなく、気分で開けてみた」とのことで、気が向いたら、また週末ぐらいにはやるかもしれない(やらないかもしれない)、とのことだった。行って、開いている確率は、わたしの競馬予想が当たる確率に近い。いい感じだと思いませんか?
 週末だけといえば、「エリぱんの旅するバインミー」だ。美味しい店は、名前も気合が入っている。この店は、御成通り商店街のはずれにひっそりと存在している。店の入口が1メートルぐらいしかないので、注意しないと、みんな通りすぎてしまう。ここの名物は、店名にもある「バインミー(ベトナムのサンドイッチ)」である。チキンもポークもいけるが、やはり、おすすめは「ベジ」だ。パン+野菜+豆腐、気分は仏教徒である。この店も、コロナに翻弄され、必ず開いているのは(というか、バインミーを売っているのは)、土日だけだった(と書いて、その後行ってみたら木金もやるようになっていた)。
 それから……すいません。調子に乗ってしまった。ダイエットの連載だったはずなのに、これでは、「日本美味しいもの巡り、鎌倉篇」になってしまう。しかし、それも無理はない。ダイエットと健康を目指し、日々を過ごしているうちに、いつの間にか、わたしは「ベジタリアン」っぽくなってしまったのだ。

 三食から「ほぼ二食」に移行してからは、どうやら、胃が小さくなったらしく、食べる量そのものが減ってきた。脂っこいものも、なんだか食べたくなくなってきている。ステーキ屋の前を通っても、食指が動かない。その代わり「完全ベジタリアンレストラン」なんて看板を見つけると入りたくなる。そればかりか、ケーキやラーメンにも関心がなくなる。まあ、相変わらず、チョコレートは食べているが(いうまでもなく、カカオ72%の商品である。いま凝っているのは、オレンジピール・チョコである)、煎餅も胃にもたれるような気がしてきた。
 どうやら、食生活全般が変化してきたようなのである。その結果だろうか、劇的な変化がいま起こりつつある。なんと、睡眠時間が増えてきたのである! これには心底驚いた。
 わたしは長い間、というか、生まれてからずっと「短時間睡眠者=ショート・スリーパー」だと思いこんできた。時々、長時間睡眠をとるものの、いつも徹夜で(学生時代は)一夜漬け、(作家になってからは)一夜書き……いや、手を抜いているわけではありません! ぎりぎりになって、睡眠を削り、せいぜい2時間の睡眠で原稿を書き、倒れるように眠る。そうでなければ、仕事ができないものだ、と思ってきた。そもそも、2時間、せいぜい3時間も寝ると、目が覚めてしまう。寝るとしてもいったん起きて、しばらくたって寝るしかなかったのである。
 ところが、ひと月ほど前。連続6時間眠ってしまったのである! いったい何年ぶり? 驚天動地の出来事に驚いていると、その3日後には、7時間連続睡眠。そして、みなさん、聞いてください。一昨日には、8時間連続睡眠という快挙を打ち立てたのだ。なんだか、怖いです。もしかしたら、今度寝たら、二度と、目が覚めないのではないでしょうか。わからないけど。
 もちろん、一日、8千歩から1万歩の散歩と「年齢+1」回のスクワットも継続中である。もはや、ダイエットを超え、体質改善も超えて、人類の次の段階に達しつつあるのかもしれない。アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」だ。まあ、人生の終わりも近いのだが。
 この劇的な変化は、やはり、ベジタリアン的な食事に移行しつつあるからなのかもしれない。だが、なぜ、ベジなのか。ほんとうに、ベジ=野菜を食べることは、人間の健康に有益なのか。それは、わたしがかねがね疑問に思っていたことだった。
 みなさんも、ベジ=健康、肉食=不健康、となんとなく思ってはいませんか。もし、それが事実なら、立ち食いステーキ屋も、ハンバーガーショップも、公害やイスラム国なみに糾弾されるべきではないのか。
 健康でありたいと思う人間なら、誰もが関心を抱くこの問題について、今回は考えてみたい、と思っている。
 だが、ベジの言い分だけを聞くわけにはいかない。反ベジ派というか、野菜の反対側にいらっしゃる肉派の言い分も聞くべきではないか。もちろん、ツイッターで、証拠も一切出さずに、「おれは勝った。負けたのは、陰謀」といっているどこかの国の大統領のような本は除き、であるが。

戦いの日々

 今回、わたしは、ベジ派、反ベジ派を代表する本を探し、読んでみることにした。感想は……まあ、後にすることにして、その前に、読んだ本のタイトルを並べてみよう。

『わたしが肉食をやめた理由』(ジョン・ティルストン 日本教文社)

『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(マルタ・ザラスカ インターシフト)

『完全菜食があなたと地球を救う ヴィーガン』(垣本充・大谷ゆみこ KKロングセラーズ)

『肉食の哲学』(ドミニク・レステル 左右社)

『長生きしたけりゃ肉は食べるな』(若杉友子 幻冬舎)

『50歳からは肉を食べ始めなさい』(藤田紘一郎 フォレスト出版)

『もう肉も卵も牛乳もいらない!』(エリック・マーカス 早川書房)

『ビーガンという生き方』(マーク・ホーソーン 緑風出版)

『肉食という性の政治学 フェミニズム-ベジタリアニズム批評』(キャロル・J・アダムズ 新宿書房)

『動物の解放』(ピーター・シンガー 人文書院)

 どうだろうか。出るのは、苦笑だろうか、それとも、ため息だろうか。はたまた、悲しみの涙なのか。世界は、ベジ派と反ベジ派(というか肉食派)に分かれて、和解不能な戦いが進行中なのかもしれない。わたしのように、「いまは基本野菜だけど、肉を食べたいときには肉を食べるし、お菓子もお酒もオッケー」などというような、中間派、いや、日和見主義者は、どちらからも唾棄されるのかもしれない。
 しかし、不思議なのは、出版関係では優勢に見える「ベジ(もくしはヴィーガン)派」が、現実には、それほど圧倒的な力を持っているわけではないように見えることだ。
 牛丼チェーンやハンバーガーチェーンはよく見かけるが、なかなか、「ベジ派」のチェーン店は見かけないのである。
 いや、それだけではない。この「ベジ派」と「反ベジ派」の抗争は、もはや、「食べる」というようなところでは収まらないのではないか。「生き方」や「真理」を巡る、一種の「宗教戦争」あるいは「思想戦争」の色合いも濃いように見えるのである。たかが食事、されど食事なのだ。

わたしは「これ」で肉食をやめました

 では、肉食をやめてベジタリアンになった方の体験談を聞いてみよう。『わたしが肉食をやめた理由』(小川昭子訳、日本教文社)のジョン・ティルストンさんである。

「一〇年前、妻がベジタリアンになると宣言した。家族に強制はしないというが、料理はもっぱら妻が作っていたから、わたしたちにいくらか影響がおよぶのは避けられない。
 しかし、わたしや子供たちはあまり気にはしなかった。もっとも、当時一〇歳だった末っ子のジャレドは、それよりずっと以前から食事のときに料理の原材料について知りたがり、『ねえママ、これは牛さんのどこのお肉?』といった質問を繰り返していた。答を聞いても彼の気は休まらず、ジャレドは自然にベジタリアンになってしまっていた」

 わたしの知る限り、この短い文章の中に、人がベジタリアンになる、典型的なきっかけが二つ書かれている。一つは、(食事を作ってくれる)妻が先にベジタリアンになるから。もう一つは、「これは牛さんのどこのお肉?」問題である。
 一つめの「妻が先」問題は、そもそも、妻にのみ食事を作らせてしまう家庭が多い上に、妻がベジタリアンになったら、まあそれでいいかもと従ってしまう、夫の(食事に関する)主体性のなさを浮きぼりにするだろう。そして夫婦とは何か、家事とは何か、という深刻な問題に行き着くので、今回はパスである。
 二つめの「牛さんのどこのお肉?」問題も、きわめて深刻だ。わたしの知人は、幼い頃、ニワトリ(名前を「××ちゃん」とつけて可愛がっていた)を飼っていたが、クリスマスにニワトリの丸焼きがでてきたので、「これは?」とお母さんに訊いたら、「××ちゃんよ」といわれたのが、生涯最大のショックだったと述懐している。
 ちなみに、以前も書いたかもしれないが、長男と次男の通っている学校では、育てたブタさんの肉でソーセージを作ったが、ふたりとも平気で食べ「美味しかった」といっている。もちろん、ふたりは、「ベジ派」でも「反ベジ派」でもない。

 さて、ジョン・ティルストンさんの本を読んでいると、だんだん憂鬱な気分になってくる。

ジョン・ティルストン『わたしが肉食をやめた理由』 小川昭子(訳) 日本教文社

「肉を食べることについての懸念は、大きく分けて三つある。ほとんどの人は動物の苦しみを心配する。どのように飼育され、どのように殺されるかといったことだ。菜食は健康にいいと売り込む人たちもいる。そしてここ一〇年ほどの間に、世界の六〇億人が肉を食べると環境にどんな影響がおよぶのか心配する人々が登場した。わたしは最初、この環境問題にいちばん興味を持った」
 では、環境問題と「ベジ」の関係とは?
「食肉用に飼育される家畜は世界の穀物生産の約三分の一を消費するが、アメリカではこれが約七〇パーセントまで上昇している」……。
 要するに、世界で生産される穀物の三分の一を家畜が食べているために、その一方で、穀物そのものを食べられない人々が増えているのである。
「それなら魚に切り替えればいいではないか」
……いや、だが……。
「世界の漁獲量がピークに達したのは一九八八年で、その後は一年ごとに平均三〇万トン程度ずつ減少していると言われている。
 一九八八年(または一九九六年)までの着実で目覚ましい漁獲量の増加は、高い代償をともなっていた。われわれは主な魚種の資源を涸渇させたのだ」

 とまあ、こんな具合である。このような地球環境の激変と食料資源の枯渇を防ぐためには、畜産を廃止して、穀類の生産に全力を集中しなければならない、というのは、すべての「ベジ派」の共通意見といっていいだろう。とはいえ、ティルストンさんは、「一切肉を食うな」という原理主義的ベジタリアン(すなわち「ヴィーガン」である)ではない。

「今日、肉をたくさん食べるのがよいと言う栄養士や研究者はいないが、肉や魚をほんの少し食生活に取り込むことは支持されている。ハーヴァード大学公衆衛生学部による研究では、たっぷりの野菜や果物にほんの少し肉を加えた食生活がいちばん健康的であることが判明した。(中略)
 調査の対象となったのは、肉も魚も卵も乳製品も食べないビーガン、肉や魚は食べないが卵と乳製品は食べるベジタリアン、そしてときどき肉を食べる人だった。
 三つのグループを合わせると、同時期の同じ年齢帯の一般人の死亡一〇〇人に対して平均五九人が死亡した。しかし、肉をまったく食べないのがいちばん健康的な食生活ではないことを、研究者は発見した。ビーガンの死亡一〇〇に対してベジタリアンは六六、ときどき肉を食べる人は六〇だったのだ」

 というわけで、ティルストンさんは、「ときどき肉を食べる」ベジタリアンになっていく。いや、それなら、わたしとだって話が合いそうだし、このコラムを読んでいるみなさんとだって、意見が合うかもしれない。けれども、この柔軟性のあるベジタリアンの道は、ティルストンさんにとって、不幸な結果を招いたのである。えっ、ガンになった? 糖尿病? 心筋梗塞?

「ところで、二年ほど前、まったく思いがけず、わたしはこの空想(高橋注、妻がいなかったら、食事が貧しいものになっていただろうという空想である)を試されることになった。シーラが去っていったのだ。インターネットを通じて好きになった男性をベジタリアンにするためということだったが、ほかの理由も挙げていた覚えがある」

 さすがに、わたしも、この箇所を読んだ瞬間、「マジかよ!」と叫んだ。ダイエットの本を読んでいて、叫ぶことがあるとは思いもよらなかったのだ。どうも、奥さまは、夫の想像を超えて成長していったのである。もしかしたら、この精神の成長こそ「ベジタリアン」であることの意味なのかもしれない。「ときどき肉を食べる」などという、中途半端な夫を捨て、共に戦う同志を求めて、シーラさんは旅立ったのだ。すごいねベジタリアン、そんな力があるなんて。ただ食べて健康であればいいと思っているわたしたちとは違うのである。
 実は、この本が、わたしが読んだ最初の「ベジタブルな」本であった。というか、「ベジタブルな」本としては初級にすぎない。こんな態度がふらついたベジタリアンの本は、実は少ない。シーラさんが呆れて、出てゆくわけである。
 では、どんな本が、あるのか。

肉よ、去れ!

 さあ、みなさん。ここからは心して読んでいただきたい。子どもたちはもう寝ているだろうか。起きて、いきなり、わたしが引用している文章を読んでショックを受けるようなことがあってはいけません。

『もう肉も卵も牛乳もいらない!』(エリック・マーカス著・酒井泰介訳、早川書房)はサブタイトルに「完全菜食主義『ヴィーガニズム』のすすめ」とつけてある。
 なんというか、ベジタリアンという党派の中の原理主義派、あるいは、ウルトラ左派と考えると、わかりやすいかもしれない。「もう肉も卵も牛乳もいらない!」とタイトルから気合が入っている。

「目覚めの時がやってきた」

 これが冒頭の一文である。とても、ダイエットの本とは思えない文章だ。覚悟して読まないと怒られそう。最初のパートは、肉食が如何に危険であるかについての熱弁である。

「『アメリカ人の半数が心臓病になるのも、まったく不思議はありません』研究者で臨床家でもあるディーン・オーニッシュ博士は言う。『典型的な米国式食事で、危険にさらされない人はいないのです』
 豊かさの象徴だった食事の正体は人殺しだった。脂肪たっぷりの動物性食品は、心臓病による死の最大の原因である」
「米国人のほぼ二人に一人は心臓病で命を落とす。(中略)
 しかし、動物性食品を最小限しか含まない低脂肪な食事が通常の国では、心臓病はずっと少ない。低脂肪の植物性食品中心の食事は、血中コレステロール濃度を低く保つのである」
「(前略)心臓病研究の権威ウィリアム・ロバーツは、心臓病の最大のリスク要因は、生涯にわたって血中コレステロール値が一五〇を超え続けること、としている(コレステロールはデシリットル当たりのミリグラム数で測られる。心臓病のハイリスク・グループの人々のコレステロール値は三〇〇を超えることがある。米国のヴィーガンの平均コレステロール値は、一二八である)」

 ふう……。どうしよう、今日、ゆで卵を二つも食べてしまった……あと、コンビニで買ったサラダチキンも……。そういうわけで、マーカスさんは、数値も適当なティルストンさんとは異なり、数値! 数値! 数値主義である。
 問題となるのは、心臓病だけではない。続いては、ガンが登場する。

エリック・マーカス『もう肉も卵も牛乳もいらない! 完全菜食主義「ヴィーガニズム」のすすめ』 酒井泰介(訳) 早川書房

「果物、野菜、穀物、そして豆類による低脂肪な食事がさまざまなガンを防げるという科学的な証拠は枚挙にいとまがない。専門家らは今や、ヴェジタリアン食、特にヴィーガン食に切り換えることで、アメリカ人はガンの危険を半減できると言う」
「すべてのガンの中で、結腸ガンは食品選択への関わりがもっとも深い。米国のキリスト教の一派である安息日再臨派は、国民平均よりも四〇%も結腸ガンが少ない。安息日再臨派の約半分は肉を食べないので、研究者は彼らの間で結腸ガンが少ない主因は食事かもしれないと考えている」
「(前略)乳ガンに関わる四つの食品カテゴリーが洗い出された。肉、赤身肉、飽和脂肪、そして総脂肪である。なかでも赤身肉の関連がもっとも深かった」
「果物の摂取と前立腺ガンのリスクの間にはつながりが見いだせなかったが、野菜の影響は大きかった。野菜を日に少なくとも三盛り食べる人は、日に一盛りも食べない人に較べて、前立腺ガンのリスクが四八%も低かったのである」
「肉を常食する人々は、発ガン率が高い。《ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル》に発表された成人六〇〇〇人を対象としたある大がかりな調査では、肉を食べる人はヴェジタリアンの二倍もガンで死ぬ確率が高いとされている。食事以外のライフスタイル要因を調整しても、やはりヴェジタリアンがガンで死ぬ率は肉を食べる人よりも四〇%も低い」
「一九九六年後半に発表された米国ガン研究学会の栄養ガイドラインは、次のように始まっている。『子供のころから老年に至るまでのどの時期であれ、健康的な食事と運動を取り入れることは健康を増進し、ガンのリスクを減らす』。(中略)推奨されているのは『肉類、特に脂肪分の多いそれの消費を控えること』である。さらに、(中略)『豆類、穀物、野菜の割合を増やせば、食事を動物性中心から植物性中心にできる』」
「(前略)このガイドラインの草稿を書いた公衆衛生修士でもあるマリオン・ネッスル博士(中略)の答えは、『ヴェジタリアンとヴィーガンのガンのリスクは、それ以外の人々に較べて三分の一から半分』というものだった」

 そうなんだろうと思う。たぶん、この人たちのいっていることは正しいのだろう。でも、なんというか、糾弾されているような、なにかの説明会だと思って入ってみたら、食器の販売をやっていて、買うまでなかなか帰してもらえないときのような気がするのは、もちろん、わたしに後ろめたいところがあるからだ。たぶん、これほど詳しい数値ではないが、その多くは、どこかで聞いて、でもまあいいか、と思っていたことばかりなのかもしれない。でも、なんか、つらい。いや、ここでつらいといっているようでは、この先を読むことはできないのである。
 なぜなら、この本の、というか、ヴィーガンな(「ベジタブルな」の最上級と考えていただきたい)本にとって、もっとも重要なパート、「家畜たちの真実」が控えているからである。

 まず、ニワトリさん。

「現代的な養鶏施設では、一〇万羽もの鶏を詰め込んだ鶏舎を、一人か二人の係員で管理する場合さえある。係員の仕事は自動給餌装置と採卵装置が滞りなく働くかどうかを監視し、死んだ鶏を檻から取り除くことだ」
「では、二億羽の雄のひよこはどうなるのか? 卵の殻を突き破って出てきて、外の世界のまぶしさに黄色い声を上げながら瞬きをしている間に、捨てられるか挽肉にされるのである。
 この性別鑑定は孵化場で行なわれる。(中略)雄は全部捨てられる」
「より手軽で広く用いられている手法は、ひよこをプラスチックのゴミバケツに投げ込んでいくやり方で、ひよこはのしかかる他のひよこの重さで徐々に潰れて死んでいく」
「処分されたひよこのもっとも一般的な用途は肥料にすることで、このためにはミンチにする必要がある。しかし孵化場によっては、雄のひよこの身体を利用する前に、殺す手間さえ取らない。ひよこを雄と鑑定すると、生きたままグラインダーに投げ込む孵化場もある」
「今日、レイヤー雌鶏の九八%は生涯の大半においてケージに入れられており、業界の専門家はこれからこの比率はさらに高まると予測している。レイヤー雌鶏はふつう五羽ごとにケージに入れられ、ケージ一つの床面積はタイプ用紙(A4用紙に近い)二枚分もない」
「(前略)卵を産み始めて最初の二年のうちに、採卵効率は落ち、たいていの雌鶏は『使用済み』と見なされる。その雌鶏たちはまだ幾らかの卵を産むが、ケージを空けて新しい鶏たちにすっかり入れ替えた方が安上がりなのである。鶏舎の鶏たちはひとまとめに食肉処理場に送られる」
「『使用済み』の雌鶏の肉は人間の食べ物としてはほとんど用無しなので、しばしば動物用の餌に加工される。ある会社では、『ジェット・プロ・システム』なるものを売り込んでいる。このシステムでは解体場さえ必要ない。鶏舎に出張し、その場で『使用済み』の鶏たちを他の鶏の餌に挽いてしまうのである」

 次は豚さんなんですが……すいません。ちょっと、一杯呑んでいいですか……だんだん書くのがつらくなってきちゃって……じゃあ、書くなよ、ってことなんだけど、そうもいかないし……たまには呑みながら書いてもいいですよね……ツマミはトリの燻製……なわけがありません……もちろん、ミックスナッツ!

「(前略)豚は敷き藁も無しに固い床に寝る。(中略)コンクリートの上に寝ることは不快なだけではない。時間が経つうちに、深刻な健康被害が出る。関節の腫れ、皮膚の摩耗、そして脚部の深刻な擦過傷や病菌感染などだ。これは豚のストレスを増し、喧嘩や共食いの発生率を高める」
「(前略)最近の調査では、七一%が肺炎を起こしていた。これほど高率の呼吸器疾患の原因は、豚たちが四六時中耐えている空気の質のためかもしれない。養豚場に足を踏み入れた人は、反射的に息を殺し、鼻から空気を吸い込むまいとする」
「豚舎の中の空気はあまりにもよどんでいるため、場所によってはガス、埃、そして汚物が雲のようにエア・ポケットをつくっている」
「生後間もなく、作業員は赤ちゃん豚の耳に識別用の切れ目を入れる。麻酔は用いられない。ケンカによる怪我を防ぐために牙も抜かれるが、この際も麻酔は使われない。雄豚は去勢されるが、これも麻酔なしだ」
「豚は、できるだけ狭いスペースで飼育される。若い一一〇キログラムの豚一頭に対して、〇・八平方メートルのスペースが推奨されている」
「現代の養豚家は、豚たちができるだけ動かないことを望んでいる。豚が動きまわれば、高価な餌が身になる代わりに運動エネルギーとして消費されてしまうからである。(中略)研究では子豚一頭あたりの面積を、〇・二二平方メートルから〇・一四平方メートルへと減らすことで、餌代を一〇%削ることができた」
「生後六カ月で、豚は食肉処理場行きになる。(中略)すべての豚を生きて食肉処理場に届けることが最優先されるわけではない。輸送費を抑え込むには、二、三頭の豚の死は、仕方がないのである」……。

 ……牛さん……です。

「(前略)今日の乳牛はほとんど休みなく妊娠させられ続ける。出産後、次の種付けまでわずか二、三カ月しか休ませてもらえない。米国の乳牛は平均して一三カ月ごとに一頭の子牛を産んでいる。こうして絶え間なく妊娠させられ続ければ酪農家が手に入れる乳の量は増えるが、当の牛には大変な危険が伴う。病死した牛の五頭に一頭は、妊娠合併症が死因である。
 絶え間ない妊娠とかつてない産乳量のため、今日の乳牛は深刻な疾病の間際にいる。毎年、病気による衰弱で立てなくなる牛は数万頭に及ぶ。衰弱して倒れた牛はダウンド・カウ(もしくはダウナー)と呼ばれて殺される。治療を施しても経費がかかるばかりだからだ」
「鶏卵業界と同様に、ここでも生まれた牛の半分は、要らない雄である(中略)酪農業界ではヴィール(食肉用子牛)産業に売る」
「ヴィール牛は、あらゆる牛の中で、もっともひどい扱いを受けている。子牛は産後すぐに殺されなければ、高価な『ミルク育ちのヴィール』になる。(中略)肉の柔らかさという値打ちを保つため、子牛は筋肉を発達させないよう普通に動くことすら許されない。そのため、肩幅よりわずかに広い程度の木枠の中に鎖でつながれる」
「ヴィール牛は生後一六週間で木枠から出される。生まれてすぐに木枠に押し込められてから、初めて解放される瞬間だ。そしてそのままトラックに乗せられ、食肉処理場へと運ばれる」
「ケージに押し込められた鶏はヒステリーになり、豚たちは狭すぎる飼育場で激しく抵抗するが、ヴィール牛の反応はまったく違う。立ち並ぶ木枠に押し込められた子牛たちは、恐れても怒ってもおらず、ただしょげかえっているだけに見える。木枠の中で立ったまま、運動もせずに日々無気力になっていき、困惑と悲しみに耐えているように見えるのだ」

 ……どうだろうか。みなさんは、もう金輪際、肉を食べないと思ったであろうか。本書の冒頭、「訳者よりおことわり」にあるように、ここに書かれているのは、どれも「アメリカの畜産」だ。日本とはだいぶ異なっているのだろう。そう、自分を慰めてみても、やはり心のもやもやは晴れないのである。おそらく、根本的なところでは変わらないような気がするからだ。動物たちが置かれた、このような現状については、さすがに「肉食」派の面々も、よろしくないと考えている。どうにかして、彼らの環境を改善すべきである、と考えてもいる。それは、食べられる動物ばかりではないことは、みなさんもご存じの通りである。この動物に関する倫理の問題については、「動物の権利運動のバイブル」といわれた、ピーター・シンガーの『動物の解放』に詳しい。さすがのわたしも、これらを読んだ次の日に、焼き肉屋に行く勇気はない。
 だが、である。それでも、わたしは、3日後くらいには肉を食べると思うのである。あるいは、人間は、肉を食べた方がいいのではないか、と考えているのである。いや、食べたくない人は、食べなくてもいいんですよ。
 それは、『肉食の哲学』の著者、ドミニク・レステルさんが、本の中で、悲しげにいったように、わたしたち人間は、自分が動物であることを忘れてはいけないように思うからだ。すべての動物のトップと自称したって、わたしたち自身が動物であることに変わりはない。生きものは、別の生きものの命を奪って、生きてゆく。葉緑体を持っていて光合成できる植物ではない生きものは、みんなそうだ。元の形象がなにだったかわからない合成の産物を食べるより、元が生きものだったことがわかるものを食べる方が、わたしたちのメンタルを健全に保つことができるのではないか。なんだか、そんなことを、わたしは考えてしまうのである。
 ダイエットや食事から、ずいぶん遠くまで来てしまったような気がする。けれども、食事は、わたしたち人間にとって、生命活動そのものなのだ。いくら考えても、考えすぎということはない。食べることそのものが、わたしたち人間に深い叡知をもたらすことだってあるのだ。おそらく、このとき、わたしたちは「精神のダイエット」とでもいうべき新たな課題に直面するのである。

※店舗情報は、すべて2020年12月現在のものです。

撮影/中野義樹

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』など、多数ある。

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