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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

イキナ氷河

更新日:2019/05/08

 イキナ氷河はシオラパルクから約十五キロ北東方向にある小さな氷河で、クレバスが少ないことなどから、昔から氷床に出てさらに北のカナダとの国境地域に向かうためのルートとして利用されてきた。
 ただ、傾斜がつよいため決して良いルートとは言い難い。
 シオラパルクからカナダ国境地域に向かうには、いずれにせよ北側によこたわる氷床を越えねばならないため、以前は傾斜のつよいイキナ氷河ではなく、五十キロほど北西にあるアッヴェダッヴィとよばれる氷河が主に利用されてきた。アッヴェダッヴィは傾斜のゆるい雪面が氷床まで一様につづく非常に登りやすい氷河で、植村直己が北極圏一万二千キロの旅で利用したのも、このアッヴェダッヴィのほうだった。ところが近年は海水温が上昇したせいか海氷の発達が悪く、二月、三月に強い北風が数日つづいただけで沖の氷が割れて流出してしまう。沖の海氷が流れるとアッヴェダッヴィまで行くことはできず、氷床を越えて北に向かうには傾斜のきついイキナ氷河を登るしかなくなってしまうのだ。
 実際、二〇一四年にはじめてグリーンランド北西部をおとずれるようになってから、私は一度もアッヴェダッヴィを登れたことがなく、毎年ひたすらイキナ氷河を登りつづけてきた。近年はアッヴェダッヴィを使えないため、地元イヌイットもほとんどカナダ国境に狩りに出なくなった。それだけみんなこのイキナ氷河を登るのを敬遠しているのだ。
 とにかくこのイキナ氷河はシオラパルクから北に向かうための最初にして最大の関門だ。何が最悪かといえば、途中で急傾斜地が何カ所も出てくる氷河の構成自体も最悪だが、それよりも村を出てすぐにその最悪の氷河を登らなければならないというロケーションが最悪である。これが旅の中盤や終盤で荷物が軽くなっている状態で登るなら、まだ楽なのだが、残念ながら現実はそうではなく、まず村を出て荷物が満載の状態でこの悪い氷河を千メートルも登らなければならないのである。
 というか荷物満載でこの氷河を一気に登るのは超人でもないかぎり不可能なので、現実的方策としては荷物を小分けにして荷上げしながら登るしかない。シオラパルクから北に向かおうとするたびに、私はいつも、出発地点からだだっ広い雪原やら海氷やらをひたすら前進すればいいカナダとか南極の旅ってラクチンだろうなぁと羨ましくなる。
 特に今年からは人力橇から犬橇に旅の方法を切り替えたため、この氷河の難関度はさらにアップした。これまでは自分と犬一頭分の食料を荷上げすればいいだけだったが、犬十頭分の餌を上げなければならない。一カ月の旅をしようと思えば、犬一頭につき一日ドッグフード一キロほど食べるので、餌だけで三百キロの荷上げだ。それに加えて私のキャンプ道具、燃料、食料等が約八十キロほど、橇自体の重さも八十キロある。そのぶん十頭もいる犬が運んでくれるだろと思うかもしれないが、そう甘くはなく、犬は傾斜のつよい氷河を登るのは慣れていないので平地ほどの力を発揮しないのだ。
 数日前からこの氷河の荷上げを開始したが、はじめて登ったその日、犬が全然登ろうとしないことに愕然とした。これほどまでに登れないものか……と私は泣きたくなった。そして同時に、これなら自分で運んだほうが早いや、と思い直し、去年まで使っていた人力橇用のハーネスを装着して犬の先頭に立ってぐいぐいドッグフード八十キロを引っ張り上げた。一日私が先導して登ったことで慣れたのか、翌日は犬八頭で八十キロを上げることができたが、上げたといっても一番下の標高差二百メートルの難所を越えただけで、その先八百メートルはこれから先の仕事である。荷上げだけで一体何日かかるかわかったものではない。
 そういえば二月にデンマークの二人組がやはり北に向かうためこのイキナ氷河に取りついたが、早々に登高を断念し、ヘリコプターを呼んで荷上げしてもらっていた。かようにイキナ氷河はグリーンランド北部を旅するための障碍として横たわっているのである。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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