Nonfiction

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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

ウヤミリック

更新日:2016/08/10

 日本の暑さに辟易(へきえき)して、時々グリーンランドのことを思い出す。探検活動のベースにしているシオラパルクには旅の相棒であるウヤミリック(雄、推定三歳)というイヌがいて、私との再会を心待ちにしている(はずである)。ウヤミリックとは現地語で首輪という意味。首輪という名前にとくに意味はない。イヌイットは犬橇(いぬぞり)のために多数のイヌを飼っているので命名はきわめて適当らしい。首輪という変な名前をつけられたこのイヌは今、何をしているのだろう。
 このイヌと最初に旅をしたのは二年前の二月から三月の一番寒い時期だった。まだ一歳の子供同然だったウヤミリックは、犬橇を引いたことがなかっただけではなく、村から出たことすらない、旅の経験のないヴァージンドッグだった。こちらとしては今後数年間はパートナーとして一緒に活動する相棒を選ぶわけだから、他人に調教されたイヌではなく、まったく未経験のイヌのほうがいい。要するに、手垢のついてないイヌを完全に自分の手で調教して私好みの色に仕立てあげようという〝イヌ版光源氏計画〟的欲望に憑りつかれた私は、大きくなったばかりのこのイヌをあえて選び、一緒に旅に出たのである。
 しかし旅の経験のないグリーンランド犬と、調教の経験のないエセ光源氏が、氷点下四十度の酷寒がつづく一番寒い時期のグリーンランドを旅しても、そんな目論見は当然破綻する。ただでさえ寒さと深雪で疲労がたまっているのに、全然、橇を引いて自分の分の労働を負担しようとせず、いわばのうのうとタダ飯を食べる彼の態度に、私は何度も怒りが爆発し、「てめえ、橇引けって言ってんだろ! ぼさっとしてんじゃねぇ!」と怒号をわめき散らし、幾度となく鉄拳制裁の所業におよんだ。もちろん彼が何をしていいのかわかってないことはわかっているのだが、場所があまりに寒くて大変なので平地での寛容な精神など微塵ものこっていないのだ。結果、四十日間におよぶこの旅は源氏物語というより、西村賢太の私小説(とりわけ〝秋恵もの〟と呼ばれる一連のシリーズ)に近い世界を展開したのだった。
 しかし翌年はウヤミリックも成長しており、一緒にぐいぐい橇を引いてくれた。前年よりも暖かい四、五月に旅したこともあったのだろうが、写真を見てもわかるとおり余裕綽々(しゃくしゃく)。休憩時間は雪の上にゴロンと横になり鼾(いびき)をかくほど旅慣れていた。一緒に橇を引いた感覚としてはこのイヌ一頭で七十キロから八十キロの荷物は引いてくれていると思う。筋肉も盛り上がり、力強いイヌになっていた。
 昨年十月にグリーンランドから帰国した際は、毎年冬にシオラパルクで犬橇活動をしている探検家の山崎哲秀さんにお願いして、ウヤミリックを彼のチームの一員として使ってもらった。その後はシオラパルクの友人であるイラングアという青年が面倒を見てくれている。十一月からはまた一緒に旅をする予定なので、元気にしているといいのだが。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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