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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

巨大海豹ホール

更新日:2018/08/08

 グリーンランド北部の海には輪紋海豹(ワモンアザラシ)、竪琴海豹(タテゴトアザラシ)、顎鬚海豹(アゴヒゲアザラシ)の三種の海豹が生息している。そのなかでも一番巨大なのが顎鬚海豹で、大きなものだと体重が三百キロ近くにも達する。
 概して人懐っこい性格で好奇心が旺盛でいたずら好きなのか、カヤックで氷海を漕いでいると、顎鬚海豹はその巨体をうねらせながら密かに接近してきて、突然、海面から顔を出したり、ドボンと音を立てて飛び出したりすることがある。浮き氷が漂う北極の海には、海豹よりも巨大な海象(セイウチ)が一緒に泳いでいることが多い。海象は危険で、しばしばカヤックをひっくり返して人間を海中に引きずり込んで血の海に沈めるという身の毛もよだつような暴挙に及ぶことがあり、こっちとしては海象が現れないかびくびくしながらカヤックを漕いでいるので、突然、海象なみに大きな顎鬚海豹が顔を出したりすると、うわ海象が現れた、と一瞬心臓が口から飛び出しそうなほど驚かされることになる。
 今年四月から五月にかけてグリーンランド北部の新氷を歩いていたとき、幾度となくこの顎鬚海豹の巨体を遠くから見かけた。厳しい冬が去って太陽の沈まない白夜の季節が訪れると、海豹たちは暖かい陽気に誘われて海の中から氷上に姿を現して日向ぼっこをする。陽光にさらされた顎鬚海豹の黒い巨体は、白い氷の上では黒く細長い滲みのような影となって現れ、他の氷の影と比べて黒い輪郭が明確に際立っているので、数キロ離れた先からでもそれとわかる。顎鬚海豹の影を見つけるたび、私は足音を消してたびたび接近を試みたが、この年は白熊が多く、海豹たちは厳重に周囲を警戒しており、何度接近を試みてもすぐに海中に逃げられてしまい、五百メートルぐらいまでしか近づけなかった。海豹は海中と氷上を移動する通路を確保しており、何か異変を察知すると頭から穴のなかにするりと逃げ込み、一瞬で姿を消してしまうのだ。
 顎鬚海豹のいたところに行ってみると、このような巨大な穴が蓋を外したマンホールのようにぽっかりと開いている。この穴を見ただけでこの海獣の身体の大きさを察することができる。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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