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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

故郷のスケール感

更新日:2017/09/13

 故郷で時々、街のなかを散歩すると、小さい頃に遊んだ公園や街の通りに言いしれぬ郷愁をおぼえることがある。
 五年ほど前に、中学生の頃まで住んだ生家を二十年ぶりぐらいに見に行ったときは衝撃だった。私の中で生家はわりと大きな家として記憶されていたが、現実の建物は驚くほど小さい。当時はまず玄関を出たら父親が経営していた会社との間の舗装道路を通って国道に出て学校に向かったのだが、その会社との間の舗装道路なども信じられないほど狭い。あまりに狭くて、引っ越した後に改良工事でもなされたのかと勘違いし、父親に確認したぐらいだ。同じように子供の頃に遊んだ公園も驚くほど小さいし、あんなに遠いと思っていた駅やバスターミナルも歩いて五分ほどで、無茶苦茶近い。なんじゃ、これ、ミニチュアか、と思ってしまうぐらいだった。
 私の場合、高校から寮生活のため故郷を離れ、大学に入るとほとんどよりつかなかったため、その風景は幼少期のスケール感のまま保存されていたらしい。つまり、現実の故郷の街は私の記憶のなかの故郷の街よりもはるかに狭い。そしてそのスケール感が、家を出て学校に向かって飛びだしたときの記憶や、自転車で道を駆け抜けて公園で野球に興じていた思い出をよびさまし、胸が苦しくなるほどの懐かしさをおぼえる。
 宗教学者のミルチャ・エリアーデによると、かつて人類が神を信じていた頃、人間の住む空間にはかならず神の顕現を感じさせる聖なる中心点があった。その中心点から神の権威が四方に広がり、秩序が与えられることで、共同体は人々が安心して生活できる宇宙(コスモス)として機能した。そのため昔の宗教的だった人間は、空間のなかに聖地のように均質性を打ち破る突出した力を持つ一点を見出しており、全体的に空間を亀裂と断絶のあるものとして認識していた。聖地が失われて空間が均質になり、どこもかしこも同じになったのは、近代に入って神が死に、人間が完全に俗化してからだという。
 しかし俗化した人類にとっても時折、昔の宗教的空間体験に近い非均質的な空間体験をするときがある。それが〈故郷、初恋の景色、あるいは若いときに訪れた異郷の都市の特定の場所〉(『聖と俗 宗教的なるものの本質について』)であるという。
 エリアーデはこう書いている。
〈これらの場所はすべて、全く非宗教的な人間にとってさえ或る特殊な、「独自の」意味をもっている。つまりそれらはその人の個人的宇宙の聖地である。このような場所では非宗教的人間にとっても、その日常生活の現実とは異なる或る現実が開示されるかの如くである。〉(風間敏夫訳)
 故郷とは人の心をゆさぶる個人的宇宙。それは時空が歪み、均質な物理的空間に亀裂が生じて、私の精神の中に私の知らない古代の宗教的だった時代の人類の心性が顔をのぞかせて、空間が物理学的法則の限界を突き破るからである。
 この夏、改めて古代人化してみようと思い、生家を訪ねてみたが、生家は取り壊されて草むらになっていた。知らない間に私の個人的宇宙のひとつが失われていた。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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