読み物
夏のお濠は何の臭い?
更新日:2017/08/09
毎日同じ時間に皇居の周りを走っていると、都心のど真ん中ではあるが、それなりに四季の移ろいを感じる。秋は枯葉が舞い、冬は日の暮れた都会のビル群に電灯がともり、春は桜が満開になる。では夏は?
夏の皇居周辺で一番季節感を出しているのは、ミンミンゼミの鳴き声もけっこういい線をいってはいるが、何といってもお濠の水の汚濁だろう。真夏日のつづく最近はものすごいことになっている(七月十六日現在)。富栄養化というか、アオミドロ化というのか、水は緑茶色に濁り、薄気味の悪い藻類が繁茂し、もろもろとした感じの毒々しい緑素が一面に蔓延(はびこ)っている。底の様子はうかがいしることはできないが、おそらくヘドロ化が進み、水中生物の死骸が溢れ、メタンガスでも発生しているのではないかと危惧してしまう。これって放っておいてもきれいになるのだろうか。それとも役所が定期的にヘドロを除去して清掃しているのだろうか。あるいは見た目が汚く見えるだけで、別に汚くないのか。大手濠のあたりで〈コイなどに餌をあげないでください〉と書かれた看板を見つけたが、果たしてコイは生きているのだろうかと、その運命がしのばれた。
と思っていたら、妻から「市ケ谷駅前のお濠がすごい汚れていて、魚の死骸が浮いていた。もうすごい臭いを発している」と教えられたので、数日後に見に行った。現場はいつもランニング中に見ている皇居周辺の内濠ではなく外濠のほうだったが、たしかにお濠の端っこに溜まった緑素やゴミに埋もれてコイらしき大きな魚の死骸が五、六匹浮いていた。都会の真っ只中で生き物の死骸が人目に晒されてプーンと腐臭を放つ光景は、いまどき貴重といえば貴重なので大事にしたいものである。
三歳半になる娘はこの死骸を見たとき、「セイウチの臭いがする」と叫んだらしい。この連載でも以前に書いたが、大分の水族館ではセイウチショーの後に観客にセイウチの身体をペタペタと手で触れてもらうサービスがあり、そのときの猛烈な臭いをおぼえていたらしいのだ。
夏のお濠はセイウチの臭いがする。
どこか詩的な言い回しで、素敵だなと思った。多少は清涼を感じられるかと思い、汚濁したお濠の前で北極の浮き氷にいるセイウチを思い起こしてみたが、やはりクソ暑いだけで不快だった。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。