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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

倒錯的歓喜

更新日:2016/02/24

 グリーンランドから帰国して一カ月ほど後、これまでの西武池袋線沿線の下町から、皇居のお堀まで歩いていける都心部に引っ越してきた。とある事情から、千代田区内の集合住宅にかなり安い家賃で住めることになったからである。
 三年前の暮れに娘ができて三人暮らしとなってからというもの、今のマンションではそのうち手狭になるのは目に見えていたので、時折、妻と次の住宅候補地について話をすることがあった。長野か山梨あたりに古い家を買って田舎暮らしをするか、はたまた思い切ってアラスカにでも移住するか。それとも都内で別の手ごろな賃貸を見つけて引っ越すか……。
 家族三人で早稲田のラーメン屋に自転車で行く途中、妻はよく、目白台の下にあるレンガ造りの外観の瀟洒(しょうしゃ)なマンションを見上げては、ここに住みたいなぁと漏らしていたが、しかしそのマンションは、以前、家の郵便ボックスに投函されていたチラシによると販売価格が一億円を超えており、残念ながら私が漠然と家の購入限度額だと想定していた金額よりゼロがひと桁多かった。一五〇〇万円ぐらいなら視野に入れてもよかったが、これでは宝くじにでも当たらないかぎり購入不可能である。そもそも私は宝くじを買う習慣がないのでそれも望めないし、もし宝くじに当たったとしても、私はマンションを買うより特殊なヨットを製造してフリチョフ・ナンセンみたいに北極海を漂流する途(みち)を選ぶだろうから、いずれにしても無理なのであった。
 そんなわけで引っ越しの目途がたたないまま(というか真剣に考えないまま)、私はグリーンランドへ長い旅に出かけたのだが、その旅の途中で、急遽、千代田区内にある集合住宅に引っ越すことになったと妻から知らされたのである。
 妻からその連絡を受けたとき、私はカヤックの旅の途中で、両手を血まみれにしてジャコウウシの肉を捌(さば)いてから、まださほど時間が経っていなかった。衛星電話の向こうで引っ越しが決まって大喜びしている妻の声を聞きながら、私は自分が千代田区民になるという事態と今の自分の原始人みたいな生活の落差について思いを巡らせた。何十日間も風呂に入らず、食料が足りないからといっては野生動物の肉を捌き、汗まみれ糞まみれになって生肉を喰らい、旨い、旨いと大喜びしている自分の生活の本拠が、土や森や火の匂いが消失した靴音だけがカツカツと鳴り響く極めて人工的なオフィス街に移ることに、ある種の倒錯した喜びを感じた。あんなきれいな街の、こんな汚い日本人。整然とした街に何食わぬ顔で暮らしているけど、じつはこんな不潔な状況での生存活動をライフワークとしているオレ。それは、冬山下山後に電車に乗ってあまりの臭いに隣の女子高生が席を立ってしまったときに感じるような、自分が世間の常識や価値観から少しずれたことに由来する倒錯した自己満足だった。

 元日の初詣は家族三人で、自転車で七、八分のところにある日枝神社に参拝した。それから家族と別れて新宿西口の高速バスターミナルに向かい、北アルプスの槍ヶ岳に登るため信州白馬線のバスに乗った。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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