英国に進出し、成功を収めた山中商会。英国王室をも顧客とする中で、中心となって開催した展覧会が大成功を収めるなど英国内での山中商会の地位を確立していく。また第一次世界大戦下では、英国王室がサポートし、赤十字によって開かれた大規模な日本美術の展覧会が評判を呼び、日本美術全体への関心も高まりを見せていた。
『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』(新潮社)の著者、朽木ゆり子が描く、もう一つの“ハウス・オブ・ヤマナカ”、山中商会と英国王室コレクション秘話、第2回。
第2回
「Japanese Art and Handicraft (日本の美術と工芸) 展」と山中商会
更新日:2024/05/01
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1915年10月15日付のロンドン・タイムズ紙は「赤十字のための日本展覧会」というタイトルの記事でこう報じている。
「昨日午後、ニュー・ボンド・ストリート127番地の山中商会で日本美術品の展覧会が始まった。セレモニーはなかったが、日本大使が開会した。
本展は、ロンドンにおける日本人コミュニティによって英国赤十字社と聖ヨハネ修道会病院の共同基金に貢献するために企画されたもので、展覧会の収益のすべては基金に提供される。K・タツミ氏を委員長とする委員会が準備を担当し、英国の日本美術・工芸品の収集家にアプローチした。そして70人の収集家が、委員会が望んだ名品を提供することに同意し、結果として規模においても、質という意味においてもロンドンでこれまでに行われたどんな日本美術展をも凌駕するものとなった」(ロンドン・タイムズ1915年10月15日“Japanese Exhibition for the Red Cross”より) -
山中商会ロンドン支店の内部。アジア美術品の美術館のように飾りつけられていた。 ©Yamanaka & Co., LTD. - 委員会はコレクター120人に貸し出しを持ちかけて、そのうち約70人が出品に合意した。当時、展示に値する日本美術品を持っているコレクターが英国内に120人もいたことはそれだけで驚きだし、展示された作品の点数が大変多かったことも注目に価する。
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発案者はアンリ・L・ジョリー(1876−1920)と冨田熊作だった。ジョリーは日本美術品コレクター。フランス生まれの電気技師だが、当時はロンドンに住み、刀装具、根付、印籠のコレクター、研究家として知られていた。冨田熊作は山中商会ロンドン支店の支店長である。
計画は1915年の5月頃に持ち上がった。
展覧会カタログの序文によれば、
「ロンドンの日本人コミュニティの主なメンバーは、正義、道理、そして文明を守るために、日本の軍隊が英国、そして欧州同盟国の軍隊と協力している現在、英国赤十字社のニーズに対して、英国の美術愛好家のコレクションにある日本美術と工芸品の代表的作品を展覧することで貢献できる可能性があると考えた」(「Loan Exhibition of Japanese Art and Handicraft」展 カタログ1915年序文より)
冨田とジョリーはすぐに駐英日本大使井上勝之助に働きかけた。井上勝之助は、美術品収集家としても有名な政治家井上馨の甥で、日本美術を展示するこのような催しが募金活動に役立つだけでなく、日本のイメージを高めることにもなることをすぐに理解した。彼は日本大使館の後援を決定し、個人的な協力も約束した。そして、英国のコレクターにアプローチするために日本人7人、加えて冨田とジョリーから構成される実行委員会が作られた。
山中商会はこの展覧会を全面的に支援し、店舗の大部分を会場として提供するだけでなく、作品貸し出しに関する保険を含む一切のコストを負担する決断をした。太っ腹といえば言えるが、恐らく参加するコレクターの大部分は山中商会の顧客であり、さらに日本の美術商が英国赤十字に貢献していることを英国人に知ってもらうのは、最上の広報活動になると踏んだのだろう。
果たしてコレクターたちが名品を貸し出してくれるかどうか、冨田とジョリーは心配した。7月、各方面に趣意書を送るとメアリー王妃から作品を貸し出すという連絡がきた。そのときのローン作品が、前述した赤塚自得作の塗りの手箱と小箪笥だったのだ。メアリー王妃は日本の皇室から贈られて、自分も気に入っている作品を貸し出すことにしたのである。
メアリー王妃がこの漆作品2点を持っていたのは恐らくは偶然ではない。宮内庁は、明治になって需要が激減した漆工芸を保護・奨励するために優れた作品を買い上げ、このように贈答品として海外に送りだしていた。その意味でこの2点の作品は当時の日本の漆工芸品のトップクラスの作品だった。
王妃が協力することがわかると、コレクターたちからも作品貸し出しの連絡が相次ぎ、結果、約70人のコレクターの作品が展示された。その中には、ジョージ・ユーモーフォプロス、オスカー・ラファエル、M・B・ヒューイッシュなどといった当時の著名な東アジア美術品コレクターの名前も見える。
展覧会は10月14日から11月13日まで、ニュー・ボンド・ストリート127番地の山中商会ロンドン支店で行われた。メアリー王妃が貸し出した漆作品2点に加え、井上大使が皇室からの贈答品である銀製花瓶をはじめ香炉、棗(なつめ)、印籠や鍔(つば)など14点を展示した。作品の点数表を見てもわかるように、刀装具(主として鍔)、根付、印籠、漆器などの小型工芸品が多く、絵画と彫刻はそれぞれ65点と40点と、点数が少ない。刀装具の点数が多いのは、ジョリーのコレクションの作品が多数含まれていたこともあるが、当時刀の鍔はコレクションの対象として人気があった。絵画部門はウィリアム・ゴーランドのコレクションが中心となっている。ゴーランドは大阪造幣寮(現・大阪造幣局)のお雇い外国人技術者として1872年に来日して、16年間日本に滞在し、その間に日本画を収集してイギリスに持ち帰った。同展で展示された絵画(掛軸)は65点だが、その内32点がゴーランドの所蔵によるものだった。この中には土佐光起、雪舟、円山応挙、伊藤若冲などの落款が入った絵もある。主催者は、展示された絵画と彫刻の点数が少なかったことを、高額であり、市場に出回る確率が少ないからと指摘し、残念だとしている。
タイムズの記事には、収益のすべては基金に提供と書いてあるが、収益がいくらあったのかはわからない。チャリティ目的の展覧会であることはわかっているし、会場は山中商会の店舗、カタログ制作費も山中商会が負担したので、おそらくは入場料とカタログの売上が収益となったのだろう。
展覧会時に印刷されたカタログは168ページで、全作品がリストになった文字だけの簡素なものだった。(このカタログは 第1回 に掲載されている)しかし、翌1916年には写真入りの豪華なカタログが限定175部で制作された(注:175部という数字はカタログのタイトル対向ページに記録されている。1916年のカタログ上下巻はメトロポリタン美術館のワトソン図書館に保管されているものを参照した。残念ながらワトソン図書館内のカタログは製本されてしまっているため、オリジナルの表紙を見ることはできない)これは大判の2巻本で、上巻は絵画、版画、ドローイング、彫刻、根付、漆工芸品、印籠セクション。下巻は大部分が刀装具で、他に武具や陶磁器セクションがある。翌年に写真入りのカタログが印刷されたという事実は、同展覧会が成功し、作品を貸し出したコレクターを筆頭に、人々が写真入りのカタログを欲しがったということを示しているのではないだろうか。
さらに、同カタログは1976年にチャールズ・タトル社より1巻本(解説とカタログ部分213ページ。写真が170ページ)として限定175部で復刻出版されている。このカタログから当時の展覧会の規模の大きさと出版物のレベルの高さを見ることができる。 -
「Japanese Art and Handicraft」展カタログ復刻版(1976年出版)表紙 - さて、この展覧会を発案し、自腹を切って取り仕切った山中商会のことをもう少し詳しく書いてみよう。
- 大阪に本社があった美術商山中商会は、1894年に山中定次郎と山中繁次郎がアメリカに進出して、まずニューヨークに店を出した。19世紀末から20世紀初頭にかけては、万国博覧会などが火をつけたジャポニズムや日本熱(ジャパン・クレーズ)はすでに下火になっていたが、それでも日本美術品の需要は高かった。そんな波にのって、山中商会はビジネスを急速に拡大し、1898年にはボストンにも開店。顧客としてはアーネスト・フェノロサ、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、チャールズ・ラング・フリーアやハブマイヤー夫妻など、現在のアメリカにおける日本美術コレクションの核となった作品を収集したコレクターを大勢獲得した。20世紀になるとボストン美術館、メトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、シアトル美術館、そしてジョン・D・ロックフェラーJr.夫妻などが顧客リストに加わった。
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海外3支店責任者。右から山中六三郎(ロンドン)、山中定次郎(ニューヨーク)、山中繁次郎(ボストン)。撮影は1900年頃と推定される。©Yamanaka & Co., LTD - 1917年には五番街の53丁目と54丁目の間という一等地の新築ビル(持主はロックフェラーJr.)に白手袋のドアマンが扉をあけるような旗艦店をオープンし、日本や中国の美術品だけでなく、シルクのパジャマや真珠のアクセサリーなど、アジアの高級商品を売り隆盛を極めた。1928年にはシカゴにも支店を開いた。その他に、バー・ハーバー(メイン州)、パーム・ビーチ(フロリダ州)、ニューポート(ロードアイランド州)といった富裕層の避暑地や避寒地にも、小さな店を営業していた。
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1917年に開店したニューヨーク五番街の旗艦店。ロックフェラーJr.が持主の新築ビルで、豪華な内装が話題だった。©Yamanaka & Co., LTD -
山中商会がロンドンに店を出したのは1900年である。初代支店長としてロンドンに派遣されたのは山中六三郎で、彼は山中一族の中心的な存在だった山中吉郎兵衛の長女ヨネの婿養子だった。設立時の住所はニュー・ボンド・ストリートの68番地。3年後に山中六三郎は大阪に帰り、山中より一足先にロンドンに上陸していた京都の美術商、池田合名会社で働いていた冨田熊作が支店長となる。山中商会はロンドンをベースとして、フランス、オランダ、スイスなどのコレクター、スウェーデンの王室など、ヨーロッパ全域にビジネスを拡大した。
1910年、山中商会はニュー・ボンド・ストリート127番地の5階建ての建物に移転する。そして建物全体を東洋美術品のギャラリーとして飾り付け、日本や中国の美術品を展示した。ロイヤル・ソサエティ・フォー・ブリティッシュ・アーティストやファイン・アート・ソサエティといった名の知れた会場でも、屛風や浮世絵、中国の青銅器や磁器などの展覧会を行い、美しいカタログを作って積極的に美術品や調度品を販売した。残されたカタログから判断すると、1910年から1937年までの間に、山中商会は東アジア美術品の展覧会を合計36回も開催している。
こういった方法は、競売や美術品コレクションを社交の一部として楽しむイギリスの上流階級にアピールした。そして、前述の1915年の赤十字への基金を募る展覧会によって、山中商会の存在は英国社会で一目おかれる存在となった。そのせいもあり、ギャラリーには王族や貴族の姿が絶えなかった。メアリー王妃やエドワード皇太子、シンプソン夫人なども山中商会の店でよくその姿が見られたが、1920年以降王室との関係はさらに深くなる。山中商会は国王と王妃からロイヤル・ワラントを授与され、日本企業としてはじめての英国王室御用達美術商となったからである。
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©Takashi Ehara
- 著者プロフィール
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朽木ゆり子(くちき ゆりこ)
ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
東京都生まれ。「日本版エスクァイア」誌副編集長を経て1994年よりニューヨーク在住。『東洋の至宝を世界に売った美術商―ハウス・オブ・ヤマナカ―』以外にもフェルメール関連の著書多数。中でも、『フェルメール全点踏破の旅』はフェルメールブームを巻き起こし、14刷12万部のベストセラーとなった。他に『盗まれたフェルメール』『邸宅美術館の誘惑』『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』など。