古代の物語が生きている 神話の“現場”を歩く

第2回

ケルト神話を感じる

更新日:2025/11/05

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アイルランドの風とラフカディオ・ハーン
 出雲で印象に残るのが「雲」であるなら、アイルランドは「風」でしょう。海から吹きつける風の音は、次第に獣の唸り声のように聞こえてきます。その風にさらされながら、巨人が作ったと伝えられる石の柱や、妖精が築いたとされる土塁を眺めていると、自然そのものが神話や伝説を語りかけてくるように感じられます。

 ラフカディオ・ハーンは、そんなアイルランドで育ちました。日本を訪れ、出雲で小泉セツと結ばれ、彼女を通してさまざまな「怪談」を聞き、それを自らの言葉で語り直し、世界に伝えました。彼の物語には、どこかアイルランドの風の記憶が響いているように思えます。たとえば「雪女」。吹雪に凍える男の前に現れる白い影の背後には、あの北の海を渡ってきた風の声が潜んでいるように感じられるのです。

 アイルランドは、キリスト教以前の古代ケルト文化の神話を今に伝える地です。その痕跡は、遺跡や地名、民話の中など、島のあちらこちらに息づいています。古代ケルトの人々は、森や泉、石などあらゆる自然の中に霊魂が宿ると考えました。そうした自然信仰の感覚は、山や海、川に神が宿るとする日本の神信仰にもどこか通じるものがあります。ハーンが日本に惹かれた背景には、そうした自然観の類似もあったのではないでしょうか。

 厳しい自然環境のなかで力強い生命力を感じさせる豊かな大地。そこに古代ケルトの人々は神々や巨人、妖精たちの姿を見出してきたのでしょう。その想像力の結晶ともいうべき物語が数多く語り継がれています。
巨人が作った奇観――ジャイアンツ・コーズウェイ

六角形の岩が織りなす奇観

 北アイルランドには、コーズウェイ・コーストと呼ばれる海岸があります。その中に大小さまざまな六角形の石柱が無数に並び、壮大な奇観を作り出している場所があり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。柱のようなもの、動物の姿に見えるもの、大きなブーツの形をしたものなどが、波打ち際から沖へと伸びています。まるで巨人が一歩ずつ海の向こうへ歩み出していったかのようです。

 この景観は、数千万年前の火山活動によって流れ出た溶岩が冷え固まり、規則的な割れ目が生じた結果できたものとされます。いわゆる柱状節理です。しかし、人々はこの不思議な造形を、ただの自然現象の結果としてではなく、神話の中の巨人の仕事として語り継ぎました。こうしてこの場所は「ジャイアンツ・コーズウェイ(巨人の石道)」と呼ばれるようになったのです。


ジャイアンツ・コーズウェイのビジター・センターを出てほどなくのところから撮影。散策路は複数あり、この写真の岬のあたりまで歩き、丘の上へと上がって戻ってくる人が多い。
岬のほうまでバスで行くこともできる

 その巨人の名は、フィン・マックール。石道は、フィンがスコットランドの巨人と戦うために作ったともいわれています。このような雄大な造形を作り出すとは、フィンとはとてつもなく大きな巨人だったのでしょう。

 ところで、アイルランドはケルト文化の神話を多く伝えた場所だと申し上げましたが、その神話を含む物語は、4つのサイクル(物語群)に残されました。そのサイクルの一つに「フィン物語群」があります。フィン・マックールは、この「フィン物語群」の主人公で、王を守るフィアナ騎士団の団長。伝えられる神話では白い肌と金髪の美しい男性です。食べると知恵を得られるという「知恵の鮭」を焼いているときに、はねた油が指につき、その指を舐めたために知恵に恵まれたという逸話で知られています。

 このようにケルト神話では、フィンは類いまれな美しい容姿を持つという特徴はありますが、人間と同じような姿形をしています。それがジャイアンツ・コーズウェイについて語る口承伝承ではいつの間にか巨人になったようです。

 ジャイアンツ・コーズウェイのビジター・センターから海岸に沿った周遊路を歩いていくと、いくつかの巨人フィンにまつわるスポットに出会います。その一つが海岸の岩場にある「巨人のブーツ」と呼ばれている大きな岩です。大きな足の形をしたその岩は、まさに巨人がブーツを脱ぎ捨てて海へ向かったように見えることからその名がつきました。人気の英雄がこうした景観と結びついたとき、神話のフィンは物語を飛び出し口承の中で巨人の姿に変化していったということでしょう。


写真中央手前に見える「巨人のブーツ」は人々が座れるほどの大きさで撮影スポットになっている

「巨人のブーツ」を眺めながら、さらに海岸沿いを数分ほど歩いていくと、背の高い石柱が並んで壁のようになっているところに出ます。「巨人のオルガン」と呼ばれる石柱群です。神話の中のフィンは、詩人でもあり、音楽もよくしたと伝わります。このように大きな岩壁を楽器と解釈するところに神話のフィンの姿を感じることができます。


岩壁を楽器に見立てた「巨人のオルガン」。高さは約12メートル

詩人イェイツを魅了した妖精の住む山、ベン・バルベン


聖なる山、ベン・バルベンを望む

 フィンは巨人としてのエピソードを持っていましたが、その一方で神話の中では妖精の世界とも関わっていました。アイルランドには、妖精に関わる場所もあちらこちらに伝えられています。
 ジャイアンツ・コーズウェイから西へ進んだ海岸沿いに、スライゴーという町があります。この町からは、頂上部が平らなテーブル状の山であるベン・バルベンが望めます。古くから聖なる山とされ、先ほど紹介した英雄フィンは、フィアナ騎士団とともにこの山の森で狩りをしていたと伝えられます。あるときフィンは、その森で出会った一頭の鹿と恋に落ち、やがて結ばれました。のちに二人は離れ離れになりますが、フィンは妻となった鹿を探し続け、ついにベン・バルベンの森で一頭の子鹿に出会います。その子鹿は、自分の息子オシーン(オシン、オイシンとも)でした。ベン・バルベンは妖精が住む山ともいわれ、まさに異界と現世が交錯する地だったのでしょう。ベン・バルベンは、その特徴的な姿から、スライゴーに近づくとすぐに見つけることができます。角度によっては海の向こうに見えることもあれば、牧場の奥に顔を出すことも。なんとも不思議な姿で見え隠れする山そのものが妖精のように感じられてくるのです。

 異界といえばこのオシーンは、まさにアイルランド版「浦島太郎」といっていい人物です。ケルト神話では、海の向こうに「常若の国」と呼ばれるティル・ナ・ノーグという島があると伝えられています。永遠の若さを得られる島には妖精たちが住んでいて、あるときその妖精の一人がオシーンと恋に落ちました。彼女は魔法の馬にオシーンを乗せ、ティル・ナ・ノーグに連れていきますが、三年たったある日、オシーンは故郷を懐かしく思い、帰ることを希望します。妖精は、しぶしぶ魔法の馬に乗せて帰らせますが、そのとき「決して馬から降りて足を地につけてはならない」と言いました。帰ったオシーンは変わり果てた故郷の姿を見て過ぎ去った年月が三年ではなく三百年だったことを知り、さらに馬から転落したことで言いつけに背いてしまい、急激に年老いて消えていったといいます。このオシーンが魔法の馬に乗ってティル・ナ・ノーグに向かったのも、このスライゴーのあたりからと伝わっています。

 スライゴー近郊には、アイルランドでもっとも古いといわれる巨石墓地・カロウモア(Carrowmore Megalithic Cemetery)もあります。カロウモアには約六千年前に築かれたとされる石室をもつ古墳がいくつもあり、ケルト文化よりもはるかに古い時代にさかのぼる遺跡です。異界への通路を思わせる遺跡からベン・バルベンの山を眺め、風が吹き抜けるのを感じていると、人々が妖精たちの住む異界、あるいは死後の世界への入り口が、「ここにある」と感じたように思われます。


カロウモア古墳の奥にベン・バルベン山が見える


カロウモアの遺跡

 フィンやオシーンをめぐる神話、異界への交錯点が伝わるこの地は、アイルランドが生んだ偉大な詩人ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939)を強く魅了しました。彼はケルト文化をこよなく愛し、ケルトの妖精や英雄の物語を集め、詩として世界に伝えましたが、なかでも妖精の棲む山とされたベン・バルベンは特別な存在でした。晩年の遺言のような詩「Under Ben Bulben(ベン・バルベンの下に)」では、「むき出しのベン・バルベンの頂の下 ドラムクリフの墓地にイェイツは眠る」と記し、その言葉どおり、死後、スライゴー近郊のドラムクリフ教会の墓地に葬られました。
 ラフカディオ・ハーンとイェイツ。ほぼ同時代を生きた二人です。イェイツはアイルランドでケルトの妖精たちの物語を題材に取り、ハーンは日本で幽霊などの怪談を再話しました。二人の間には、同じアイルランドの風が吹いていたのかもしれません。
 出雲で雲が神の気配を伝えるように、アイルランドでは風が古代の神話を運んでくるのです。

『古事記・日本書記の物語を体感できる風景・神社案内
「神話」の歩き方』(集英社)

神話学を専門とする著者が、神話の伝わる土地、神話を感じる神秘的な風景を訪ね歩く喜びについて語る。自ら撮影した写真とともに、出雲・日向・対馬と3つのエリアの見どころを紹介。

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著者プロフィール

写真・文 平藤喜久子

國學院大學教授。専門宗教文化士。専門は神話学、宗教学。日本神話を中心に神話や神々が研究やアートなどの分野でどう読まれてきたか、神がどう表現されてきたのか、というテーマに取り組んでいる。神話の風景を探しながら写真撮影を行うことをライフワークとする。現在、ロンドン大学SOAS校で在外研究中。
著書に『人間にとって神話とは何か』(NHK出版)、『「神話」の歩き方』(集英社)、『〈聖なるもの〉を撮る』(山川出版社)など。

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