フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く『源氏物語』~ 奥山景布子

第2回

「ホモソーシャル」な雨夜の品定め

更新日:2022/12/07

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■なぜ男ばっかり?

「源氏物語」の最初の巻は「桐壺」で、ここでは光源氏の出生にまつわる物語が描かれています。時の帝が、後宮に仕えていた一人の更衣を溺愛した結果、生まれた第二皇子というのが、彼のもともとの出自です。

 帝はこの皇子の誕生により、いっそう更衣を重んじるようになりますが、それはかえって周囲との軋轢を生み、やがて心労の積もり積もった母更衣は亡くなってしまいます。残された皇子は、成長するにつれ、人並み外れてすべてに優れた資質を示すようになり、帝はその様子を喜びますが、次第に、「政治的にバックアップしてくれる母方の一族もいないのに、これほど優秀では、かえって災いに巻き込まれる可能性が高くなる」と悩むようにもなります。

 結局父帝は悩んだ末、この優れた皇子を皇族から離脱させ、「源」という姓を与えます。皇位継承をめぐる争いを未然に防ぎたいという帝の願いは、彼に臣下の一人として生きる道を選ばせることになったのでした――ざっくりまとめてしまうとこんな感じでしょうか。「源」の姓を名乗る、光り輝くほど美しく優れた貴公子、光源氏という男性が、どんな両親のもとに誕生し、どんな幼少期を過ごしたかが書かれているのが、「桐壺」の巻です。

 では次はいよいよ、成人した彼の華麗なる恋愛遍歴が展開するのかしら――そう期待して「帚木(ははきぎ)」の巻へ入ると、読者はちょっと肩すかしをくらった気持ちになります。というのは、この巻で最初に、そして長々と書かれているのは「男ばっかりの雑談風景」だからです。おやおや? と思って読み進めると、実はこの場が、年上の男性たちから「女、あるいは恋というものは」を、17才の光源氏が耳学問的に学ぶ場、つまり、実際の女性たちと向き合う前の準備段階であったことが分かり、読者としては「ふむふむ、それで」と納得もし、次の展開への興味も惹かれるという仕掛けになっているわけです。

■筆者のミソジニー体験

 この「雨夜の品定め」と呼ばれる場面を読むたびに、思い浮かべてしまう学生時代の思い出があります。

 私の通っていた大学の文学部では、3年生に進級する時に、それぞれ、研究室に振り分けられることになっていました。無事希望通り、国文学の門を叩けることになった私は、進学予定者向けの説明会に出席するため、指定された場所に向かいました。すべての壁が天井まで本で埋まっているその部屋へ、おそるおそる足を踏み入れようとしていると、数人の上級生らしい男性たちがひそひそと何やら廊下で話をしている気配がありました。……「今年はまあまあかな」「去年の方が当たりだった」「どうも花が少ないな」……。あいにく耳の良い私には、彼らの声が聞こえてしまったのです。

 後ですぐに分かりましたが、彼らはみな、大学院生でした。当時の国文学研究室は、学部生は女子が圧倒的に多い(私の同期も女子10人、男子3人でした)のに、院生はほぼ男子ばかりという不思議な男女比率で、院生たちは新しい学部生が進学してくると、まずはその容姿を品定めしていたのです。

「はずれ」と判定された私は、それならと奮起して猛然と学問に励んだ、かどうかはあまり覚えていませんが、良い気はしなかったのは事実です。ただ、その後、講義や演習に参加するにあたり、そうした男子院生の先輩方と接する機会が多くありましたが、ひとりひとりは皆さん本当に紳士的で、辞書の使い方や文献の探し方など、分け隔てなく丁寧に教えてくださる方がほとんどでした。

 ひとりずつは良い先輩方なのに、あの集団の時の嫌な感じは何だったんだろう――その疑問は、自分が大学院に進んでからようやく解けました。フェミニズム批評について学び、「ホモソーシャル」と「ミソジニー」という概念(注:イヴ・K・セジウィック『男同士の絆』名古屋大学出版会)を知ったからです。女性に向けての差別的なまなざしやふるまいを共有することで、「異性愛者」の「男同士」が絆を深める――まさに先輩たちの言動はこれだったのだと思いました。

「ミソジニー」が「女性嫌悪」と訳されているため、「いやいや、おれたち女性、大好きだよ」とにこやかに言ってくださる方もありますが、どう「好き」なのか、私にはついつい、疑ってかかる癖がついています。

 たとえばアスリートや議員など、各分野で活躍する女性について「美人過ぎる○○」「ママさん○○」などと表現することは、さすがにずいぶん減ってきましたが、「なぜこうした表現がまずいのか」までは、なかなか深く考えられ、共有されているとは言えない気がします。

 これらは、書いている方は褒めたつもりでも、実は女性の役割を狭く限定されたものに固定してしまう言動で、突き詰めれば「自分たちのコミュニティにおいて、女性を対等、あるいは正式なメンバーと認めない、認めたくない」態度や意識につながっているのです。時に無自覚にこぼれてしまう、こうした言動の根底にあるのが「ミソジニー」だろうと私は理解しています。

■探せ! イイ女?

 ちょっと脱線が長くなってしまいましたが――でも「源氏物語」の「雨夜の品定め」にも、私はやっぱり「ホモソーシャル」と「ミソジニー」、それを冷静に物語に写し取ってみせた紫式部の批判的姿勢を、どうしても感じてしまうのです。その理由はおしまいの方で明かすことにして、ともあれ、彼らのおしゃべりに耳を傾けてみましょう。

 場所は内裏、後宮の殿舎である桐壺の一室です。臣下の身になった光源氏ですが、父帝による特別扱いで、亡き母が与えられていた殿舎をそのまま、朝廷へ出仕したときの私室にあてがわれていました。

 時は長雨の続く陰暦五月。帝は何か不都合でもあったのでしょうか、「物忌(ものいみ)」が続いていました。「物忌」とは、体調不良や悪夢など、心身に何か日ごろと違う不調を感じた際、陰陽師の判断を仰いで、一定の期間、行動を制限して謹慎することを言います。父帝の物忌なので、光源氏はその間、宮中で待機していたのでしょう。

 そこをまず訪れたのは、友人の頭中将です。光源氏は生い立ちがあまりに特殊なので、みなが遠慮してしまい、同性の友人はなかなか作りにくかったようですが、この人は左大臣を父に持つ貴公子で、しかも母が帝の妹で、光源氏とはいとこ同士でもあることから、臆せず親しくなったようです。二人ともお互いが女性たちの注目の的であることは自負していますから、「そなたのところには、さぞかし女からの文がたくさん集まっているだろう」と探り合ううち、中将はやがて、

「女の、これはしもと難(なん)つくまじきは、難(かた)くもあるかなと、やうやうなむ見たまへ知る」

(女で、これはと思えて欠点の見当たらないというのは、まずないものだと、だんだんよく分かってきました)

と、いかにも自分が経験豊富だと言わんばかりに語り始めます(このときの頭中将の年齢は22~23才くらいと推定されます)。女性を身分の上下で三段階に分類し、「中流の女が面白い」と結論づけた頭中将の得意げなうんちくに、光源氏が「中流と言っても、もともと中流なのもあれば、下から成り上がったのとか、上から落ちぶれたのとか、いろいろあるだろう」とツッコミを入れていると、さらに二人、男性が話に加わってきます。一人は左馬頭(ひだりのうまのかみ)、もう一人は藤式部丞(とうしきぶのじょう)です。

 ここから展開する四人の(と言っても、話しているのはほとんど左馬頭と頭中将)「女についての話」は、互いの姉妹の存在を軽く当てこすってみたり、政(まつりごと)の人材選びになぞらえてみたり、自分たちの移り気を棚に上げて女には寛容さを求めてみたり、かと思えば芸術に喩えてみたりと、あっちこっちへ飛んで、真面目に読んでいると図々しくて面倒くさくて、正直ちょっぴり飽き飽きしてきます。

 ダレてきた話がふたたび俄然面白くなるのは、それぞれの体験談の披露が始まる後半です。左馬頭からは「しっかり者だが嫉妬深い女」と「見栄えは良いが浮気な女」、頭中将からは「控えめすぎる女」(これは、後の「夕顔」巻への伏線です)、藤式部丞からは「漢籍に精通した女」の話が語られます。

■一夫多妻?

 さて、彼らの勝手な言い分と体験談を冷静に読んでいくと、実は興味深いことに気付きます。それは、彼らの話の中にはどうも、「妻」用の女と「愛人」用の女、両方が特に断りもなく混在しているのです。

 現代の読者諸氏の多くは、「平安時代って一夫多妻でしょう?」と考えているかもしれません。でも実は、天皇家を除けば、原則は一夫一婦制であったとする見解も研究者の間には根強くあり、婚姻制度をめぐる議論は決着しているわけではありません(注:工藤重矩『源氏物語の結婚』中公新書)。

 平安時代にも法律は存在します。大宝律令(701年制定)を757年に改定した養老律令です。その中の「戸婚律」には、重婚を禁止する条文があり、違反すれば男女ともに罰せられるとあります(注:律令そのものは散逸しているが、諸書の引用により復元が行われている。ここでは「万葉集」巻十八、4106詞書を参考にしている)。

 ただ、あまりにも成立から時を経てしまっているため、平安時代にはもはやこの条文は守られておらず、実態は一夫多妻だったと見るべきだという説と、社会の根底には一夫一婦の意識が存在していて、あくまで、男性が正式な妻以外に妾を持つことに、社会全体がとても寛容だったに過ぎないと見る説とがあるのです。

 私としては、後者の考えを採る方が、いろんな事例をすっきり説明できるなあという気がしています。というのは、少なくともある程度の身分ある男性に関しては、「その時点で正妻がいるかどうか、いる場合、それは誰なのか」は対外的にはっきりしていること、母親が正妻かどうかで、子が社会参加の際に父親から受けられるサポートに差があること、子ができないからとか、他に身分の高い女性と関係が出来たからと言って、正妻が他の人に取って代わられる(降格される)ような例は見当たらないこと、などを実例から検証できるからです。

「源氏物語」について言えば、作中きっての怨霊ヒロイン、六条御息所(ろくじょうみやすどころ)が、あれほど光源氏との恋に心を痛めなければならなかった理由や、物語後半で光源氏のもとに女三宮(おんなさんのみや)が降嫁してきた際、紫の上、あるいは周囲の人はどう受け止めていたのかといった解釈も、一夫一婦制の意識が根底には残っている社会情勢を反映していると考えた方が、理解しやすいように思えます。

 ただなにしろ、歴とした正式な妻がいるにもかかわらず、他の女性と堂々と結婚の儀式(今で言う披露宴のような)をすることさえ行われていたので、時代を隔てた私たちから見ると、そのあたりは判然としにくいのだと思われます。

■女を語る男の事情

 結婚制度をめぐる細かい話に深入りしてしまいましたが、「雨夜の品定め」の場にいる四人の男性たちの女性関係はどうだったのか、一度確かめてみましょう。

 光源氏にはもうこの時点で正妻がいます。この場に同席している頭中将の妹で、葵の上と呼ばれる女性です。元服(男子の成人の儀式)と同時に親同士が決めた政略結婚で、どうもあまりしっくりいっていないと書かれていますが、簡単に離婚なんてできないのが政略結婚。もし光源氏がどうしても離婚して他の女性と再婚したくなったりしたら、左大臣家と帝との関係が悪くなってしまいます。さらに、再婚したい相手が誰かによっては、政治の世界を大混乱させる事態にだってなりかねません。

 帝の皇子という特別な出自ではあっても、政治的にバックアップしてくれる母方の親族を持たない彼は、本音はどうあろうと葵の上=左大臣家を尊重し、あとは家同士のつながりに配慮しなくていい、「こっそり」楽しめる、「できるだけ差し障りの少ない」恋の相手を漁るしかないのです。となれば当然、相手の身分は「中流以下が良い」ということになるでしょう。

 さて、一方の頭中将。光源氏は自分の妹の夫なのに、なぜ頭中将は彼を相手にこんな内緒話なんかできるんだろう、ひどい――現代の読者はそう思ってしまうかもしれません。そこは時代背景の違いとしてご容赦いただくしかないのですが、女性関係においては、頭中将の側にも同じような事情があります。彼の正妻は右大臣家の四女です。右大臣家の長女は帝の女御で、皇太子の母でもありますから、この結婚はいわば左右大臣家が必要以上に争わないための提携の証し。となれば、彼もやはり、間違っても離婚はできません。彼も光源氏と同じように、今可能な恋の相手は、「中流以下」の差し障りのない恋人ということになります。

 同じような状況にある二人の貴公子――頭中将がここで、光源氏の女性関係にいささか下衆な探りを入れるのは「窮屈なのはお互いさまさ。まあほどほどにしておいてくれれば、妹にも父にも内緒にしておくよ」といった「悪事」の意識の共有。いかにもホモソーシャルと言うにふさわしい絆の深め方と言えそうです。

■求む、内助の功

 では、あとの二人はどうでしょう? 体験談の内容から察するに、左馬頭は「しっかり者だが嫉妬深い女」を妻、「見栄えは良いが浮気な女」を愛人にしていた模様。一方、藤式部丞の「漢籍に精通した女」は明らかに妻です。

「源氏物語」のここにしか登場しない人物なので、詳細は特定できませんが、左馬頭は従五位上相当(注:「位」は朝廷に仕える者の序列、「官」は任命された役職。「位」と「官」とは対応しているのが原則で、たとえば左大臣と右大臣は正二位か従二位、中将ならば従四位下のようになっていた。「位」はあっても「官」のない者も多く、その状態は「散位」と呼ばれた)、式部丞は六位相当の官職であること、二人とも光源氏や頭中将より年長らしく書かれていること、有力な血縁者とのつながりは書かれていないことなどを考えると、光源氏と頭中将に比べて、二人の身分は一段低いと見て良いでしょう。

 もともと出自に恵まれているお坊ちゃん組に対し、こちらは自力でなんとか出世を勝ち取りたい二人だと考えられます。そうなると、妻を選ぶのは親ではなく、自分の才覚。通い婚で始まる当時の結婚では、若い男性の暮らしの世話は妻の方で面倒を見るのが習慣です。できるだけ出世の助けになりそうな女を探さなくてはいけません。

 当時の朝廷では様々の儀式を滞りなく行うことが重要視されていましたから、男性たちにはTPOに合った装束を調えることが大きな課題の一つでしたが、それを担うのは妻の役目。これについては単に妻個人の染めや仕立ての技術の巧拙にとどまらず、質の良い布を入手したり、技術を持った使用人を雇ったりできるかといった経済的な問題もついてきます。彼らには彼らで、光源氏や頭中将らのお坊ちゃんたちとはまた違う、妻選びの苦労があるのです。

 さきほど、頭中将が女を上中下に分けたと紹介しましたが、実は語っている男の方にだって上中下があり、それによって恋模様や結婚生活はまったく違ったものになるのです。男の方が中流なのに、上流の女と結婚や恋愛ができるチャンスなんて、この時代にはまずありませんでした。そのことは、左馬頭や藤式部丞はおそらく身に染みていたと思いますが、光源氏や頭中将は、この日、左馬頭の話を聞いてみるまで、案外気付いていなかったのかもしれません。

 さて、左馬頭によれば、「しっかり者だが嫉妬深い女」はこんな様子だったといいます。

「もとより思ひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、後れたる筋の心をもなほ口惜しくは見えじと思ひ励みつつ、とにかくにつけて、ものまめやかに後見(うしろみ)」

(もともとは自分の知らないことでも、なんとかしてこの人のためにはと、無い知恵をしぼり、不得意な事柄も、「やはり残念な女だ」などと見られないようにと努力しながら、何かにつけて、実直に私の世話をしてくれて)

「竜田姫と言はむにもつきなからず、織女(たなばた)の手にも劣るまじく、その方も具して」

(染め物の腕前は紅葉を染める女神である竜田姫に喩えてもふさわしく、仕立て物の方も七夕の織り姫にも劣らないだろうというほど、その方面の腕もあって)

 この女性はどうやら、甲斐甲斐しくて頼りがいのある妻だったようです。でも、彼女が「もの怨(ゑん)じ」――嫉妬深いという点をどうしても改められなかったことから、二人の間柄は破局に向かってしまいました。ある日、覚悟を決めていたらしい女は、左馬頭が今夜きっと我が家に来るだろうと予想した上で、「親の家」へ出かけてしまったのです。女からの、別れの宣告でした。

 通い婚というと、女の方から別れを言い出すのが難しいように思われがちですが、女に頼れる親がいた場合は、できない話ではありません。実際の例でも、「蜻蛉日記」には、作者である道綱母が、親の指図で引っ越しを行い、兼家(道長の父です)との夫婦関係を解消したとあります。

 この嫉妬深い女と縁が切れてしまったあと、左馬頭はすぐには妻候補を探せなかったようです。とりあえず、以前から「時々隠ろへ」(時々こっそり)会っていた、つまり「愛人」として付き合っていた女を訪れると、なんと他の男と浮気の真っ最中。うっかりその一部始終を見てしまって、こちらとも別れるしかなくなります。

 この浮気女の話に頭中将は思わずうなずき、光源氏は、

「すこしかた笑みて、さることとは思す」

(微笑を浮かべて、そういうことも確かにあろうと思う)

と反応します。中流の女たちとの恋の魅力と危険、両方を感じての反応なのかな、と思しき場面で、頭中将が思わず自らの体験談、「控えめ過ぎる女」との話を漏らすきっかけにもなっています。

 頭中将の恋人だった「控えめすぎる女」は、娘まで生まれた仲だったのに、存在を右大臣家に知られ、脅迫まで受けたために、頭中将には何のことわりもなく、行方をくらませてしまいます。

 右大臣家を脅かすような家のつながりなどない女だったようですが、これを聞いた光源氏は、おそらくさぞぎょっとしたことと思います。あるいは、かつて自身の母の命を縮めた心痛の原因は、やはり、同じく右大臣家の長女である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の仕打ちにあったにちがいないと、答え合わせをするような思いに駆られて、会ったこともないその女に、深い同情を寄せたかもしれません。

■オチは?

 こうして体験談の披露もたけなわ――といったところで、これまであまり口を挟んでこなかった藤式部丞に出番が回ってきます。

「式部がところにぞ、気色(けしき)あることはあらむ。すこしづつ語り申せ」

(式部のところには、いっぷう変わった話があろう。少しずつ話して聞かせよ)

 頭中将からの催促。実は、藤式部丞だけが「六位」というのには、もう一つ見逃せない背景があります。朝廷に仕える役人のうち、貴族とされるのは五位まで。六位の式部丞ではまだ貴族のうちに入らないので、彼一人だけ、身分に大きく差がついているのです。その身分差からなのでしょう、頭中将の言い方はかなり「上から」に感じられます。

 そして、この「気色ある」という言葉、なかなかくせものです。私はとりあえず「いっぷう変わった」と訳してみましたが、「不気味な、あやしい」という意味にも使われるからです。

 男同士の話もずいぶん長くなった。そろそろ終わりにしよう。ついてはおまえ、最後にちゃんとオチをつけろよ――どうもそんなニュアンスが感じられます。そうして始まった体験談は、藤式部丞が「博士の娘」を妻にしていた時の話というものでした。

 当時の博士とは、大学寮、陰陽寮、典薬寮といった、学問や技術の分野を担当する機関の上級職です。後進の指導にもあたりますので、今で言うなら、国立大の大学教授に近いでしょうか。光源氏や頭中将のようなお坊ちゃんは、こうした機関で学ばなくても出世のチャンスに恵まれますが、自力でなんとかという男性にとっては、力を付けるための大切な機関でした。

 博士に教わって懸命に漢籍を学ぶうち、その娘と結婚することになった。そして始まった結婚生活とは――藤式部丞は、鼻をひくひくさせながらもったいぶって語っていきます。「寝物語にも漢詩文を教わり、交わす手紙にはいっさい仮名を交ぜず、そうして妻を師として漢詩を作る日々が続きました、さすがに気の休まらない暮らしでしたので、足が遠のくこともございました」と。

 そんなある日、久々に女のもとを訪ねてみると、いつになく、「物越しの対面」という扱いを受けます。女が几帳の陰などに引っこんで顔を見せないというのですが、夫婦間でのこうした態度は、たいてい女の方が何か不満を抱えていて、男に「ちょっと察してよ」と訴える時のものです。なので、藤式部丞は「今更やきもちか、この女にしては、らしくない」と、感じたのですが、この女の事情はいささか違ったようで、本人がこう説明します。

「月ごろ風病重きにたへかねて、極熱(ごくねち)の草薬を服して、いと臭きによりなむえ対面賜らぬ。目(ま)のあたりならずとも、さるべからむ雑事(ざふじ)らは承らむ」

(ここ幾月、風病が重いのをがまんしかねて、極熱の草薬を服用し、ひどく臭いので、ご対面はご遠慮します。直接お顔は見ずとも、しかるべきご用などは、承りましょう)

 とりあえずなんとか現代語にしてみましたが、この部分の「女性が漢文のごつごつした口調で話している」異様さをお伝えするには、私のこの訳では力不足かもしれません。それぐらい、この女の様子は「気色ある」(不気味)なのです。

 さすがに嫌気が差した藤式部丞。逃げ腰になりつつ歌を一首残して去ろうとしましたが、女はそれにも素早く返歌をしてきたと言い、一部始終を語り終えた彼の様子は「しづしづと」(重々しく)と描写されます。一方、聞き手である頭中将や光源氏は「そらごと(つくり話)」と言って笑い、どこにそんな女があるもんか、鬼と向かい合っている方がましだと「爪はじき」をした、とあります。「なんだそりゃ、あっちへ行け、しっしっ」とでも言いたげな態度ですが、これはもちろん、真面目に非難しているわけではなく、まさに藤式部丞が期待通りにうまく「ボケ」て「オチ」をつけたことに、頭中将たちが喜んで「ツッコミ」を入れている仕草と読むべきでしょう。

■見習いたい、作家根性

 漢文を自在に操る、夫より博学な博士の娘――この連載の第1回を読んだ方なら、きっと作者の紫式部が自身を投影していると察してくださったことでしょう。左馬頭には「源」とも「藤原」とも「平」とも、姓を特定する表現がないのに、わざわざ式部丞だけ「藤」を冠しているのも、自身が藤原氏であることと無縁ではないはず。そもそも紫式部の本来の召し名(宮仕えのために名乗る名前)は「藤式部」でしたし。

 ホモソーシャルにおいて繰り広げられた「女をめぐる話題」。その最後を飾るにふさわしい、「ひどい女」をみなで笑う話。まさにミソジニーらしい「オチ」。そこに自身を彷彿とさせる、漢籍塗(まみ)れの女を持ってくる――とんでもない作家根性だなあと、私はいつもここを読んで、拍手喝采してしまいます。

 どうせ男は、自分より漢籍に通じている女のことなんか、本音ではこんなふうに思っているに決まっている。それぐらい、こっちだってよく分かってる。清少納言なんてちやほやされて良い気になっていたみたいだけど、気をつけた方が良い。男の本音なんてこんなもの。鬼とでもなんとでも言うが良いわ――「紫式部日記」に残された清少納言への悪口とも通じる、幾重にも底を構えた鋭い作家の筆、まさに「鬼」のような強いまなざしを、私は「雨夜の品定め」に感じずにはいられません。


 さて、まだちょっとだけ紙幅に余裕があるみたいなので、私事の蛇足をもう一つ。
 実は今回、ここでお話しした内容のもとになった研究の途中経過を(史実における平安貴族の婚関係の例の分析、物語や日記類に書かれた夫婦関係との照合など)、私は一度、とある研究会で発表したことがあります。もうかれこれ二十余年ほど前になるでしょうか。

 その時、私が発表を終えると、一人の紳士が真っ先に手を上げて、次のようにおっしゃいました。

「こんな骨太でしっかりした研究を、こんな魅力的な女性が手がけていることに、僕はたいへん感銘を受けました。会のためにも喜ばしい」

 これを聞いて、失礼ながら私はため息を吐くしかありませんでした。研究発表後の質疑応答の場だというのに、なぜ開口一番、「発表者が女である」ことに言及されてしまうのか。研究内容に、それがいったい何の関係があるのか。もし、同じ内容の発表を男性がしても、決して「こんな魅力的な男性が」とは言われないでしょう。

 二度とこの会には出席するまい――壇上で発表資料を握りしめながら、私はそう決意し、そのとおり実行してしまいました。今の私なら、もうちょっとうまく紫式部の力を借りて切り返せるのにと思うと、それだけはいささか心残りでもあります――若くて不器用だった当時の自分の肩を、ぽんと叩いてやりたい気がします。

【参考文献】
◆『男同士の絆--イギリス文学とホモソーシャルな欲望』イヴ・K・セジウィック著、上原早苗・亀澤美由紀訳(名古屋大学出版会)
◆『源氏物語の結婚』工藤重矩著(中公新書)
◆『新編 日本古典文学全集』(小学館)
※「紫式部日記」「源氏物語」の引用については『新編 日本古典文学全集』(小学館)に拠っていますが、表記など一部は私的に改めたところがあります。

イラスト/中島花野
タイトルデザイン/小松昇(ライズ・デザインルーム)

著者プロフィール

奥山景布子(おくやま きょうこ)

1966年生まれ。小説家(主なジャンルは歴史・時代小説)。名古屋大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。主な研究対象は平安文学。高校講師、大学教員などを経て、2007年「平家蟹異聞」で第87回オール讀物新人賞を受賞し作家デビュー。受賞作を含む『源平六花撰』(文藝春秋)を2009年に刊行。2018年、『葵の残葉』(文藝春秋)で第37回新田次郎文学賞、第8回本屋が選ぶ時代小説大賞をW受賞。近刊は『やわ肌くらべ』(中央公論新社)『葵のしずく』(文藝春秋)など。2023年1月には『元の黙阿弥』(エイチアンドアイ)を刊行。文庫オリジナルの『寄席品川清州亭』シリーズ(集英社文庫)や、児童向けの古典案内・人物伝記も精力的に執筆。古典芸能にも詳しく、落語や能楽をテーマにした小説のほか、朗読劇や歴史ミュージカルの台本なども手掛ける。「紫式部」を素材にした書籍としては、紫式部と清少納言が現代の子どもに向かって話しかけるスタイルの児童向け伝記『千年前から人気作家!清少納言と紫式部<伝記シリーズ>』(集英社みらい文庫)がある。
公式ブログ http://okehuko.blog.fc2.com/

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