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読むダイエット 高橋源一郎

第15回 戦争と味噌汁

更新日:2022/11/16

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アナーキズムとしての味噌汁

 体調は良好である。みなさん、ご心配なく。
 そもそも、この連載開始の理由であったダイエットに関しては、その存在理由はほぼ消滅している。なにもしなくても、体重は62キロ台をキープ。もはや「ダイエット」は卒業してもいいのかもしれない。その代わり、次のフェーズである「食事」そのものの本質を問う旅はつづいている。考えるべきこと、考えさせられることは多い。いうまでもなく、「食(事)」は、人間の本質だからである。

 わたしの食生活の目下の流行は「一汁一菜」だ。もちろん、料理研究家の土井善晴さんに教わったのである。
「一汁一菜」は、別のいい方をするなら「汁飯香(しるめしこう)」になる。味噌汁とご飯と香の物(漬物)、それだけだ。ちなみに、わたしは1日2食なので、1回は「一汁一菜」にしている。中身は「具沢山の味噌汁」+「玄米ご飯」+「キムチ」である。ほんとうは「キムチ」ではなく、ぬか漬けをつくりたいと思っている。もしかしたら、次回には、ぬか漬けが登場するかもしれない。そのときには「一汁一菜」が完成しているはずだ。
 土井善晴さんを、わたしがパーソナリティーをさせていただいているラジオ番組にお招きした。番組でのお話もたいへんおもしろかったが、書かれたものからも深い感銘を受けた。とりわけ「一汁一菜」に関するエピソードである。

 いまからおよそ7年前、土井さんが「食」に関する連続講座を開いていたときのことだ。そのうち「大人の食育」と題する回のとき、こんなことが起こった。

「(前略)大勢の若い人が集まってくれました。これから新しい家庭を持つというカップルや小さな子供を抱えた若いお母さんがそこにいて、話を聞く機会があったのです。なにを求めてここにやってきたのでしょう。
 聞いてみれば、こんな返事が返ってきました。
 幸せな家庭を持ちたい。自分の子供は自分で作った料理で育てたい。でも、お料理ができない。したことがなくて、どうしていいかわからない。
 口を揃えてそう言うのです。
 それなら『味噌汁とご飯でいいのです』と話したのが、一汁一菜の始まりでした」(『一汁一菜でよいと至るまで』新潮新書)

「ご飯をつくる」のは、難しいことではない(もちろん、簡単でもない)。つくり方なら、どこでも見つけることができる。無数のレシピ、無限に近くある調理法を教えてくれる動画。わたしも、しょっちゅう利用している。
 だが、誰もいわないことだが、実は誰しも心の中で思っていることがある。わたしも長い間、ずっとそう思っていたことだ。
 なにかを見ながら、教わりながらつくるのは、実は「めんどうくさい」のである。
 レシピが細かければ細かいほど、じっくり見なきゃならない。レシピに書いてある食材を揃えなきゃならない。どうしても必要な調味料を買ってこなきゃならない。途中で、何分も、ときには何十分も待たなきゃならない。それらがみんなめんどうくさいのである。
 そんなとき、ずっと、わたしたちにご飯をつくりつづけてくれた(たいていは)「お母さん」に深く感謝するのだ。ほんとにありがとうございました!
 いちばんいけないのは、たまにしかつくらないのに、複雑な料理をつくろうとすることだ。準備に時間をかけ、料理に時間をかける。なんのために。まあ、自己満足ではなく誰かにご馳走するならいいのだが。家族だって、そんなに手間隙かけて料理をつくってもらうくらいなら、レストランに行った方がいい、と心の内では思っているはずである。

 この連載でも、わたしは、いろいろな料理をつくった。その中には、とても「料理」と呼べそうにないものも混じっている。それでも、なんだかちょっと工夫したくなる。オリジナルのドレッシングをつくってみたり、レシピに一工夫つけくわえてみたり。ただし、それは、気持ちに余裕があるときだ。正直にいって、毎回そんなことできません。それに、わたしは、ふだん家族に料理をつくっているわけではない。根本的なところでは、蕎麦打ちをする定年退職後のサラリーマンと同じだ。やりたくないときにはやらなきゃいいのである。
 いや、わたしは一介のものかきにすぎない。なんだかんだいっても、料理はやりたいときにやりたいものをやる、それで終わりなのである。
 だが、「料理研究家」である土井善晴の場合はちがった。そして、土井さんに向かって投げかけられた、あのことばは、土井さんの心をえぐったにちがいない。

「幸せな家庭を持ちたい。自分の子供は自分で作った料理で育てたい。でも、お料理ができない。したことがなくて、どうしていいかわからない」

 わたしは小説家だから、小説をたいへん愛しているし、ものすごいものだと思っている。けれども、さすがに、こういわれたことはない。

「幸せな家庭を持ちたい。自分の子供には自分で書いた小説を読ませたい。でも、小説が書けない。書いたことがなくて、どうしていいかわからない」

 この質問を聞いたとき、わたしは思わず「負けた……」と呟いたくらいだ。
 そして、これほど根本的な問いかけはないように思えたのである。
 根本的な問いかけには、根本的なところから答えるしかない。そして、土井さんの答えとは、「一汁一菜」の提案だったのである。

 さきほどあげた『一汁一菜でよいと至るまで』の中で、土井さんはこんなふうに書いていらっしゃる。

土井善晴『一汁一菜でよいと至るまで』
新潮新書

「地球と人間の間に料理があります。料理をすることは、地球を考えることです。この頃、魚を食べる度に海が気になります。地方に行けば、漁港や市場にいつも行きますが、どこに行っても魚が取れなくなった、いなくなったという話を聞くからです。(中略)
 どうぞ料理をしてください。料理をすれば、地球を思うことができるでしょう。(中略)この身体は全部、これまで自分が食べたもので大きくなったのです(中略)人間は自然の一部なんですね。(中略)
 作る人と食べる人の関係は、表現者と観客のようです。いい芝居を見たいなら、良い観客にならないといけません。ちゃんと食べ物に向き合ってください。一生懸命食べてください。美味しく食べてください。一生懸命食べる姿は尊いと思います。
 料理した人が、料理を食べてくれる人を見ると幸せな気分になるものです。一人暮らしでも、自分でお料理して食べてください。そうすれば、いつのまにか、自分を大切にすることができるようになっています。
 自分で料理して自分で食べる。料理して家族に食べさせる。家族が作ったものを自分が食べる。だれが作ってもいいし、だれが食べてもいいのです。(中略)
 同時に、料理することこそ、自立につながります。料理をする人は自分で幸せになれる人です。自立しないと、人の言うことを聞くばかりになります。自立していないと、自分のことなのに自分で決められなくなります。自分のことは自分で決めたいと思ってもできなくなるのです」
「ある高等学校の講演会で話した時、全員が感想を書いてくれました。一人の男子生徒は『家庭料理のない家もあるのだから、家庭料理の話をしないでくれ』と書いていました。これには驚きましたが、そういう時代なのかもしれません。ですが、その生徒には『ご飯を作ってもらえないなら、自分で作ればいい』と答えておきました。
 ご飯を作ることで自分を守ることができるからです。高校生はもちろん、小学生でもできることです。(中略)
 そうして自分を守るものとして、一汁一菜は、老若男女のだれでも救うのです。おいしくないものはありません。なにしろ、『味噌と食材におまかせ』でいいのです。まかせておけば不味くなりようがないのです。それが味噌汁を中心にした一汁一菜です」

 ここには、料理、あるいは、「食」に関する本質が、あますところなく書かれている。わたしはそう思えた。
 大切なのは「自分で料理する」ことだ。土井さんのいうように、ほんとうに、なにかを知りたいと思ったら、鑑賞者ではなく、それを自分でやってみるのがいちばんいい。というか、それしかないのである。わたしは、小説が大好きで、もっと知りたいと思った。だから、小説家になった。小説家になると、小説のことも、読者のこともわかる。さらにいうなら、もっとたくさんのことがわかる。それは、小説を書くことで、自由になることができる、ということだ。あるいは、小説を読む、ということで。
 小説を読むことでさえ、そうなのだ。だとするなら、人間にとって、もっとも根本的な事柄である「料理」においては、さらに重要ということになるだろう。
 料理をすることは自立につながる、というのも、おそろしい卓見だと思う。家庭の中で、「つくる人」と「食べる人」の間に壁があるとき、その家庭には、真の自由はない。まったく同感だ。よく世間で、定年退職後、家で行き場を失う夫たちのことが話題になる。あるいは、その夫たちに、妻たちは「離婚届」を叩きつける。その夫たちは、ほとんど全員、ずっと長い間「食べるだけ人」であって、「つくる人」ではなかったのだ。
 これは以前書いたことがある気がするのだが、わたしの父は、典型的な「食べるだけ人」だった。古典的なほど「昭和の父」であった。なにしろ、「家庭科などを男の子に教えるな」と学校に文句をいいにいったぐらいだ。とんでもないクレーマーである。もちろん、台所に入っているところなど見たことがない。「妻は夫に奉仕すべき」教の忠実な信徒だったのである。だが、最後に、妻(わたしの母である)に見捨てられ、家族(わたしや弟)から見捨てられ、ひとりになった。ひとり暮らしになって料理を始めたようである。なにしろ、誰もつくってくれる人などいなかったのだ。そこから、父の性格は少しずつ変わっていった。なんだか「いい人」になっていった。他人の話を聞くことができる人間に、である。老いのせいもあったのかもしれないが、わたしは、料理(洗濯や掃除も)をするようになったからだと思う。
 それまで我がままだった父は、ようやく、「料理」を自分のためにつくることを通じて、自分を大切にすることを知ったのだ(なにしろ、変なものをつくったら、健康に悪いのだから)。そして、誰かを大切にするということは、どういうことなのかも。晩年になって、ようやく、父は「自立」することができたのである。
 小学生でも料理をつくればいい。同感だ。もちろん、小学生だってやらなきゃならないことはたくさんある。しかし、料理をつくれるようになれば、最高だ。いつだって、外の世界へ飛び立つことができるのだから。
 そりゃあ、コンビニを利用することもいいだろう。サイゼリヤならけっこう安いだろう。それでも、わたしは、土井さんと同様、料理をつくることを勧めるのである。これまで長い間、ほとんど料理をしなかったことの反省をこめて、である。料理をつくることの中には、ただ食べるものをつくる、という以上のものが含まれているからだ。

 そんなことを書いた後、最後に、土井さんは「一汁一菜は念仏だ」という結論に達したのである。「念仏が悪人も善人も全ての人を救うように、一汁一菜も全ての人を救うから」なのだと。
 この「一汁一菜は念仏だ」という考え方を、わたしなりに解釈してみたい。そこには、わたしたちに必要な智恵が隠されているように、わたしには思えるからだ。

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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