Nonfiction

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読むダイエット 高橋源一郎

第9回 この世界の片隅に

更新日:2021/05/26

死んだらそれまで

 ようやく、最後の『ばぁば、93歳。暮らしと料理の遺言』(鈴木登紀子著 主婦と生活社)にたどり着いた。感無量だ。この本、ひときわ大きく「遺言」と印刷されているのである。そりゃあもう、心して読むしかありません。ちなみに第一章のタイトルは「長生きしてわかったこと」で、サブタイトルは、「ばぁば、93歳。人生の仕舞い方」である。
 はっきりいって、この本、「料理」や「健康」、「ダイエット」のコーナーではなく、「冠婚葬祭」とか「終活」のコーナーに置かれている可能性がある。それだけは気をつけてください。なにしろ、本を開いて読んでいくと、こんな文章が目に入るのだ。

「私の母は、脳溢血である日突然倒れ、私が駆けつけたときにはもう意識はありませんでした。夫はある朝、ソファに座ったまま亡くなりました。大切な家族が予期せぬ形で、けれども大往生で亡くなっているので、死というものはある日突然そのようにしてやってくるものだと心しています」

鈴木登紀子『ばぁば、93歳。暮らしと料理の遺言』
主婦と生活社

 ちなみに、「ばぁば」こと鈴木登紀子さんの夫が亡くなられたのは91歳のとき、「ある朝、ソファに座ったまま亡くなりました」ですよ。いわゆる「ぽっくり」だが、これ以上のものは考えられない。わたしの知る限り、『ベニスに死す』のラスト(ヴィスコンティの映画版)で、主人公の小説家が愛する美青年を眺めながら死んでゆくシーンに匹敵するほどの大往生だ。でも、『ベニスに死す』の主人公はまだ50代だったのである。「ばぁば」だけではなく、その夫も、うらやましい人生をおくったというしかありません。夫の食事も、「ばぁば」が作っていたのだろう。となると、この本の信憑性は、通常の健康本の2倍はあるはずだ。
 さらに読み進むと、この「ばぁば」、「ラブおばさん」をも超える不真面目な人であることがわかるのである。

「これまでの人生を振り返ってみますと、『食欲がなかった』という時代はないわね。いつでも、おいしいものを食べたい、家族に作ってあげたいという気持ちで生きてきたように思います。
 今でも1日3食、ほぼ決まった時間にいただかないと自分の機嫌が悪くなってしまうの。だって、先が短いんですもの、1食たりともおろそかにはできませんわ。それに、おやつだってしっかりいただきます。糖尿病ですから、本当は甘いものもあまりいただけないのですが、食べちゃったらね、『今度は、気をつけよう』『あとで、炭水化物を少し減らそう』って反省だけするのよ、実行はできないのですが」
 実行しないのかい! っていうか、糖尿病なんでしょ、「ばぁば」!

「甘いものだけではなく、塩分も控えなさいとお医者さまには言われています。ふだんのお食事はなるべく味つけを薄くしていますがじつは私、お寿司が大好物なのです。お寿司って、おしょうゆをつけるし酢めしにも塩分が多いから、いただいた次の日は、足が象さんのようにむくみます。『あら、またお医者さまとの約束破っちゃったわ。今度、気をつけましょう』ってこれまた反省はします。でも、外食に行き、板さんが握ってくれたものを前にしますと、『こんなすばらしいお寿司、死んだら食べられないわ、今、食べとかなきゃ』と思うのです」
 全然、いうこと聞かない人だったのである。それは、この本の中にちりばめられた「ばぁば」の金言を読めばわかるのだ。

「昔から、運動を習慣にしたことはありません。日ごろから家事で体を動かしていたので、それがいい運動になっていたのではないかしら? おかげでこの歳まで生きてこられているように思います。ただ若い頃から、ぽっちゃり型の体型ではありましたので、運動をしたほうがきっとよかったのでしょうけれど、とは思っております。食欲も旺盛でありますので、ダイエットをしたことはありません。つらいことはいやなのです」
 もうはっきりいって、わたしの連載の趣旨とは正反対のことをいっておられます。でも、それでいいのだ。多様性を重んじるわたしとしては、わたしとは異なった意見の方の発言もとりあげたい。「ばぁば」に敬意を表して。

「90歳を過ぎた今は、友達とか人間関係なんて、気にしない。好かれようと、嫌われようと、どうでもいいじゃない、っていう心境です」
「年寄りは、人にめんどうをかけるものなのよ。それでいいのではないかしら?」
「歳をとって『めんどう』なことはどんどんやめていきました」
「肌のお手入れもやったことがありません」
「お金の管理も、ザルなの」
「自分がやりたくないことは、しない」
 どうだろう。見事な生き方だ、というしかない。長谷川町子の名作『いじわるばあさん』に通じるものを感じる方もいるだろう。
 ところで、「ばぁば」は糖尿病になっただけではない。87歳のときに大腸がん、89歳で肝臓がん、91歳のときには心臓発作を起こした。けれども、まったく挫けないのである。がんといったって「自分の体内にできるものは、自分の一部」、「もうしばらくは生きていたいから、あなたたちがん細胞も、おとなしくしておいてくれない?」と思うだけなのだ。

「ばぁば」こと鈴木登紀子さんが生まれたのは1924年。八戸に生まれた「ばぁば」が結婚のため上京したのは1947年のことだった。「ばぁば」もまた職業として料理家を選んだのではなく、子どもの友だちのお母さんに出したものが美味しかったことがきっかけで、気づけば料理家になっていた。テレビの料理番組に出演するようになったときには、既に46歳だった。そして2020年、肝細胞がんで逝去。享年96歳だった。

この世界の片隅に

 もう一度、3人のおばあさんたちの生年を記してみよう。
「ラブおばさん」こと城戸崎愛さん……1925年生まれ
「タミ先生」こと桧山タミさん  ……1926年生まれ
「ばぁば」こと鈴木登紀子さん  ……1924年生まれ

 そして、答合わせである。
 マンガとアニメで話題になった『この世界の片隅に』の主人公、北條すず(結婚前は浦野すず)さん
                ……1925年生まれ
 ちなみに、わたしの母親である高橋節子さん
                ……1926年生まれ

 そう。彼女たちは全員、1925年(大正14年)のあたりで生まれ、あの戦争の最中に青春時代を過ごし、敗戦をほぼ二十歳で迎えた女性たちだったのだ。彼女たちの料理、食べるものたちの原点は、戦争下にあったのである。
『この世界の片隅に』には、繰り返し、すずさんが料理をするシーンが出てくる。それは、戦争を描くときもっとも必要なのは、いわゆる戦闘シーンではなく、銃後の一般民衆が直面しなければならなかった空腹という現実、それに立ち向かった、とりわけ女たちの「台所という戦場」での「料理という戦闘」シーンであることを、原作者も監督もよく知っていたからなのである。
 彼女たちのことばを読んで、わたしは、共通するなにかを感じた。
 それは、生き生きしたなにか、であり、また同時に、「やけっぱち」なとも思える自由奔放さであった。おそらく、それは、いつ死ぬかもわからぬ日々、周りで人々が次々と無惨に死んでゆく風景を見つづけてきたからこそ生まれた、ある種の「明るいニヒリズム」なのかもしれない。仕事をする女性たちがまだまだ少なかったあの時代から、彼女たちは、堂々と自分の手で道を切り開いてきたのである。そんな彼女たちにとって、「健康」であることなど、たやすいものであったのかもしれない。
 もしかしたら、健康で長生きするために必要なのは、レシピや方法ではなく、彼女たちが持っているような自由な精神なのではないだろうか。わたしは、そう思うのである。

 今回は、名料理家のみなさんの本をとりあげたにもかかわらず、具体的なメニューやレシピがほとんどなかったので、一つだけ、紹介して、終わりにしたいと思う。
『この世界の片隅に』に出てくる「楠公飯(なんこうめし)」である。
 戦時中の節米食といわれる「楠公飯」は、食料不足の際、米の「かさ」を増すために、楠木正成が考案したといわれる料理だ。それを、映画の中で、すずさんが炊きあげ、みんなが食べる。そして「うーん……」と無言になるシーンは忘れがたい。
 それでは作ってみませう。

(1)米をよーく煎る(ここで米がはじけて増量する)
(2)3倍の水を入れ弱火でじっくり炊きあげる
 その結果できあがるのは、量的に2倍に増量した「お粥っぽいご飯」なのだそうだ。どのような味なのかは不明。ただし、「美味しい」という感想は、見たことがありません。お試しのほど、どうぞ。米ではなく玄米にしたら、ダイエット食になるかもしれませんね。

撮影/中野義樹

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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