Nonfiction

読み物

Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

ムカデさん

更新日:2019/08/07

 一カ月近く前だろうか、うぎゃあああという妻の絶叫が玄関からきこえた。何だ、何だと駆けつけると、「これまでで一番でかいやつ……」と彼女が地面を指さした。見ると靴と靴の間に体長十数センチのかなり大型のムカデが移動行為の真っ最中である。ムカデの歩行は、人間の歩行とちがって関節の動きにむだがなく、歩行と呼ぶには少し躊躇(ためら)いをおぼえるほど滑らかだ。無数にある脚を、まるで電気信号で統御された機械のように寸分の狂いもなく順番に動かすことで、脚一本一本を使うのではなく、脚全体に波を起こして、その波にのって身体全体を推進させる、みたいな歩き方をする。その歩行はある意味、洗練されており典雅だとすらいえる。しかしその脚と歩行の様態がどんなに機能美にすぐれていても、全体の相貌がグロテスクで人間の感覚からすると嫌悪感をいだかせるものなので、私はさしあたり必要な写真を撮ると、すぐに妻に殺虫剤をもってくるよう指示した。いわゆる害虫とよばれる類の生き物をことのほか嫌悪する妻は、かねてより買いためていた殺虫スプレーのなかからムカデに効果が高い強力なタイプのものをチョイスし、ここぞとばかりに噴霧した。しかしその噴霧ぶりに中途半端な感をいだいた私は「そんなんじゃダメだ。ちゃんと殺さないと卵を産んで増殖するぞ!」と徹底的な死を主張、スプレーを奪い取り、小賢しくも鼻をおさえて毒を吸いこまないようにと自らの健康に配慮したうえで、徹底噴射した。毒物をあびせかけられ全身真っ白になったムカデは大混乱におちいり、めまぐるしい速さで脚全体に波を起こし、玄関先の段差の角にはいったセメントの割れ目に逃げこんだ。強力な毒物をあれだけあびたのだからこの割れ目のなかで苦しみ、悶絶し、絶命するだろう。
 今思えばむごいことであるが、しかしムカデを殺す瞬間、私がこの殺害行為に罪悪感をおぼえたかといえばノーである。あっはっは、悪いヤツが死んで爽快である、とすら思っていた節がある。しかし、たとえば北極で海豹(アザラシ)や麝香牛(ジャコウウシ)などを対象に狩りをするときは罪悪感をおぼえる。生き物というものすごく大雑把な範疇でくくると同じ命なのに、この差はどこから来るのか。罪悪感をおぼえる生き物とおぼえない生き物、その境界はどこにあるのか。そしてどのような理由で境界はひかれるのか。境界をこしらえる視点は人間が恣意的に設定したものにすぎないのか。恣意的なものならモラルという観点からみてそれは正当化されうるのか。人間の認識はどこまでいっても恣意性からのがれられないのか。
 そんなことがちょっと気になる梅雨の最中の出来事。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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