Nonfiction

読み物

Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

溶ける海

更新日:2019/07/10

 四月下旬から犬橇訓練の総決算として、一カ月ほどシオラパルクの村を離れて北に約二百キロほど離れたフンボルト氷河という巨大氷河の近海まで旅をしたが、今年春のグリーンランド北部は四月から季節外れの暖かさがつづき、海の結氷状態が非常にわるかった。
 グリーンランド北部の旅はこれで五回目。私は毎年、氷床を越えてグリーンランドとカナダ国境間の海峡周辺で活動しているが、海氷上には、これまでにお目にかかったことのない大きな亀裂がいくつも走り、北に向かおうとする私の心理を圧迫した。気温も日中は氷点より上、もっとも低くなる深夜から朝方にかけてもせいぜい氷点下十五度程度にしか冷え込まず、昨年の同時期とくらべると十度ほど高い。何しろ白夜で陽射しは強い。これだけ気温が高いと氷はみるみる融解し、氷の上につもった雪も湿って顎鬚海豹(アゴヒゲアザラシ)の皮でできた靴底もずぶずぶに濡れた。
 そもそも今年は三月から海氷の状態がわるかった。風速二十メートル級の強烈な北風が連日つづき、海に発生した大きなうねりで真冬に形成された海氷がばきばきに破壊され沖に流されていく。シオラパルクの村で犬橇訓練しているときも毎日のように強風で氷が流され、数日前までは何の問題もなく行けた岬や沖合にも近寄れなくなった。この異常なほどの大風の連続で、私の旅の舞台となるグリーンランドとカナダ間の海峡も結局、結氷せず、衛星画像で確認すると、全体的に青い海面が出ていて沿岸しか氷は張っていない。海峡の真ん中が思いっきり開いてしまっているので、沿岸の凍った部分も非常に不安定で、潮や風の状態によっては流出しかねない状態だった。
 案の定、旅の最終盤はスリリングなものとなった。
 往路はまだ、海氷の亀裂の真ん中で海面が露出してしまっている幅は五十センチほどしかなく、慎重に安全確認して嫌がる犬たちの尻を叩いて強引に誘導すればわたることができた。ところが旅の途中で沿岸の氷盤全体が沖に数十メートルずれてしまっていたらしく、帰りは同じ亀裂の幅が五十メートルほどに開いてしまっていたのだ。
 亀裂だけでなく、陸地と海氷の間も数十メートルにわたって海面が露出しており、もう海氷には下りられなくなっている。やむなく私は定着氷という、海岸にそってできる氷をつたって犬橇を走らせたが、定着氷は場所によっては海から巨大海氷が押し寄せて塞がり、行き止まりになっていることが多々ある。例年だと定着氷が行き詰まると海氷に下りればいいのだが、今年は定着氷の脇で海が完全に開いているので、下りたくとも下りられない。定着氷も進めず、海氷にも下りられないとなれば、正直お手上げだ。そうなると衛星電話も持ってないので救助も呼べないため、ふたたび北にもどってフンボルト氷河の近くから昔、地元猟師がつかっていたというオールドルートを探して村にもどるしかないが、そんなことをやっているとおそらく時間切れとなり、日本の協力者が最終連絡時刻をすぎても角幡がもどってこないと地元警察に通報して捜索活動がはじまるかもしれない。
 下手するとマスコミが騒ぎを聞きつけ、〈角幡さん、グリーンランドで遭難か〉の見出しが新聞の片隅に載るかもしれない。〈いや、これはマジでシャレにならん。定着氷よ、頼むから最後までつづいていてくれ!〉と祈るような気持ちで私は犬橇を走らせる羽目となった。
 幸いなことに、海氷はわるかったが定着氷のほうは良好で、毎年必ずどこかにある行き止まりポイントには遭遇せず、無人小屋のある安全な場所までもどることができたのだった。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

特設ページ

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.