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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

四歳児の日記

更新日:2018/12/12

 十年前に新聞記者を退職してフリーの物書きとなってから、行為と表現の相克について考えてきた。
 書くことを前提に行為をした場合、その行為は書くという表現に侵食される。たとえば私のように事後に本にして発表することを視野に入れて探検、冒険活動を行う場合、どうしてもその活動の最中に書くという余計な要素が入りこむため、こういうことしたら話として面白いんじゃないかとか、今自分はこの風景を見てこんな感想をもったことにしてそれを本に書こうとか、下手したらヤラセというか、自作自演に陥りかねない発想が頭の中に紛れ込んでしまい、行為の適切さを保つために苦労させられる。特に最初の本を書いた頃は、今よりも潔癖な考え方をしていたので、一人の行為者として、純粋で無償であるはずの、つまり行為のための行為であるべき自らの行為が、表現に侵食されるのが非常に不純な気がして、どうやったら行為の純潔性を保つことができるのか頭を悩ませていた。
 その一方で、こんなことに真剣に悩むのは自分だけではないか、これは話として面白いんじゃないか、こんな自らの存在否定につながりかねない裏舞台を嬉々として書くやつは自分以外にいないのではないか、との書き手としての嗅覚も働いたため、この話をネタにいろんなところでエッセイを書いてきた(今も書いている)。
 さて、この行為と表現の相克について最近、面白い新事実が見つかった。
 私の娘は今四歳、妻が今年の二月から毎日日記を書かせているのだが、娘も娘で、以前から文字を書くことに興味を持っていたせいか、特に嫌がりもせず就寝前にきちんと書きつづけている。日記をつけ始めてから半年以上、最初は「~をやった。たのしかった」という定型文しか書けなかったのが、今では文体も柔軟になり、まるで友人に話しかけているようなのびやかな表現で言葉をつづるようになってきた。
 その娘が今日の昼飯時に次のような発言をした。
「今日はねえ、幼稚園でせりちゃんと一緒に木の実をひろったの。どんぐりみたいなやつ。どんぐりひろってそれを日記で書いたら面白いかなーと思ったんだ」
 なんと! 娘は私とまったく同じ態度で行為をとらえている。これをやったら面白い日記が書けるという発想で世の中を見始めているのだ。思いっきり行為が表現に侵食されているではないか!
 たとえ四歳児の日記でも、書くという営為の下では、原稿用紙五百枚のノンフィクションとまったく平等、同じ土俵で戦っているのである。まったく書くとは恐ろしいことである。このまま芥川賞作家に突っ走ってもらいたい。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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