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Nonfiction

読み物

Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

歴史の現場

更新日:2018/05/09

 昨年末から今年にかけて大杉栄と伊藤野枝についての評伝や小説を何冊か読んだ。
 大杉といえば明治、大正期に活躍した有名なアナキストで、関東大震災後の混乱の最中に、妻の伊藤野枝、六歳の甥橘宗一とともに憲兵大尉甘粕正彦に惨殺されたことでも知られる。若い頃から社会主義に傾倒し、幸徳秋水や堺利彦らのグループに接近し、「近代思想」や「平民新聞」など刊行事業では当局から何度も発禁処分を食らい、デモや市民集会ではその場を混乱させた責任を追及され入獄をくりかえした。尾行する官憲の目を盗んでひそかに日本を脱出し、パリで中国のアナーキストと交流を深めるという、社会主義運動自体が違法だった当時としては危険極まりない旅を敢行している。
 彼についての本を読んだのは、彼の政治思想に共鳴したからではなく、その時代や世相を挑発するような自由奔放な生き方に関心があったからである。個人の徹底した自立を説き、実生活においても常識にとらわれることなくおのれの思想を実践した大杉は、私にとっては模範としたい生き方をつらぬいた人物の一人なのである。
 そんな〈プチ大杉マイブーム〉の最中だった昨年クリスマスのこと。妻の義父が鎌倉のわが家に遊びにきたので、葉山の和食屋に昼飯を食べにみんなで車ででかけた。その途中の道沿いに古くて趣のある二階建ての旅館風建築物があり、日影茶屋という看板が目に入った。その瞬間、ピンときた。もしかしたらこの日影茶屋はあの有名な「日蔭茶屋事件」の日蔭茶屋ではないか?
「日蔭茶屋事件」とは、大杉が仕事場にしていた日蔭茶屋で東京日日新聞記者だった愛人の神近市子に刺されて重傷を負ったという事件である。何事においても常識にとらわれない生き方を信条とする大杉は、もちろん異性関係においても〈フリーラブ〉という独自の思想を構築しており、それを実践しようとしていた。〈フリーラブ〉とは独立した収入のある男女が同居せず自由に恋愛すべきだという、まことに大杉にとって都合のいい考え方だった。〈フリーラブ〉の唱道者大杉は妻の保子がいながら神近と不倫し、さらに後に妻となる伊藤野枝に走ったところを神近に糾弾されて殺されそうになったという、はっきり言って自業自得な事件なのである。
 勘違いされては困るので一応ひと言添えておくが、私は大杉の生き方を模範としたいと書いたが、なにも彼の〈フリーラブ〉な生き方を模範としたいと思っているわけではない。もちろん〈フリーラブ〉への羨ましさがゼロだというわけではない。ゼロではないが、むしろそれより、このような不倫上等、浮気OKな理論を実践しようという、彼のモラルに対して挑発的というか、他人の目をまったく気にしない生き方に誰にも真似できない強さを感じる、というところだろうか……。
 こういう話題は語れば語るほどドツボにはまるので、続きにうつろう。
 日影茶屋を見たとき私は興奮した。なにしろ〈プチ大杉マイブーム〉の最中で、ちょうど鎌田慧による評伝『大杉榮 自由への疾走』を読んだばかりだった。たしか鎌田の評伝には〈日蔭茶屋〉は葉山にあると書かれていた。蔭が影に変わっているが、まずまちがいあるまい。大杉の波乱万丈な人生のなかで最も死に接近した瞬間は、刑務所暮らしでもなくパリへの脱出でもなく、まぎれもなく神近に首を刺されたその瞬間だったはずだ。その生々しい歴史的現場が今、目の前にある……。
 行きしなは昼食の予約があったので通過したが、帰りに立ち寄ってみた。日影茶屋に大杉云々の歴史を物語る資料や冊子はなかったが、土産物屋のおばさんに確認すると、やはりそこは当該日蔭茶屋でまちがいないという。大杉が宿泊した当時は旅館だったが、今はお客さんは泊めておらず日本料理を出す料亭として経営している。土産物を買い、中にある庭園を案内してもらった。手入れの行きとどいた時間の堆積を感じさせる庭園で、私はちょっとした歴史の現場に立ち会ったような感慨にひたった。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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